【緋彩の瞳】 現世編~愛の夢~ ①葉月と深美

緋彩の瞳

夢の雫

現世編~愛の夢~ ①葉月と深美

「深美ママ、みちるがいない」
ずらりと左右に並んだ屋台の間をどうやって歩けばいいのかわからない。
人込みっていうものがどういうものなのか、わかっていたはず。だけどそれは限られた世界でしかなかった。
たとえば、コンサートホールだとか、誰かの誕生パーティや結婚式だとか。
「え?」
浴衣を着た人たちは偶然なのだろうか、だいたいは左側通行を守っていた。しかし、止まる人もいれば走り回っている子供もいるし、何か食べながら歩いている若い人たちもいて。なぜだかやたら大きなぬいぐるみを担いだ人までいる。出店からいきなり逆方向へ向かってくる人もちらほら。

ざわわざ。わいわい。

何とか道の半分までは無事でいた。しかし娘たちの手を握っていなければ、この譲り合う隙もない狭い屋台の通りを最後まで歩くことはできないだろう。
そう思って新たに覚悟を決めた直後に、左手を握っていたレイが深美の腕を引っ張った。
「ねぇ、みちるがいないよ!!」
葉月が着せた赤い浴衣にピンクの帯を巻いた、かわいい子。
この子は深美の娘ではない。
「みちるまた迷子だよ、深美ママ」
自分の声さえ聞き取れないざわめきの中、レイが必死になって声を上げていた。

みちるがいない、と。

深美の腰より低い身長のみちる。当然レイも同じくらいだが、人見知りの激しい子でいつも手を離さない性格だから、ずっと手を握っている感触はあった。
「みちる?どこ?!」
だけどみちるの場合は違う。誰に似たのだろうか、興味が沸くとそれしか目に入らない子なのだ。
やっぱり、一人で連れてくるんじゃなかった。
最愛の親友に後で馬鹿にされる自分を想像した深美は、その人にそっくりなレイを抱き上げる。
「レイ、みちるを探しましょう。お手伝いしてくれる?」
「うん、いいよ」
「あなたは離れちゃ駄目よ」
「うん」
背が高い人間を探すのならば、それほど大変ではないだろう。しかし、迷子は小さな一人娘。何度迷子になっても懲りずに突っ走る子だ。まだ、自分の置かれた状況におそらく気がついていないはず。
「みちるー」
抱いているレイが声を上げた。ざわめきの中の小さな子供の叫びなど、周囲5メートルくらいがやっとだ。となると、当然みちるの声も聞き取れない。
「みちるー」
深美は足元に注意を払いながらゆっくりと前に進んだ。あの子のことだ、今までの道を逆走するなんてありえない。
まだ見ぬ楽しみを待ちきれなくて突っ走ったに違いない。
「みちるぅー」
探している割には、レイは全然心配していない感じの声。むしろ楽しそうだ。
「みちるぅ、また悪い子したー。みちるがまた、迷子になったー」
見つけ出すことがまるでわかったようなレイの声。
「レイ、みちるはどこへ行くと思う?」
もっとも、深美も自分の娘が見つからないまま大事になるなんて思っていない。馬鹿だけれど、見知らぬ人間について行くような子じゃないはず。
「みちる、お魚好き。あとは、ヴァイオリンも好き。プールが好き」
「お魚ね…」
金魚すくいね。レイの言うお魚は、おそらくみちるの好きな水族館のことだろう。
だとしたらみちるがいると思われるのは、金魚すくいのある場所が濃厚だ。自分の娘のことなのに、レイに教えてもらうのもおかしな話し。
「金魚すくいの場所にいてくれるかしら?」
風通しの悪い浴衣を着ているレイは、汗を額に滲ませながら元気よく頷いてくれた。
「そう。じゃぁ、お店を探しましょうね」
とはいいつつも、金魚すくいだけで5つも6つもお店があるとはわかっていなかった深美は、ずっと抱っこして重たくなってきたレイと密着して汗をにじませながら苦労するはめになった。
人の波のタイミングに合わせながら、右側へ移動したりまた、左側に戻ったり。
どうやって説教しよう。そんなことを考えながら。



「みちる、欲しいの?」

さっきからずっと、小学生くらいの子たちが金魚を楽しそうにすくっているのを興味津々で見ては、周りにお願いできそうな人がいないかを探している。
しばらくはその小さな子を眺めていた。
あぁ、また迷子になったことも気がついていないで、一人で突っ走ってしまったらしい。
「あれ?葉月ママ?」
葉月はしゃがみこんで、汗をうっすらかいたみちるの頭をよしよしと撫でた。同じ目の高さのみちるは、かわいらしい青の浴衣が少し着崩れていることも構わず抱きついてくる。
「みちる、深美とレイは?」
「知らない」
首を振って、またそれから2匹の金魚を小さな袋に入れてもらって嬉しそうにしている子供たちをじっと見つめて。
「みちる、金魚さんが好きなの?」
「うん」
大きく頷いてにこっと笑うのを見てしまうと、だめとは言えない。幸い、まだ深美はみちるを見つけ出すことができていないようだし。
「じゃぁ、1回だけよ」
「うん!!」
病院からこそっと抜け出してきたときに、小銭をポケットに忍ばせておいたのはこのためだ。予想は当たった。ただ、みちるが迷子になっていたのよっていう報告を受けるつもりで来たのだけれど、先に自分が見つけてしまうとは。
「じゃぁ、みちる。お金をお店のおじ様に渡して」
小さな手に握り締めた3枚の100円玉。ドキドキしながらポイとボウルを受け取ったみちるは、さっきまで隣で悪戦苦闘していた小学生たちと同じように、やる気満々で水槽のそばにしゃがみこんだ。
「みちる、紙が薄いから金魚さんをゆっくりボウルに入れてあげないと、破れちゃうからね」
「うん」
金魚が隅で群れを成している。みちるがそっと握り締めたポイを水の中に入れると、その群れは少しばらついた。
葉月はそれから、何も言わそのみちるを眺めていた。

真剣な眼差しは、深美によく似ている。

周りが何も見えないくらいの集中力も似ているし、周りを見ないせいで迷子になるのも、深美にそっくりだ。レイに欠けているものをみちるはたくさん持っているし、逆にみちるに足りないものをレイはちゃんと持っている。
「あ…」
せっかく群れの中の数匹をポイの上におびき寄せたと言うのに、みちるは力強くポイをあげてきれいに破れたポイの輪っかをじっと見つめて悔しそうにつぶやいた。
「金魚さんの勝ちよ、みちる」
「…うん」
「長く水につけすぎたから、もろくなっちゃっていたのね」
「そんなの、葉月ママ教えてくれなかった」
「あら、そう?」
「うん」
負けん気の強い子だ。取れなかったけれど、みちるがあまりに長いことこのお店に居座りついていたから、お店のおじ様がサービスとして2匹の金魚を袋に入れてくれた。
「ありがと!」
取れなかった悔しさも消えて、金魚袋を手にしたみちるは嬉しそうに笑う。



「みちる!!!」
思った以上に遠い金魚すくいのお店にみちるの姿をようやく見つけた。
くるっと向きを変えて“ママ~”と元気よく手を振る姿を見ると、全然懲りていない。そりゃそうだ、自分が迷子だという認識がないのだろうから。
「ママ!」
ほっぺたでもぺちんと叩いてやろうと思ったら、抱いていたレイがみちるに向かって手を振った。
「ママ?」
人ごみでよくわからなかった。聞き間違いだろうか、深美はレイがママと声に出したのか、深美ママの“深美”が聞こえなかったのか判断がつかずにいた。
「え?は、はっ……葉月!!何でここにいるの?!」
だから、みちると同じ高さでしゃがみこんでいる人物がよく知っている人であるということに、数秒の間、気がつかずにいた。
「深美、レイ」
レイが降りようともがく。深美は下駄でお腹を蹴られながら、ゆっくりとレイを下ろした。
嬉しそうに浴衣であることも苦ともせずに葉月に飛びついてくるのを抱きしめる腕は白くて細くて、頼りない。
「葉月、馬鹿!あなた外に出る許可をちゃんともらっているの?」
しゃがんだままレイをぎゅっと抱いている葉月は、小さく舌を出している。
「…はぁ……もぅ、このお馬鹿」
自分の娘が必死に“見て見て!”と金魚の袋を高々と伸ばしているのに、深美の目にはあまりそれが入っていない。
「とにかく、こんな暑くて人が多いところにいつまでもいちゃ駄目よ。熱でも出したらどうするの?」
お馬鹿と言えば、自分の娘も同じだけれど。
「ママ!金魚!」
びちゃびちゃと音を鳴らせて金魚を振り回すから、深美はその手首をぎゅっと掴んだ。
「…葉月、甘やかせないで。どうせこの子は世話をしないのに」
「生き物を飼うのもいいお勉強よ?」
「だからって、こういうものはそんなに長生きしないものよ?」
お店の前でなんてことを言うんだろう。でも今の深美にはそう言う判断をするゆとりはない。
「あら、みちるはちゃんとお世話するわよ。ね?」
「うん」
「じゃぁ、私からも深美にお願いしてあげるわ。それに元は深美が手を離したからだものね」

そう来たか。

弱い。みちるにじゃなくて、レイにじゃなくて、誰よりも葉月に弱い。
深美は葉月にお願いされて、NOと言えない自分がどうにもこうにも情けなく感じた。
「わかったから。もうその金魚のことは後にして。涼しい場所へ行きましょう、葉月」
掴んでいたみちるの腕を放して、葉月に両手を差し伸べた。
レイが何も言わずに葉月から離れる。
ごめんね、と心の中で思った。
葉月はレイのママだけれど、深美の最愛の人だから。
「レイ。レイも欲しいものがあるのなら、買ってあげるからね」
そう言いながら葉月は深美の差し伸べた手を取った。ゆっくりと引っ張って立たせてやる。
白いワンピースの背中は、汗でにじんでいた。
ぐらっと揺れた体は、立ち眩みをおこして、深美が抱きしめておかなければそのまま倒れそうになってしまう。
お店の人が心配して顔色を変えているから、なんでもない振りをして早くこの場所から移動しないと。
「深美ママ、みちるはちゃんと捕まえておく」
気がついたら足元のレイはみちると手を繋いで、深美のスカートを握っていた。
「あら、いい子ね。レイは何が欲しいの?」
自分の体調がよくないくせに、葉月は何でもなさそうに笑っている。そう言うところは好きだけれど、そんな風に笑われても、きっとレイは嬉しくない。
「何もいらない。レイはママとおうちに帰る」
「……そう」
そんな無理なものは、この辺りの出店に売っている物ではない。深美は抱いた葉月が少し落ち着いたのを確認して、それから肩を貸してゆっくりと来た道を戻ることにした。ちゃんと娘たちもついて来ている。
「葉月、真之君には?」
「言ってないわ。仕事だから、連絡も取れないもの」
「おじ様にも?弥生おば様にも?」
「私、子供じゃないわ」
「子供じゃないけれど、病人よ」
歩みもまっすぐじゃないような葉月。そんな体でよく出てきたものだ。
「またレイに悪いことしちゃったかしら」
みちるにだけは手に金魚袋を握らせて、自分の娘に何もまだ買ってあげていないから。
「レイは早く葉月が元気になってくれることだけしか、いらないのよ」
時々深美と葉月の顔色をうかがいながら、しっかりとみちるの手を握って大人の歩みについてくるレイ。
かわいそうなことをしてしまったと、深美は思った。
みちるにはちゃんと葉月が金魚を買って上げて、レイには何もしてあげなてないし、迷子捜索を手伝わして。
「レイ、深美ママが後で何か買ってあげるからね」
だから、せめて自分がレイを可愛がってあげないと。それは義務ではなく、心からの想い。
「いらない。みちるの金魚2匹だから、一緒に飼う」
欲がないわけじゃないだろう。我慢しているのがよく伺える。
「自分の娘に心配させるんじゃないの、葉月」
「……本当ね。深美にも怒られちゃうし」
「金魚なんて与えて。私、苦手なのよ」
すぐに死んでしまうものを、今はなるべく遠ざけていたいのだ。そう言うものすべてを、心から消してしまいたいのに、どうして金魚なんて。
「あら、金魚もちゃんと水槽に入れて、かわいがってあげれば長生きするわよ?」
「はいはい、そうね。私が苦手なのはそう言う意味じゃないのよ?」
何とか否定してみたけれど、きっと葉月はわかっている。
「葉月、レイとみちるを見ていて。お迎えを頼んでくるから」
「大げさじゃない?少し休めばまだ歩けるわよ。せっかく来たのに」
真っ白で細くて。息だって上がっているのによく言えたものだ。でも、葉月がこういうお祭りが本当は好きだって言うことくらい、知っている。
「レイが心配しているじゃない。かわいそうよ」
「……わかったわ。そのかわり病院じゃなくて、おうちに帰らせて」
病院から抜け出して、無断外泊。深美は怒ってやろうと思った。
これ以上心配させてくれるな、と。
「葉月、あなたって言う人は…」
「レイが欲しがっているんだから。みちるだけじゃ、不公平でしょう?」

弱いのよ、葉月のお願いには。

深美は特大のため息をついた。自分一人だけなら、説教しながら引っ張ってでも病院へと連れ戻せる。入院生活の長い葉月のわがままとは言え、治療に専念してもらいたいし、何より深美の心臓にも悪い。辛そうにしている葉月の傍にいることは、好きじゃない。
「怒られるのは、付き合わなくてよ?」
「あら、頼まなくてもかばってくれるのでしょう?深美」
深美はムスッとしてみせた。子供たちは母親たちを見上げながら、何を言うか待ちわびている。
「レイ、おうちに帰りましょうね」
「ママ、いいの?」
「えぇ。深美がいいって。ね?」
盲腸で入院とかだったら、どうせあと何日か寝ていれば退院なんだからって、引っ張って病院へ連れ戻したと思う。近い将来、家に帰ることができるんだから、今は我慢して欲しいって。
「仕方がないわね。1泊だけよ。朝、一番に病院に帰ること。よくって?」
強がって見せても、ただ、見えてしまいそうになる未来が怖くて怯えているっていうのを隠すのに精一杯。だけどそれもきっと葉月には見透かされている。
「えぇ。深美も、一緒のお布団で寝る?」
「みちるで十分よ」
電話をしている間、レイとみちるを両手に抱きしめている葉月は体力的には辛そうなのに、とても幸せそうに見えた。そうであって欲しいという深美の願いが強くて、幻を見ていたのかもしれない。
でも、その幻がずっと続くのであれば、きっと何でもするだろう。
不可能だからこそ、そんなことを考えずにはいられなかった。


「深美」
葉月に抱っこされていたレイは、いつの間にかその腕の中で眠ってしまった。同じく迷子になったことをこってりと怒られたみちるは泣きじゃくって謝りながら、いつしか深美の腕でスヤスヤと寝てしまっている。
「何?」
眠らせてあげたくてもレイを気遣って横にならない葉月が気になるけれど、本人はむしろ嬉しそうだから、そのことは言わない。深美は抱っこしたみちるをそっと葉月の布団に割り込ませた。
「今日は楽しかったわね」
「そりゃ、葉月はね。私はみちると葉月のお守りに大変だったわ。賢いのはレイだけ」
子供たちはちょっとの声では目が覚めない。両手が空いた深美は、長い葉月の髪を撫でて、手のひらに掬い取った。
「葉月、相変わらず綺麗ね」
「そう?」
少し嘘をついた。季節を2つ分入院生活で越した体なのだ。髪にも元気がなくなっている。
「えぇ。綺麗なんだから、ちゃんと食べて、元気になって早く退院して。夏は好例の海の別荘に行くんでしょう?早く元気になってもらわないと、夏が終わってしまうわ」
掬い取って手の中にあった髪がさらりと逃げて行った。その代わりにぬくもりは、手の平ではなく体に舞い降りる。レイを挟んで抱きしめてきた葉月の体からはもう、生命力を感じ取ることはできない。

でも、まだ生きていることを感じていたいのに。

「深美、レイのことをお願いね」

それは、間違いなく遺言だった。

「嫌よ。あなたがこれからもレイを面倒見てくれなきゃ。明日も明後日も。来年も。レイたちが小学生になっても、中学生になっても。私たち、一緒にまた、親子リレーで対決する約束でしょう?」
なりふり構わず泣いてしまう事ができたら、どれだけ楽だろうと思う。だけど、涙を見せることはできなかった。
悲しむ姿を見せたくない。認めたくない、まだ生きているというのに。
「レイはあまり何も欲しがらない子だから、みちると一緒にいないと駄目なの」
「葉月も、私がいないと何もできないくせに」
すかさず言い返した。クスっと笑って“そうね”と答えた葉月は満足げだ。
「葉月、レイが潰れちゃうわ」
抱きついてくる力を強めた葉月。間に挟まれたレイが、小さく呻いている。
「……じゃぁ、今は深美の勝ちにするわ」
胸に抱いているわが子をみちるの横に並べて寝かしつけようとする。レイは良い子だから寝惚けながらもそれにしたがって、みちると一緒に寝てくれる。
「いいの?」
「あら、後でまたこの子を抱いて寝るもの」
「そう」
いつも深美が葉月を抱きしめていた。
いなくならないように。消えてしまわないように。思いが伝わるように。
「慣れないわね」
いつも抱きしめていたその人に優しく抱きしめられるのは、ひどく苦しかった。腕をどうやって回そう。どうやってこの苦しいが伝わらないようにすればいいのだろうか。
「葉月はいつも、抱きしめられる方じゃない」
「そうね。でも、これも好きよ」
「……いつでもいいわよ。私は」
でももう、2度目はない。葉月はこういうことを何度でもありふれた日常のようにする人じゃない。遺言だからしてくれているのだ。
「深美、今日はありがとう」
「いいえ」
「金魚、長生きするといいわね」
「するわよ。させてみせるもの。私が責任を持って管理するわ」
抱きしめられて、行き場を探していた両腕は、細い葉月の背にようやくたどり着いた。
「そう。楽しみね」
抱きあっていてよかったと思う。まともに葉月の顔を見ていられない。自分が今、どんなに心の中で葛藤をしているのか、きっと表情に出しているはずだから、こうやって肩に顔をうずめているだけで精一杯なのだ。
「深美は、私が入院してから泣かなくなったものね。がんばっていたわ」
「……そんなこと」
「辛い想いをさせてしまったわね」
「そんなことっ…」
葉月の苦しみや痛みに比べたら、そんなことは辛いの枠に入ったりしない。たいしたことない振りをしている葉月に比べたら。娘を残して逝く葉月に比べたら。
「ごめんね、深美」
葉月はいつもと同じように、頬にキスをしてくれた。
唇が触れた場所は、きっとしょっぱい。
だけど深美はそれをからかわれても、構わないと思った。泣いて泣いて、それで困らせて、まだずっとこれからも生きてくれるのなら。
「深美。ねぇ、深美」
声を上げないようにするのが精一杯で、深美はただ、葉月に縋り付くだけ。
「ありがとう」
まだ、その言葉を聞くには早すぎる。でももう、葉月はその言葉を二度と口にしないだろう。
まだ言わないでって言う言葉は声を殺して溢れる涙が言わせてはくれなかった。
「……葉月、金魚より先に死んだら怒るわよ」
「そうね。じゃぁ、それは約束する」
「私、10年生きた金魚を知っているのだから」
「あら。楽しみね」
葉月は笑った。
覚悟なんてしたくないって今まで逃げていたけれど、たった今、それは葉月によって与えられた。

寄り添って眠るレイとみちるが、小さかった頃の自分たちと重なる。
あの頃に戻れたら。
あの頃にこうなることを知っていたら。
結婚なんてしないで、ずっと傍にいたのに。

「大好きよ、深美。レイをあなたに託すから」
深美のふわりとした栗色の髪には雫が少しだけ零れ落ちた。

悲しいのに
凄く悔しいのに

「わかってるわ」

でも

葉月を失ってしまった世界を、葉月と瓜二つのレイと
自分によく似たみちるを抱いて生き抜くことなんて

きっとできない

そんなの辛くて耐えられないに決まっている


夏がずっと続けばいいのに
葉月の好きな夏が
葉月の生まれた夏が

鉢に入れられて狭いところをぐるぐると泳ぐ金魚
あまり動かないで
ゆっくり泳いで、長く生きて
深美は心の中で思った

「最後は笑っていて欲しいのよ、深美。あなたに褒めてもらいたいの」

だから今だけは泣くことを許してあげる

「馬鹿、葉月の馬鹿」


二人で泣いた最後の夏だった





*    *    *

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Date:2015/06/20
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