【緋彩の瞳】 傷跡 ③

緋彩の瞳

ポイ捨て小説

傷跡 ③

4月17日、大阪にいるみちるさんからの電話は夜中の2時ごろかかってきた。あのバレエのダンサーが聴きに来ていて、スポンサーの人も交え食事をしていたらしい。
「何か、変なことされなかった?」
『大丈夫。ごめんなさね、遅くなって』
「疲れた声」
『演奏だけでも緊張するのに。楽しくもない食事に付き合うのはちょっとね。レイに電話しなきゃいけないのに、なかなか解放されなくて』
ホテルの一室にいるというみちるさんは、しゃべることも辛いと言った疲れた声だった。レイは仲間に誕生日を祝ってもらい、みちるさんがいないことが寂しかったと伝えようかと思ったが、みちるさんに言ったところでどうしようもない。
「ゆっくり休んで。明日帰ってくるのでしょう?」
『えぇ』
「プレゼントありがとう。おうちに届いてた」
『今度の休みに付けてね』
みちるさんからは、すごく高そうなランジェリーが送られてきた。4月17日必着と書かれた郵便物。会ったときでもよかったのに。
「すぐ、脱がすでしょ」
『ちゃんと堪能するわよ』
メッセージカードには、愛してると言う言葉だけが添えられている。今すぐ会いたいし、ずっと傍にいたいと願っても、受話器の向こうで疲れた声を出すみちるさんには言わない方がいい。
「来週のお休みに」
『えぇ』
「もう寝て。ちゃんと休んで」
『そうね。誕生日おめでとう。遅くなってごめんなさい』
「ありがとう。大丈夫」
『愛してるわ』
「知ってるわ。私も、ずっと」


ずっと、愛してる
ずっとずっと、愛してる






何かをしたいと考えつかない。ぼんやりと頭は重たくて、目を閉じるとすぐに眠ってしまう。起きたらお昼ご飯を食べて、腕を動かすリハビリを少しして、またぼんやりとソファーに腰を下ろす。音楽を聴いても特に興味はそそられない。本を読んでみようかとも思ったが、恋愛だの哲学だの、そういうことが頭に入ってくる自信もない。散歩をして回るほどの気力も今はない。みちるさんはダイニングで夕食の下ごしらえをしている。きっと夜も、とても手の込んだものが出てくるに違いない。目を閉じるとクラクラする。飲んでいる薬の影響かもしれない。何かをしたいと思わないのに、なぜ生きていかなければならないのだろう。
この傷が癒えて、自由に動けるようになったら、何をすればいいのだろう。
どこへ行けばいいのだろう。
通っていた記憶がない学校に通い、住んでいた記憶のない場所に住み、着た覚えのない服を着て、会った記憶のない人たちの中で、“火野レイ”として生きていくことしか、道はないのだろうか。
それ以外の道なんて、どこにもないのに。それが正解かどうかなんて、今の自分にはわからない。でも、周りにいる人たちがそれを望んでいる。

火野レイが戻ってくることを
火野レイが生きてゆくことを
“今まで”の通りにと

“今まで”を何一つ知らない、今の火野レイにそれを望んでいる






「……また」
しつこく電話がかかってきているけれど、のらりくらりとかわしていた。だが、スポンサーの関係者でもあり、みちるの事務所に所属しているアーティストの中には数億する楽器のスポンサーをしてもらっている人もいて、無碍にしない方がいいということはわかっている。相手がマスコミを遣ってバレエの宣伝のみならず、みちるとドウコウなりたいということは明らかで、事務所とみちるも困っていた。レイには言わないで、何度か事務所の人間も交えて食事には付き合ったし、観に来いと言われて、致し方なくバレエを観に行くこともあった。
そしてまた、あからさまに2人になる瞬間を見計らって撮られた写真が雑誌に載ることになった。作曲の期限も差し迫り、心に余裕のない日に事務所から連絡が入り、事務所側はスポンサーサイドから、「友人と聞いています」という強く否定しないコメントを出すようにと言われたという。
レイに電話をして、事情を説明した。何時に帰れるかわからないが、レイはマンションで待ってくれるらしい。5月に入り、レイと顔を合わせるのも1週間に1度になった。来週は休みを返上してレコーディングがある。
「みちるさん、ダンサーに相当好かれているんじゃない?」
「興味ないわ」
「そうかもしれないけれど」
「こりごりなのよ。スポンサーに気を遣わなきゃいけない事務所の事情もわかるの。でも、やり方が気に入らないわ」
「………そう。かわいそうに、みちるさん」
レイはあまり詳しくは聞いてこなかった。夜も遅い。明日の朝も早い。しがみつくように抱き合って寝るだけしかできなくて。来週も会えない。レイはテスト期間に突入し、恒例の勉強会があるために神社に戻っている。マンションで寝泊まりしてくれて、一目、毎日会えるだけでもと思ったが、お願いもできそうにない。

その次の日、抵抗するみちるの願いなんて聞き入れられることもなく、また熱愛スクープ!みたいなコメントの入った雑誌が発売された。レコーディングスタジオに籠っていたみちるの携帯電話には、いろんなところから着信があり、はるかやせつな、美奈子たちからもあった。レイから説明をしてもらうしかない。




「聞いてる?電話したけど、出ないよ」
「今、レコーディングしていると思うわ。今週来週とずっとよ。期限が迫っていて切羽詰ってるみたい」
放課後、はるかさんが雑誌を持って神社に来た。勉強会のお手伝いなんて頼んでいないのに。きっと、気になって仕方なかったのだろう。美奈子も雑誌を手に慌ててやってきた。勉強どころではない
「レイちゃん、これさ、前と違って否定的なコメントはないよ」
「事務所がね、スポンサーに気を遣っているって言ってたわ」
レイちゃんは美奈子から雑誌を受け取り、みちるさんから聞いているからとちょっと余裕の笑みを見せている。
「ま、ここの会社はそうだろうな。億単位の楽器のスポンサーもしているし、ホールを日本の各地に持ってるし、芸術関係には手厚いことで有名なんだよ。ダンサーは副社長の息子だって」
要するに、みちるさんもレイちゃんという愛する人がいようとも、巨大な企業には敵わないということらしい。まぁ、どうやらダンサーから好かれていることは間違いではない。
「………昨日、聞いた話とちょっと違う」
文章を読んでいるレイちゃんの目が上下しているのが止まった。
「え?違うの?」
「何度も食事に行って、バレエを鑑賞しに行ったなんて、そんな報告はされていないわ」
眉をひそめて、その顔は明らかに怒っていることを物語っていた。
「イチイチ、言うのが面倒なんじゃないの?そもそも行きたくて行ったわけじゃないだろうしさ」
「そうかもしれないけれど、こっちは一応、毎日夕食前に連絡を待っているのよ?行くなとは言わないけれど、仕事としか聞いていないわ。バレエの鑑賞だって、それならそれで連絡をくれたらいいのに」
「でも、無理になったっていうことは連絡もらうんでしょ?レイちゃんに、余計な心配をかけたくないだけだよ」
逐一誰と会うと連絡をするほど、みちるさんがマメな人だと思わない。みちるさんの中では、ダンサーと食事を取るのも、バレエを観るのも仕事と同じ名目なのだろう。その程度の相手なのだ。でもレイちゃんは、たぶん、行くことが悪いのではなく、みちるさんがレイちゃんに対して何も言わないということを、やっぱり気にしているみたい。
「あとから知らされるのは嫌だと、一度伝えたことがあったのに」
「心配かけたくないだけだよ、レイちゃん。みちるさんも、レイちゃんしか見えてないんだし、そんなくだらないことで、レイちゃんの機嫌を取る必要だって、ないじゃない?」
「…………美奈は、くだらないって思うわけね」
「いや、その」
これくらいのことで、と思う。だけど、最近のみちるさんはすごく忙しいらしく、まともにデートをしていないということは、レイちゃんから2か月くらい前に聞いていた。レイちゃんの誕生日の夜、このダンサーと食事をしていたということも。みちるさんが酷く疲れた声で、レイちゃんに謝っていたんだと言う。元から責めるつもりもないし、怒ったり拗ねたりなんていうこともしようとは思わなかったと。
ずっと、傍にいるのだから、忙しい時期があるくらいは大したことではない。大人のレイちゃんは心配するうさぎや美奈子たちにそう言っていたけれど、そういうことを言う時点で、レイちゃんは自分にそう言い聞かせているんだと気付くべきだった。
「私は、みちるさんの言葉を信じるしかないの。それだけしか頼るものがないわ。だから、ちゃんと大事なことは伝えてほしいと言ったの。別に食事に行くなって言わないし、デートしなきゃいけないなら、したらいい。それも仕事だっていうのなら、私はそれを信じる。ただ、ちゃんと言ってほしいだけよ」
みちるさんとレイちゃんは確かに愛し合っていて、仲間もそれを認めていて、心から応援している。結婚もできないし、お互いの遺伝子を受け継ぐ子供を産むことも望めない。それでもただ、愛しているから傍にいる。それだけのこと。
お互いを信じ続けることしかできない。だから、ちゃんと知りたい。レイちゃんはそう考えている。
「みちるも、仕事で疲れているんだろうからさ。落ち着いたら、ちゃんと話をすればいいよ」
「………わかってる」
「別れたいとかそんなんじゃないだろ?浮気どころか、みちるのことだから相手を毛嫌いしてるだろうな」
「浮気なんて、まったく考えてないわよ」
はるかさんはレイちゃんの頭をポンポンと叩いて、とにかくテスト勉強だな、と雑誌を閉じた。レイちゃんは別れたいと思ってないという返事をしたわけじゃないのに、誰もそれを気にしていない。
大丈夫だろうか。美奈子は参考書を広げながらも、苦しそうに眉間にしわを寄せたままのレイちゃんが気になって仕方なかった。





「和食、作れるんですね」
「意外だった?」
「習ってるんですか?」
「本を読んだり、人に聞いたり」
お腹が空いたわけではないが、夕食だと言われて椅子に座ると、巻寿司やひじき、赤だし、天ぷらと、豪華な料理が並べられていた。
「いい匂いだったのは、これですね」
醤油の匂いは、鯛の煮つけだったみたいだ。
「ほぐして、お皿に取り分けてあげるわ」
みちるさんは骨から身を丁寧にほぐして、食べやすくしてくれた。巻寿司なのは、手で食べやすいからなのだろう。
「みちるさんは、ご家族と住んでいるんですか?」
「今は1人よ。15になってすぐに出て2年半くらいね」
「1人なのに、ちゃんとご飯作れるんですね」
「気分転換にもなるから。忙しい時は外で済ませることもあるわ」
「恋人に作るとかは?」
みちるさんはお箸を動かす手をピタリと止めた。
「聞いてはいけなかったですか?ごめんなさい」
別に知りたいわけじゃない。何か話をした方がいいかな、と思っただけ。この人の人間関係を知りたいということじゃない。でも、そういう説明はしない方がいいだろう。
「ちょっと前までは、ね。愛している人はいたわ」
「そうですか。いいですよ、もう聞きません」
確か、いろんな人からみちるさんのことを分からない?と何度も聞かれたけれど、レイは恋の悩みを聞いたりする仲良しだったのだろうか。でもそれを聞いたところで、今のレイにそれができるとも思えないし、親身にするフリすらできない。
「そう?レイの自由にしたらいいわ」
この人はレイが入院している間、頻繁に来てずっとベッドの傍にいた。身内でもないのに、身内と名乗る人よりも、レイのお世話をしてくれている。
どうしてそこまでしてくれるのだろう。仲が良かったとしか言われないけれど、それは今のレイじゃないレイだ。今のレイに優しくしても、何も見返りなんてないのに。
聞きたいことも知りたいこともない。もう、何もない。
焦りや不安すら、何も生まれてこない。
何かを知識として持っていたいという気力は、まだ、芽生えてこない。
「………また、何か、聞きたくなったら質問します」
「そうね」
「はい」
「あと、できればその、敬語はもうやめてもらえないかしら?一緒に生活をして行くのだから、気を遣うことなんてないわ」
「わかりました。あ、いえ。わかったわ」
みちるさんはにっこりと笑顔を見せてくれたので、レイもマネをして笑って見せた。それが正しく笑顔だと認識をしてもらえたかどうか、わからない。レイからしてみたら、見知らぬ人にお世話になっているから、言葉くらいはと思っていたけれど、不要と言われたら従った方がいい。
「レイ、いつも笑っていて。かわいいわ」
「………じゃぁ、何か面白いことを見せてくれたら」
楽しいことなんて何もないのに、どうやって笑っていればいいのか。分からないけれど、そういうことを言っても、この人には何もできないし、この人が悪いわけじゃない。
「それは……難しいリクエストね。美味しいって言ってもらえるようなものを、毎日作るから、それで許して」
「じゃぁ、それで」
きっと明日の朝からまた、沢山の料理が並ぶ。それでも、この家でやらなければならないことのメインイベントは食事なのだから、手間をかけてもらうことに感謝しなければならない。
もっと他にやるべきことはあるかもしれないけれど、やりたいことなんて何もない。
ただ、食べて寝る。繰り返すだけ。
その先に何があるかなんて、何もわからない。





気が付いたら、5月は終わっていた。もともと、5月は毎年忙しい。今年はそれに輪をかけて忙しかった。6月に入れば少しは余裕が見えてくるかもしれないと思っていたが、仕上がったばかりの曲のCMが作られて、流れ始めるのが6月末、そのころからCD発売のイベントや演奏会の予定がある。レイとは毎日夜遅くても電話で話をしている。レコーディング作業に時間を取られ、デートも会うこともほとんどできずに、気が付いたらもう6月に入っていた。それでも、休みの日になればレイはマンションに来てくれて、変わらずセックスをする。外食が続き、久しぶりにゆっくりと手料理を作れるからと、夕食の準備にかかり始めると、ずっと適当にあしらっていたダンサーから、自宅の番号にかかってきた。
「すみません、今日はオフなので」
相手は、みちるのオフを分かっていて電話をかけてきているようだ。レイが怪訝な顔をして、電話をしているみちるの様子をうかがってくる。髪を捕まえて、抱きしめた。早く切ってしまいたいが、穏便にしておきたい。
「いえ、そうじゃありませんが。その、今日は久しぶりに友人が家に来ているので。ゆっくりしたいんです」
どこで調べたのか、みちるのマンションの前に車を止めて待っているらしい。
「また、お仕事でご一緒したときに」
顔だけでも見たいなんていう、しつこい誘い。
「すみません、お料理の途中ですので。申し訳ありませんが、失礼いたします」
なおも粘ろうとする声に、みちるは電源を落として、コードを引っこ抜いた。
「……ダンサー、まだ頑張っていたの?」
「えぇ」
何か、付き合っている男にひどいことを言うなぁ、なんてよくわからない笑いをされた。オートロックでよかったと、思わずにはいられない。恋人がいるとはっきり伝えてもよかったが、相手のことを調べられたらレイを巻き込んでしまいかねない。それに、男の影を調べられたところで、出てこないのだから、嘘と言われる可能性もある。
「レイと一緒にいる久しぶりの休日なのに。本当、嫌になるわ」
「ダンサーって暇ね」
「道楽なのよ、きっと」
「…………事務所に言った方がいいわ。ストーカーされてるって。何でみちるさんの家の番号を知ってるの?まさか、教えた?」
「まさか」
「ずっと振り回されているじゃない。仕事の都合っていうのはわかるけれど、それはみちるさんが我慢しなければいけないことなの?」
「私だけじゃないわ。仕方ないのよ。うちの事務所に所属している、ほかの人たちにも影響が出てくるわ」
「だったら、事務所を変えたらいいのに」
「これくらいで?どこに行っても、変わらないわよ」
頬にキスをして、料理を再開させる。レイは不満げなため息を漏らしている。今までレイは、みちるの仕事について、苦言を呈するようなことをしてきたことはない。忙しくて会えないうえに、邪魔をされたことに流石にレイもちょっと腹を立てているみたい。
「久しぶりに会えたのに」
「ごめんなさいね。私も、今日くらいはレイのことだけしか考えたくないの。だからもう、忘れてしまいましょう」
「…………わかったわ。テストも終わったし、私また、ここにしばらくいるから。みちるさんが地方に行ってても、ここにいる。遅くなっても、待ってるわ」
「本当?嬉しい」
「うん。電話だけじゃ、みちるさんの様子もよくわからないし。顔を見ていないと安心できないもの」
「ありがと。毎日、レイを抱きしめて寝られるのね」


3日後、次に新聞記事になったのは、“お泊り愛”と、みちるのマンションの前で車に乗ったダンサーの写真が掲載されたもの。
あのオフの日に、意図的に撮影されたものだった。
みちるは事務所に対してきっぱりと否定をするようにお願いをした。清潔さを求めている事務所は、お泊り愛も恋人関係も否定した。ダンサーは被害者を装って、みちるに謝罪の食事なんかに誘ってくる。それが目当てだったのだろう。
レイに連絡をせずとも、家に帰れば待っていてくれる。新聞に載ると聞かされたのはその日の朝だった。どうすることもできなかった。事務所と話し合い、相手側の食事の要求は断りたかったが、事務所の社長と共に、結局行く羽目になった。レイの携帯電話を鳴らしてみたが、出てくれない。メールで、夕食には帰れないと入れた。

「………記事になるっていつ知ったの?」
「朝、もうすでに出た後に知ったわ」
「すぐにメールをくれたらよかったのに。みんな、本当に心配している」
「ごめんなさい」
「昨日の夜は?」
「話をつけに行ったわ」
「どこに誰と?」
「彼と、うちの事務所の人間を連れて。二度とマンションに近づかないようにと伝えたわ。対応次第で今後の仕事を断ることは伝えたわ」
「ダンサーと会うなんて、メールには書かれていなかったわ」
「イチイチ書く必要もないでしょう?会いたいと思って行ってるとでも?」
「………そうね。会うなとは言わないわ。教えてほしかっただけ」
朝から事務所の人間と言い争いをし、合間に仕事をし、レッスンをして、疲れた最後にダンサーに会い、レイにただ抱きしめてもらいたかった。レイの口調は明らかに腹を立てている。
「ごめんなさい。もう、辟易しているの。レイ、どんなことがあっても、私はレイの傍にいるわ」
「……わかってる。でも、そういうことじゃないの」
「じゃぁ、何?」
「…………いえ、いいわ。これはきっと、私の我儘だから」
理解をしてくれているレイに、甘えているということはわかっている。もっと、状況を詳しく説明してあげたほうがいいのだろうけれど、そんなことに費やす時間があるのなら、愛を囁くことに使いたい。
「土日のどこかでオフを取るようにするから。ゆっくりしましょう」
「………無理、しないで。身体も心配だわ」
時刻は夜の12時をとっくに過ぎてしまっている。セックスをせずに目を閉じた。求めたけれど、初めて拒否をされた。背中に抱き付いて、それでも体温を感じていられることが幸せだと思える。
そう思っていたい。



「……みちるさんと話はできた?」
「大変そうだから、もういいわ」
「いや、でもさ。みちるさんは悪くないかもしれないけれど、ちゃんとフォローしてくれてるの?」
「一応、たぶん。あの新聞報道があって、ダンサーと会って話をしたって。今回のことは完全に否定しているみたいだから」
「まぁ、何もないんだからそりゃそうよね」
美奈はわざと笑って見せてくれた。レイは笑わずにアイスコーヒーをかき混ぜるだけ。気にして、こうやって会ってくれる仲間がいるだけでも、四六時中纏まらない考えに悩まされずに済む。
「……私、自分がどうしたいのかわからないの」
「どうしたいって?」
「…………こういう不安を抱きながら、毎日みちるさんの帰りを待っているって言うのは、楽しいことだと思えないもの」
「そう本人に言えば?」
「忙しいのに、私の不満を聞かせるのも、悪いって思って」
「でもさ、それ、よくないよ」
「………でも、何が不安なのかさえ、よくわかっていないの」
信じていればいいと思っているけれど、レイが不安に思っている間にも、何も言わずにダンサーと会うようなことがあるのなら、次はどんな写真を撮られるのだろうかと、疑ってしまう。浮気をしているとは露にも思わない。だけど、ゆっくりデートをする暇が取れなくても、それを優先させるのであれば、一言欲しい。
でも、欲しいと思っているのは、レイの我儘なのだろう。
「別れたいとか、まさか考えてないよね」
「……今はね。ずっと続くわけじゃないから」
「みちるさんは、レイちゃんがいないと生きていけないよ?」
「うん、わかってる。でもちょっと、ね」
週末には大きなホールでゲスト出演として演奏があるらしい。新曲披露だと聞いている。いつも通り、聴きに行くつもりでいるけれど、一緒には帰れない。関係者へのあいさつ回りが終わると、帰るのは深夜になるらしい。
「初めから、少し距離を取って付き合っていればよかったのかもしれない。私、人と付き合うのが向いていないのかしら。寛大に黙って構えておくほど、人ができていないから」
「いや、普通の子なら最初の雑誌の時点で別れるくらいの喧嘩はするだろうけれどさ。なんていうか、喧嘩しておいた方がいいこともあるでしょ?レイちゃんが不安に思っていることが伝わらなきゃ、みちるさんだって辛いよ」
この騒動が落ち着くまで、少しみちるさんと距離を取るべきかもしれない。みちるさんも仕事のことで大変なのに、不満を抱いているレイの相手をすることは、迷惑に違いないだろう。
「美奈、土曜日は空いてる?」
「え?あぁ、みちるさんの?」
「一緒に来て」
「うん。最近全然みちるさんに会ってないし、聴きに行くわ」

6月の最終土曜日の演奏会は、あのスポンサー会社が深くかかわっていた。檀上にいるみちるさんに真っ赤なバラの花束を渡したのが、あのダンサーだった。みちるさんは本当に知らされていなかったみたいで、仲間の誰もが嫌がっていると一目でわかるような顔をしていた。だけど、ちゃんと受け取り頭を下げるあたりは、流石だった。
「……よし、僕が代わりにあのキザ男を殴ってきてやる」
檀上で頬にキスをされているところを見て、レイは顔を両手で覆ってうずくまった。海王みちると付き合っている以上、これくらい余裕の笑みを持って見ているべきなのだ。でも、次は新聞にどんなことが載るのだろうかと考えるだけで、また、あの嫌な空気の中を過ごさなければならないと思い、頭が痛かった。
「いいわよ、別に」
仲間たちは、レイに気を遣ってくれる。それすらも、何か重たいと思ってしまう自分がいる。
「とりあえず、楽屋に行くわ」
みちるさんは、きっとまた、何も知らされていなかったと詫びてくるだろう。あの頬をちゃんと洗って、代わりにレイがキスを落として、それで気持ちを切り替えるしかない。
「先客ですか?」
「えぇ。スポンサーの副社長とご子息がね。ほら、あのさっきの彼。海王さんはちょっと怒っているみたいだけど、うちの社長が穏便にって宥めているわ」
いつものようにみちるさんの事務所の人に名前を告げ、挨拶にと申し出ると、ダンサーという先客がいるために、断られてしまった。
「あぁ……。そうですか」
「この後、スポンサー主催のパーティがあるから、何も楽屋に来なくてもいいのに」
「え?あのダンサーとパーティ?」
「ご子息たっての希望でね。16歳の女の子相手に、23歳の男がパパを利用して……」
みちるさんは知っているのだろうか。いや、知っているはずだ。少なくとも、主催者が誰なのかくらいは。結局、そういう詳しいことをレイに伝えることなんて、意味のないことだと思っているのだろう。
「……そうですか。じゃぁ、私たちは帰ります。みちるさんに、よろしくお伝えください」
レイは頭を下げて、心配する沢山の目をすり抜けて会場を逃げるように出た。
「待って」
タクシーを捕まえようと通りに出ると、美奈が腕をつかんでくる。
「神社に帰るの?」
「えぇ。ちょっと、混乱してるから、落ち着きたいのよ」
遅くなっても、マンションで待っていようと思ってた。だけどもう、またレイからどうして?と聞くことも、疲れているみちるさんから言い訳を聞くことも、今は何もしたくはない。
「送ってく」
「いい」
「いいから」
美奈は強引にレイと同じタクシーに乗り込み、麻布十番方面と行先を告げた。
「………私から、話をしてあげようか?」
「いい。こういうことで、イチイチ不安になったり腹を立てる私が悪いのよ」
「でもあれは……普通に、私だって、気分いいものじゃないわよ。どうして前もって言ってくれないのって言いたくなるわよ。何だったら、気分悪い思いをさせるから、来ない方がいいって言ってくれたっていいじゃない、ってさ」
「いいの、別に。美奈、ごめん……。ちょっと、もういいわ」
美奈が代わりに気持ちを伝えてくれたところで、レイのこの不安はレイだけのもの。みちるさんだって、あんなことをされるなんて想定外だったに違いない。話題に出したいことでもないかもしれない、もう、終わったことだと切り替えてしまえばいいのだ。
そう、明日にさえなれば過去になる。パーティも終わってしまえば、過去になる。何事もなかったように接して、この痛みが消えてなくなるのを待つしかない。

痛い?
そう、痛い。
初めて、心がチクチクと痛いと思った。



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Date:2015/02/11
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