【緋彩の瞳】 傷跡 ⑤

緋彩の瞳

ポイ捨て小説

傷跡 ⑤

「レイ?」
夜遅くマンションに戻ると、部屋の明かりはすべて消されていた。静まり返っている。梅雨時の独特の重たい空気だけがみちるを包む。愛のある空気が肺に入ってはこない。
「レイ?」
ベッドルームにも、バスルームにも、どこにもレイはいない。マンションに戻ってきていないようだ。
両手の荷物を下ろして、携帯電話を確認したがメールも着信もない。リダイアルからレイに電話を掛けた。
「遅くにごめんなさい、レイ。神社にいるの?」
『………えぇ。ダンサーとのパーティはどうだった?』
「疲れたわ。檀上のあれ、私は何も知らなかったの。嫌な思いをさせてごめんなさい」
それで怒って帰ってしまったに違いない。楽屋に来てくれたらしいけれど、事務所の人が帰したから、余計に。
『また、今度はどんな記事になるかしらね』
「させないわ。させたら、すべての仕事をキャンセルして、他のヴァイオリニストに代わってもらうって言ってるから」
『そう。私、もう寝るわ。明日の朝、おじいちゃんのお手伝いで早いから』
「…………レイ。あの檀上のハプニングは、本当に」
『知らなかったっていうのは、観ていてわかったわ。でも、ごめんなさい。そのことじゃないの。少し、混乱しているの……時間が欲しい』
浮気を疑っていると言う様子ではない。身の潔白はレイにはちゃんとわかってもらえているはずだ。それでも、仕事ということでレイの感情を振り回していることが、きっと嫌なのだろう。
「わかったわ。電話はしてもいい?」
『……こっちから掛けるわ。明日もお仕事、がんばって』
「えぇ」
『お休みなさい』
「お休みなさい。愛してるわ、レイ」
声に出しておかなければ、気持ちが落ち着きそうにない。
『………私も、ずっとよ』

ずっと
ずっと愛してる
ずっと愛し合っていられる



雑誌記事に、踊らされていると言うつもりはない。
みちるさんはヴァイオリニストで、付き合う前からお仕事をしていた。その姿は誇らしさもあった。つまらない自分自身の中の不安など、何も悪いことをしているわけじゃないみちるさんからしてみたら、鬱陶しいだけだろう。
だけどまだまだ子供のレイには、さらりと受け流す程の器量さはなくて、みちるさんにフォローしてほしいという気持ちを我慢し続けることも疲れた。
みちるさんの仕事や特殊な環境を分かってあげて、信じ続けて、何も言わずにいられるようになんて、今のレイにはなれそうにない。みちるさんの仕事のリズムにすべてを合わせ、レイが会いたいとか抱きたいとかそういう気持ちを殺して、ただ、みちるさんを支え続ける。忙しくなり始めたころはそれくらい大したことではないと思っていた。たぶん、あのダンサーの存在さえなければ、今もマンションで一緒に生活をしていただろう。
でも、あれ以来、心に落ちた一滴の不安がずっとぬぐえない。
レイが会っていない間に、みちるさんはどこで誰とどんなことをしているのだろうか、と。今までは仕事で誰とどこで何をしようと、笑顔で見送っていられた。
どうしてそれが、苦しいと思うようになったのだろう。
みちるさんに安心させてほしいって、そんな我儘を押し通して、迷惑をかけることはしたくない。
レイと一緒になる前から、みちるさんはヴァイオリンを愛していた。どっちが大事か、何ていうことじゃない。そういう気持ちを持ったレイが、傍を離れるべきなのは明らかだ。彼女の奏でる音色をレイは愛している。世界に必要とされている。
このままだと、いつか耐えられなくなり、みちるさんを責めたててしまうだろう。罪のない人を悩ませたくはない。寛大な思いでみちるさんを包んであげられる人に、なれたりしない。みちるさんにはそういう人が必要なのだ。
何もかもを求めて、縛り上げて、すべての時間をレイのものにできたらいいのになんて、そんなことをどこかで思っている。この想いが、みちるさんを苦しめるのは間違いない。
神社に戻った次の日から、電話を掛けると言っておきながら、連絡を取れずにいた。みちるさんからはメールも電話も来ていたけれど、出なかった。
学校に行けば、最近みちるさんのファンになったとかいうクラスメイトが、あの檀上での仲睦まじい様子を、熱々の彼氏なんて言って騒いでいる。否定するコメントが出されようとも、世間はそうは思っていないことはよくわかった。でも、みちるさんには何もなす術はないだろう。否定した直後にあんなシーンを見た人は誰でも、カップルとしか見ないに決まっている。別に、それに腹を立てたりはしない。侘しいというか、空っぽな気持ちというか。心の余裕を持っていられなかった自分自身に腹が立つ。




「レイは?」
「え?わぁ、珍しいね。忙しい有名人がここに来るとは」
電話にもメールにも、レイは応えてくれなかった。7月に入り数日が過ぎた。久しぶりの休みに、学校帰りを見計らって、クラウンを覗いてみた。ここに来なければ、神社に行くしかない。レイが何かみちるに対して想っていることくらいはわかる。
仕事のことだということくらい。
「午後から休みなのよ」
「レイちゃん、もうすぐ来るよ」
美奈子の前に腰を下ろして、コーヒーを注文した。
「忙しい?」
「えぇ。この前は来てくれてありがとう」
「うん。あれ、あの人、一体何者なわけ?スポンサーの関係者とかって聞いたけどさ」
「CM会社の血筋でね」
「あぁ、だから出演しているんだ。あれ、気に入られているよね?」
「それとなく、お断りをしているつもりなの。年下にしか興味がないって言ったわ」
レイ以外に興味なんてない。レイと会ってゆっくり話をしたい。いろんなことをきっと、我慢させているはずだ。本当はみちるを責めたいのかも知れない。だけど、みちるはみちるなりに最善を尽くして対応してきた。事務所や相手の会社のこともなるべく考えて、穏便に時が過ぎるのを待つしかない。
「レイちゃんへのフォローはできてるの?あの日、頭抱えてすごく落ち込んでたわ」
「仕事の都合で無碍にできない相手だって言うことは、伝えているわ」
「いや、そうじゃなくて。毎回毎回、どれくらいちゃんと話をしていたの?食事に行くとか、バレエ観に行くとか、パーティにもあの人が来るとか、そういうこともちゃんと話してる?レイちゃん、知らされていないって、何も聞いてないって言ってた。みちるさんにとっては、ただの仕事関係者だろうけれどさ、レイちゃんからしてみたら、貴重なみちるさんとの時間を奪う邪魔者でしょ?ましてや周りは勝手に彼氏だってはやし立てているんだから。不安しかないに決まってる。レイちゃんが一人で待っている間、その人と会うなら、些細なことでも、ちゃんと説明してあげるべきじゃない?」
レイはそういうことを美奈子に相談しているのだろうか。それとも、客観的にレイがそう思っていると推測していることなのだろうか。
「レイは仕事に口を出す子じゃないわ。私だって、好きで食事をしたわけでもないし、バレエに興味なんてないわよ。急に決まることだってあるわ」
「行ってきた後にでも、言えばいいでしょ?面倒だった?」
「………レイとそんな話をする時間が、もったいないわ。楽しいことでもないのに」
クーラーのよく効いたフロア。
暖かいコーヒーの苦みが喉をひっかいた。
息が苦しいと思う。
美奈子に言われなければならないなんて。
「みちるさんが付き合っている相手は、火野レイよ。あの人はみちるさんを責めたりする人じゃない。レイちゃんはたぶん、自分を責めてる。だから、レイちゃんの親友の1人として、私はみちるさんに文句を言っておく。私がみちるさんの恋人なら、きっと大喧嘩してる。そんな、3流雑誌をにぎわせる相手の顔色を伺って、バレエを観に行ったことを黙っていたなんて、きっと頬っぺた叩いてるわ。17歳の女子高生と付き合っているのよ。30過ぎた仕事をバリバリしているそこそこ人生経験を積んだような人間と付き合っているわけじゃないの。何でもかんでも、分かってもらえるなんて思わないでってね」
何も言い返せなかった。その言葉をレイから直接言われたら、素直にごめんなさいって言えたかもしれない。でも、レイは口にしたりしないだろう。美奈子の言う通り、レイはみちるを責めたりする性格じゃない。きっと、不安な想いを殺して飲み込もうとして、息ができなくなって、みちると会ってくれなくなったに違いない。
「………そうね。私がちゃんとレイを安心させる努力をするべきね」
「うん。レイちゃん、本当にみちるさんのこと愛してる。愛しすぎてると思う。嫌いになって別れるより、その想いは厄介だよ」
入り口のカウベルが響いた。うさぎとの姿と、久しぶりにレイの顔が見える。
「あ!みちるさんだ」
大きく手を振るうさぎに、みちるは軽く手を挙げた。レイはどうして?と言った顔をしている。立ち上がり、コーヒー代をテーブルに置いて、レイへと近づいた。
「お帰りなさい」
「みちるさん、お仕事お休み?」
「えぇ。連絡が取れないから、ここにいないかしらと思って、待っていたの」
「そう」
「場所を変えて、2人で話がしたいわ」
「そうね」
「うちに来て」
目の下にできたクマ。疲れた顔色。みちるは頬を撫でてレイの鞄を奪った。
「みんな、またね。ちょっとレイを借りるわ」
梅雨明け宣言もそろそろだろう。外はムシムシと暑い。タクシーに乗り込み、レイの手を引いてマンションに帰った。


「みちるさん、シャワー浴びてくる」
「どうぞ。あとで私も浴びるわ」
制服のブラウスにじんわりと汗をかいていた。クーラーを効かせているリビングから、すぐにバスルームに逃げる。もう、何も思い悩むことなんて本当はない。いや、こうやって憂鬱な気分を携えている人と、みちるさんは付き合うべきじゃない。そのことを話さないといけない。ずっと愛していても、傍にいない方がいい。いつかもっと、みちるさんを苦しめてしまうくらいなら離れていたい。
でもそれは言い訳。

レイがもう、こんな憂鬱から解放されてしまいたいのだ。

シャワーを浴びて、残している服を整理した。みちるさんがいない間に少しずつ私物を持って帰っていた。季節ごとの服はすべて持って帰り、紙袋1つ分の下着やワンピース。これがここに置いてあるすべてだった。みちるさんにプレゼントでもらった下着は今付けている。
「レイ」
「ん?」
バスローブ姿のみちるさんは、部屋で荷物を整理しているレイの手首を捕まえて、そっと抱きしめてくれた。
「ごめんね、いっぱい不安な思いばかりさせていて」
「………みちるさん」
「怒っているのでしょう?悲しい想いもさせているでしょう?」
その感情がその通りなのかはわからない。でも、ずっとこのままではいられない。2週間会わないでいる間に、消えてしまわないだろうかと思った。
でも、消えなかった。
「みちるさん、……したい」
この身体に触れて欲しいと願うのはみちるさんだけしかいない。過去も未来もずっと、ただ1人だけ。未来は何もわからないけれど、これほど愛しいと思う人なんてもう現れたりすることはないだろう。ずっと愛すると誓った。


ただ
傍にいられないだけ。


「来て」
最後のセックスで、レイは何度もみちるさんを求め、みちるさんの身体中に愛を刻み、指を溶かすように掻き回した。途中でクーラーの温度を下げて、何度も舌を絡めた。
この身体が覚えていられるように。




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Date:2015/02/12
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