「……レイ……」
携帯電話を何度鳴らしても、レイは出てくれない。きっと待っていてくれて、待ちくたびれてしびれを切らして帰ってしまったのだろう。広いリビングの冷たいフローリングに膝から倒れるようにしゃがみ込んだ。両手に抱えたプレゼントやヴァイオリンが腕から落ちてしまっても、動けない。携帯電話も手からこぼれ落ちた。ドクドクと心臓が震える音が耳に響いて、何かしないとって思うのに、何もできない。
神社に行かなきゃ。レイに会わなきゃ。思っていても身体が反応できずにいる。
ドアのカギが開けられる音がした。みちるはビクっと身体を震わせた。しゃがみ込んだままで、立ち上がろうと思っても、動けない。
「………みちるさん?」
「……………レイ」
「ど、どうしたの?…そんなところで」
レイはコート姿のまま、同じようにコート姿で荷物に囲まれて床にしゃがんでいるみちるを驚いた顔をして見下ろしていた。
「びっくりして、……動けなかったのよ」
「ごめん。おじいちゃんに呼び出されて、ちょっと帰っていたの」
レイはみちるの周りにあるプレゼントの紙袋たちを一つ一つ取って端っこへと並べて行った。そして、まだ動けない茫然としたままのみちるに抱きついて来てくれた、
冷たい頬。冷たい髪。レイの吐息が耳にかかる。
レイがこんなにも傍にいてくれて。
「……お帰り、みちるさん」
「レイ」
「遅くなったけど、誕生日おめでとう」
「レイ」
「とりあえず、部屋の暖房をつけるから、コートを脱いで」
「レイ」
名前しか呼べない。引っ張って立たされると、コートを脱がせてくれた。
「お腹一杯でしょうし、疲れているだろうから。もう遅いし。お風呂入って寝る?」
「………レイ。ずっと待っていてくれたのでしょう?」
「いいの。火を通していないから、明日になっても大丈夫。というか、味そのものには自信ない」
みちるのコートと自分のコートを手にして、寝室へとレイは消えた。改めて綺麗にセッティングされたテーブルを見てみる。そして、キッチンを覗いてみた。ほのかにおいしそうな匂いが鼻腔をくすぐる。
今までの、ずっと長い間休みをほとんど取らずに働いてきた身体が欲しがっていた、優しい匂いだった。
「お風呂、沸かしてきたから」
レイが背中に声をかけてくる。みちるは振りかえって両手を広げた。
「レイ」
「……そこ、寒いから。こっちにきて」
広げた両腕を取られて、ぐっと抱き寄せられる。冷えた唇が頬に触れた。抱きしめられながら、唇を重ねて、チークを踊る様に、ゆっくりとリビングに向かう。
冷えた身体に与えられた熱が眩暈を起こす。みちるはレイの唇を貪るように求めた。
「明日、何時からお仕事?」
お湯が溜まったというアラームが鳴り、それを合図にしてレイの唇を一度放す。レイの掌はみちるのスーツのボタンを全てはずしていた。
「明日と明後日はお休みなの」
「本当?」
「嘘なわけないでしょ?レイと一緒にいたくて、無理やりに休みを取っていたの」
「もっと……早く言ってよ」
「タイミングがなくて」
「じゃぁ、ずっと一緒にいてくれるの?」
シャツを握りしめてくるその指先の震えが、素肌に伝わってくる。レイの頬を両手で包み、唇を塞いだ。
「いるわ」
「お願い……抱かせて」
なぜ、あの時に自分のことを好きか、なんてつまらないことを口にしたのだろうか。レイがこんなにも愛してくれていることは、出会った頃からわかっていたと言うのに。
信じるということだけがすべてなのだ。
ただ、それしかできない。
「レイ」
愛することより、愛されているということを信じることがこれほど重いものとは思わなかった。
「私、みちるさんのことが好きよ。誰よりも何よりも、世界でみちるさんだけが好き」
それは、レイが付き合う時に告白してくれたときにくれた言葉と同じセリフだった。
「私を抱いて、レイ」
朝になるまでレイの愛が降り注ぎ、久しぶりに心地よい眠りに落ちた。レイに抱かれたのがどれくらい久しぶりなのだろうかと振り返っても、思い出せない。それくらいずっと、レイに抱かれずにいた。
「……後悔してるわ」
「何を?」
「もっと、ずっとレイに抱かれていたいもの」
「……仕事でしょう?みちるさん、本番があるときはセックスしてくれないし」
レイはさらりと言って、みちるの足の間に顔をうずめた。何度も高みに追いやられ、上り詰め、果てて。それでも朝を迎えて目が覚めたら、すぐにレイが身体を寄せてきてくれる。何度でもレイの愛が欲しい。
「ん……わかって…たの?」
「わかっていたわ。でも、私は人前で演奏なんてしたことがないから、その大変さなんてわかってあげられない。そっちのことを気にしているのも、仕方ないだろうなって」
うずめた指が、確実に弱いところを責める。緩慢に、じらしながら。
「………本当は、そう言うことをしている自分が嫌だったの。でも、仕方ないっていう気持ちがどうしても…」
言い訳をいくつ並べても、事実は一つだけだ。レイを想っていても愛していても、愛されていても、自分の都合で振り回していた。
「わかってる。でも、寂しかったの。辛かった。口に出して説明をくれないから。言えないことって思われていることも……」
「かわいそうなことをしているっていうことは、わかっていたの……でも、レイに触れていないと怖くて」
身体中に刻みつけるように、赤い印があちこちについている。舌を這わせ、乳房を愛でる。みちるはレイの背中にしがみついた。身体が指に踊らされて、小刻みに震える。みちるはレイにしがみつくだけだ。
「………あっ…っ」
跳ねた身体をきつく抱きしめられ、ずっとこのままでいたいと強く願う。
「みちるさん、私のこと、好き?」
快楽の中にうずめられたレイの指を溶かしてしまえたらいいのに。
何もなくても、レイだけがいればいいと、信じる強さがあればいいのに。
「好きよ」
「もっと言って」
レイのまなざしは、とても強くて揺るぎがなくて、嘘などつけやしないだろう。
「あなただけが好きよ」
「私が抱きたいっていつも思っていることは、忘れないで」
「わかってるわ」
「愛していること、身体に刻んでおいて」
「刻みつけられたじゃない」
「足りてないと思うわ」
「……じゃあ、もっと欲しい」
「したけど、そろそろ体力が……」
朝まで愛されて、起きてからも何度も高みに追いやられて。レイはみちるの身体に乗ったまま、力尽きたようにその真っ白な裸体を預けてきた。
どちらの息も荒い。レイの背中をさすりながら、冷えてしまわぬように布団を引っ張る。
「………みちるさん。あんまりおいしくない料理、そろそろ食べない?私、昨日のお昼から、まともに食べてないのよ」
「ごめんなさい。食べないで待たせていたのね」
おぼつかない足取りのまま2人でゆっくりお風呂に入り、服を着替えた頃には、お昼をとっくに過ぎていた。
「レイとゆっくり2人で食事なんて、本当に久しぶりね」
「そうよ。付き合ってから、まともに家で食事する機会なんてなかったもの」
「レイの手料理っていうのも」
「まずくても、顔に出さないでよ」
何もかもを既製品に頼らずに作ったというラザニアと、オニオンスープ、手作りのドレッシングの添えられた彩のたくさん入ったサラダ。
「……もっと凄いものが出てくるって思ってたでしょ」
「いえ。レイって料理をちゃんとできないって言っていたから驚いているわ」
「全然、得意じゃないわよ。特にカタカナのつくものは、うちでは作る必要もないし。いつ帰ってくるのかわからないから、生ものとかを避けた結果のメニューになっちゃったの」
レイと向かい合って腰を下ろし、こんな風に過ごせることがどれだけ幸せなことか。
「嬉しいわ」
「食べてからにして」
恥ずかしそうに、レイはシャンパンをグラスに注いでくれた。
「おめでとう、みちるさん」
「ありがとう」
贅沢っていうのは、こういうものだと思う。愛する人の顔を眺めながら、愛されているということを感じながら、身体中をその愛で満たされて。
「おいしい」
「そう?普通だと思うんだけど」
「おいしいわ。本当においしい」
「……泣くほど?」
「……幸せすぎて。もっと、ずっとレイとこんな風に一緒にいたいのに、できなくて。本当、ごめんなさいね」
優しい夜明けを毎日2人で迎えられたら。ずっとそんな日が続けばいいって思うのに。
「まだ明日もあるし。明日はみちるさんの料理を食べさせてもらうんだから。泣かないで。ずっと傍にいるから。ずっと愛してるから。みちるさんを信じてるから」
今は陽が落ち始める時間。それでも、レイと贅沢な時間が持てる。また月曜日が始まれば、お互いに別々の場所に行く。また、すぐに会えない日々が始まる。
それでもレイを信じていれば、レイを悲しませることなんてしないで済む。
不安を抱くこともなくなるだろう。
「私もレイを愛しているわ。誰よりも。何よりも」
誰よりも
何よりも
あの時に覚えた不安を、今はもう感じなかった。
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