お風呂上り、髪を乾かし終えてベッドに寝転がると、電子書籍のスイッチを入れた。
昨日ダウンロートしたばかりの、ルクリリがおすすめだって言っていた日本の歴史小説。文学よりも、論文を読みふけったり数独をしたり、そう言うことの方が性に合っているのだけれど、ルクリリが図書館で借りた本を、暇さえあれば読みふけっていたものだから、それほどに面白いものなのかと、試しに読んでみる気になったのだ。
真っ白い画面の1ページ目。普段、横文字に慣れているから、久しぶりに日本語の漢字の多いものを読む。日本史を選択していないので、さらりとした情報しか頭の中になくても、ちゃんと話にのめり込めるだろうか。
カチャリと勝手に鍵が開かれると、寝間着を着て、制服を手にした恋人が部屋に入ってくる。その姿をチラリと見ただけで、アッサムはすぐに画面のページを捲った。まだ、何の歴史も動いていない。
「本を読んでいるの?」
ダージリンは付き合うようになってから、アッサムが説明をして、タブレットとノートPC、この小さな電子書籍の違いがようやく分かったようだ。スマートフォンも合わせると、アッサムは4つの電子機器を持ち歩いている日も少なくないので、それなりに鞄は重たい。
「ルクリリが読んでいた本ですわ」
「あぁ……あの子最近、ずっと本を持ち歩いているわね」
「全8巻だそうです。ルクリリは、もうすぐ読み終わるそうです」
「それで、アッサムが読み始めたのね」
「まだ、20ページだけですけれど」
アッサムは起き上がらずに、ダージリンを見ることなく文字を追いかける。いつものように隣で眠り、朝、ダージリンはここで服を着替えて一緒に朝食を取りに行く。まだ、夜が更けると言う時間帯でもない。2時間くらいはじっと本に集中できる。させてもらえるかどうかは、別として。
「アッサム」
「ん………ダージリン、せめて2章くらいまでは読ませてもらえませんか?」
「どれくらいなの?」
背中に抱き付いて、回された手の平がアッサムのお腹を撫でる。文字を追いかけたまま、その手首を引き寄せて、身体を密着させた。お風呂上りの熱が少し冷めて、ダージリンの体温が丁度いい。
「さぁ、どうでしょうか」
「30分待つわ」
「わかりましたわ」
洗い立ての髪に鼻をこすりつけて、一人遊びのように背中に抱き付くダージリン。アッサムの思考回廊は、幼少期の主人公と心を重ねているから、くすぐったくても相手をする気はない。ダージリンもやりすぎると怒られることを知っているからか、身体に抱きついた手は優しくお腹を撫でてくれるだけ。途中、クッションを外して腕枕をしてもらい、宣言した通り、2章まで読み終わって、しおりをタップして挟んで電源を落とした。
「終わった?」
「2章までは」
「面白い?」
「面白いと言うほど、何の展開もありませんわ。全8巻のうちの1冊目の2章までですもの」
腕を伸ばして、電子書籍をサイドテーブルにおいた。ダージリンへと向きを変えて、その手を取る。
「さっきお腹触られていて、そろそろ切っておかなきゃって思っていたんです」
「爪?」
「えぇ」
チクチクと言うほどでもないけれど、素肌を撫でられて、爪が皮膚に当たる違和感があった。机の引き出しに入れている爪専用のヤスリと、ニッパー、保湿クリームを取り出し、タオルを手に、ベッドに戻る。
「座ってください。足の爪も切っちゃいますわ」
付き合うようになってから、アッサムは好んでダージリンの爪を切るようになった。お世話をするとかじゃなくて、何となく一度始めてしまったら、意外と楽しいと思ってしまって。
ベッドサイドに座ったダージリン。アッサムは椅子に座って膝の上にタオルを敷いてその右足を乗せた。
「せっかく、本から興味がそれたと思ったのに。今度は爪なのね」
「ダージリンの爪ですわ」
過度なマニキュアを嫌うダージリンは、足の爪は薄い青だ。先週、アッサムが綺麗に塗りなおしたばかり。さほど切る場所はないけれど、それでも1本1本ちゃんと見て、気になるところにヤスリをかけた。一定のリズムで、丁寧に丁寧に。どの角度から見ても綺麗に見えるように。といっても、誰かにこの足の爪を見せびらかすようなことをされても困る。アッサムの自己満足なのだけど、ダージリンはいつも、アッサムの手元に視線を注いで見守っているから、この時間は好きだ。足の指を綺麗にし終ると、ダージリンにクッションを渡した。その上に手を広げておいてもらい、アッサムの膝の上にどうだと言わんばかりに広げられる。
「マニキュアも塗りなおしますか?」
「嫌よ、それは明日にして」
「ここ、気になりますわ」
開かれた右手の人差し指、綺麗に塗り直してしまいたいものが目についてしまった。いや、もうやるとしたら全部直すつもりだけれど、ダージリンは嫌なようだ。
「マニキュアしたばかりの爪で、アッサムを触れないわ。セックスしたいから、今はダメよ。クリームも塗らないで」
「………わかりましたわ」
そんなことを言われてしまえば、まるでセックスして欲しくて爪を綺麗にしているみたいだわ、って思うけれど、そうじゃないって言いきれないから困ったところ。セックスをしてもしなくても、丁寧に綺麗にしてあげることに変わりはない。でも、セックスするときは必ず、爪をチェックしてしまう。ほとんど無意識に。もちろん自分の爪も。
「今日ね、ペコがヴァレンタインのチョコレート、渡したら受け取ってくれるかどうか聞いてきたの」
「あぁ、もうそんな時期ですわね」
ヤスリを動かしている時、いつもダージリンはシュッシュッと音を立てる隙間を埋めようとする。ほとんどが後輩の話ばかりだ。ダージリンが一番楽しいと思うことはいつも、後輩たちが主人公だ。
「アッサム以外のチョコは、受け取らないって思っているみたいね」
「ご自由になさってください。ペコから貰ったら、美味しくいただくのでしょう?」
ペコが渡すのは、お世話になっている先輩へのプレゼント。見知らぬ子から貰うプレゼントのようなものではなく、ペコなのだ。むしろありがたく頂戴して、食べるべきもの。アッサムだって同じことを聞かれたが、イチイチダージリンに報告なんてしない。
「そうね。この学生艦では、1度しかないチャンスだもの」
「それもそうですわね」
「アッサムのものを食べて、その後に食べるって答えたわ」
「そうですか。差し上げるなど、一言も言っておりませんわ」
「トリュフがいいわ。手作りの」
「作るとも言っていませんわ」
ペコに話題を振られた時に、初めてヴァレンタインと言うものの存在に気が付いたのだ。来週とは言え、何の準備もしていない。
でも、明日、キャンディに美味しいトリュフの作り方を聞かなければ。本を読みふける時間がなくなってしまうだろう。でも、リクエストされた以上、作らないわけにはいかないのだ。
「作ってくださるのでしょう?」
「………私には、何をくれますの?」
「何がいいかしら?」
何か甘いものを言えば、キャンディたちが悲鳴を上げるに違いない。彼女たちを守る義務がある。あのベリータルトの一件があったせいで、キャンディ達に勘弁して欲しいと半泣きでお願いされているから、避けてあげないと。
「手作りはいりませんから、どこかに美味しいものを食べに連れて行ってください」
「デートしたいのね?」
「えぇ。来週は横浜に戻りますし、のんびりしたいですわ。卒業旅行の代わりに、ホテルに宿泊したいです」
「トリュフを食べるのも一苦労ね」
ヤスリで爪を綺麗にして、確かめるように指の腹で1本1本引っかからないか触れてみる。こうやって確認すると、期待しているような合図だと思えてくる。でも確かに期待している気持ちは存在している。
ダージリンの爪の先を指の腹で撫でたいと思ったとき、アッサムはきっと、ダージリンを求めているのだ。
深く、彼女を求めている。
「綺麗になったかしら?」
「えぇ」
タオルを洗濯籠に入れて、丁寧に手を洗った。ダージリンも綺麗に石鹸で手を洗っている。水分を拭き取ったら、手を引かれてベッドに連れていかれた。洗い立てのダージリンの髪。シャンプーの香り。下ろされたその髪型も好き。
ベッドに上がり、縋るように抱き付いた。
明るい部屋の光を少し暗くしても、その瞳に宿す光はいつもアッサムだけを見つめてくれる。
優しく指先が頬をなぞり、唇の場所を確かめるように親指が触れる。その爪を甘く噛んだ。
クスっと笑う声が耳を震わせて、ダージリンの唇が触れるのを待ちわびる。ひんやりとした唇。肩を掴んで息を吸う瞬間も惜しい程、唇を求めた。膝で立ったまま、腰の力が抜けきってしまいそうになる前に、唇が離れた。その髪に顔を埋めるように、きつくしがみついた。
「欲しい?」
「……欲しいです」
ルームガウンの隙間から太ももを撫でる右手。しがみついたまま、腰に痛いくらいの痺れを感じる。どうしようもなくダージリンが好き。
欲しいと乞うものを、「愛」と呼ぶものなのか。そう言うことを考えても、アッサムにはわからない。愛していると言われたこともなければ、愛していると言う言葉が自分の心に宿された感情の呼び名なのか、それもわからない。
安易に「愛」という感情を口にしたくはない。ただ、ダージリンの傍にいて、ダージリンを求めて、ダージリンに求められる関係がずっと続いたらいいと願うだけ。
傍にいたい。
それだけだ。
この感情は愛と言うよりも我儘だと思っている。
「ん……」
「痛い?」
「いいえ」
「ここ?」
「ん……あっ」
好き。
とても好き。
我儘を押し付けて、我儘を押し付けられて、それでもそれが心地よくて。
きっとずっと、彼女のことを好きだと思い続けるだろう。同じ大学への推薦入学の手続きは終わっている。聖グロの卒業生の多くが通う女子大の寮でも、隣同士になればいい。ならなくても、こうやって、ダージリンはアッサムの部屋にやってくるだろう。そう信じている。
「………本、読み終わる前に卒業してしまうかも」
「いつでも私を構ってと言っているでしょう?アッサム」
「……分かっていますわ」
優しく撫でる指の動きに、アッサムはずっとその背中にしがみつくだけだ。2章しか進まなかった本の内容は、きっと明日の朝になればすっかり忘れているに違いない。下手をすれば、本をダウンロードしたこと事態を忘れてしまっているかもしれない。
「横浜で、デートしているときに本を読んだら許さないわよ」
「わかっています」
「船を出る前に、爪を綺麗にしてから出ましょう」
「……はい」
「ホテルでは、沢山セックスしましょう」
「そうですね。でも、その、ちゃんとデートプランを考えてくださいね」
指は、確実に弱いところから少し離れた場所を刺激して、アッサムの中を楽しんでいるようだ。しがみついた手のひらにジワリと汗を感じ、その背の髪を少し引っ張った。
「あぁ、そうね……では、調べておいて」
「………はい」
ダージリンにデートプランなんて立てられるわけもなく、アッサムが行きたい場所を見つけて、行く方法を調べて、最終的には全部アッサムが手配することになってしまいそうだ。
「ダージリン…」
「なぁに?」
「もっと……深く」
「えぇ、いいわ」
優しくベッドにアッサムの背を預け、頬を撫でる左手。眩しい光を宿した瞳。
「好きよ、アッサム」
「私もです」
「とても好きよ」
「私もです」
両手でその頬を引き寄せて、恋しいと唇に伝わるように口づけをする。
優しく激しく、アッサムを求めるその指から伝わる恋しい感情が、ひと時でも、他に何もいらないと思わせることに、少し怖いと思いながら。
それでも今は、この人だけしかいない世界でもいいと思ってしまうのだ。
アッサムの周りにある情報を集めるいろんな電子機器では、この感情を何と呼べばいいのか、調べても出てこない。検索するための最適な言葉もわからない。
きっと、この感情は、世界に何十億の人がいようとも、アッサムだけしか持ち得ていない。
「ダージリン」
「なぁに」
「……もっと、してください」
もっと好きと言って
もっと好きだと言わせて
指に絡みつく感情が乾かないように
もっと、ずっと、すっと
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