【緋彩の瞳】

緋彩の瞳

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肩を組んで笑お END

「アッサムは、私のことを馬鹿にする人が目の前にいたら逃げるのね」
 3人が隊長室から出て行くのを見届けると、ダージリンは膝の上を両手でポンポンと叩いた。隊長椅子に腰を下ろしているその膝の上にアッサムを座らせ、そっと髪にキスをする。
「ペコはよくやったと思いますわ」
「そう?」
「えぇ。バニラたちからの話を聞く限り、ペコが腹を立てても、致し方ない状況だったと思います」
「そう」
 睡眠時間を削って、OG会への報告書を作成したアッサムの疲れを労うように、そっと頬を撫でる。メールや電話で抗議をしてくるOGの方はいらしたが、今回の騒動は殴った原因もセットで広まっており、少ないものの、ペコたちを擁護する声もあった。いずれにしても、お怒りの愛菜さまには謝りに行かなければならない。会う口実になった、と思わないでもない。
「ダージリンは?」
「私?」
「えぇ。私や後輩たちのことを悪く言う人が目の前にいたら、どうしますの?」
「さぁ?わざわざ水を掛けることや、殴りかかるなんてことはしないわね」

 ダージリンの肩に頭を置き、ふて腐れたような視線を投げかけるアッサム。キスして欲しいのかしら、と思いながら、両手を腰に回してぐっと体を密着させた。

「では、笑ってその場から立ち去りますの?」
「どうかしら?」

 密着するセーターから伝わる心臓の音。とても穏やかで、とても心地がいい。

「ペコ達がした行為であんなに嘆願書が集まったと言うことは、多くの生徒はペコたちのしたことを良しとしています」
「そうね」
「表向きは認められないことですが、でも………どうでしょう。その場にいたら、私は止めなかったかもしれません」
 次から次に、在校生徒たちがみんなペコ達の肩を持つものだから、ダージリンとしても処分が難しかった。暴力を振るったきっかけにダージリン自身が関係していることもあり、それほどに想ってくれている1年生たちが、可愛くてどうしようもないお馬鹿な子たちで。こういうのを目に入れても痛くないと表現するのだろう。きっと、OG会のお姉さま方も理解してくださるに違いない。
「私も、あなたのことを悪く言う人間がいれば、笑顔でその場を離れるわね」
「そうですか」
「うっかり手元が狂って、淹れたての熱い紅茶が相手のお顔にかかってしまうかもしれないけれど」
「………それは、随分とうっかりしていますわね」
「うっかりなのよ」
「そうですね」
 今頃、笑われながらルクリリたちは動画や写真を撮られているに違いない。一番上手く撮影できた生徒には、アッサムから直々にご褒美がもらえる。なんて言う情報をグリーンが流しているらしいから。その動画と写真を報告書と一緒に、OG会のお姉さまにお渡しするつもりだ。

「シナモン様」

 2週間が過ぎた。もうそろそろ生徒は皆、ルクリリたちのプラカード行進を見飽きたものだ。調子に乗って、ついつい向けられる携帯電話に向かって、ローズヒップとピースサインやポーズを取ってしまったものだから、アッサム様に思いっきりお尻を叩かれた。そんなこんなで、周りが飽きてしまったこともあり、今日でさらし者の刑も終わり。清掃の罰はもうしばらく続く。

 クリーニングに出していたシナモン様のセーターを手に、お部屋を訪ねた。ダージリン様とアッサム様は連絡船で東京に出向き、OG会に事情説明と謝罪をしておられるそうだ。一緒に行って謝りたいと申し出たが、あのお2人は謝罪という名目で、OGのお姉さまたちに会いたいだけだってシナモン様に言われた。お2人とも、謝罪に行くわりには楽しそうに出て行かれたらしい。

「よかったわね。隊長と副隊長が寛大で」
「シナモン様たちが嘆願書を提出されたからです」
「あってもなくても、お2人は重い罰を与える気はなかったと思うわよ」
 お部屋に飾られている中学時代の写真には、三つ編み姿のダージリン様と仲良く肩を並べているものや、アッサム様のお部屋にもあった東日本チームの写真。
「そうですか」
 ルクリリも中学時代には美咲ちゃんと肩を並べ、沢山の写真を撮った。同じ夢を持ち、同じ道を歩もうと、互いに努力し合っていた。強すぎる憧れが2人の間にヒビを入れたのか、それとも、ルクリリがティーネームを授かっていなければ、もう少しは仲良くいてくれたのだろうか。
 ルクリリに嫌味を言って、羨ましいと声に出せない想いをペコにぶつけて、ダージリン様にもアッサム様にも、悪い意味で顔と名前を憶えられてしまった。今更、可愛そうとは思わないが、そう思えない自分が寂しいとは思う。思い出を語り合う友達がいなくなってしまうことよりも、大事な聖グロの仲間を守りたいと思った。それがルクリリの中の答えなのだ。

 想い出よりも未来が大事。
 ほんの少し、寂しいとは思う。

 シナモン様みたいに、ずっと大事にしたい想い出がすぐ傍にあれば。


「なぁに、ルクリリ?ダージリン様のお写真が気になるの?」
「あぁ……いえ。ダージリン様と同じ中学なんですよね?」
「そうよ」
「ダージリン様は昔から、あんな感じの人なんですか?」
 どんな感じ?と聞き返したい表情は、言わんとすることを理解してくださっている様子。整備科のお姉さま方の中にも、ダージリン様と同じ中学だった人はいて、髙森穂菜美がいるから聖グロを受験したと言うお姉さまもいらっしゃる。
「どうかしらね?もっと孤高の人だったわ」
「そうなんですか」
「中学時代は、その人気と同じくらい陰で嫌われていたわよ」
「えっ」
 意外って言おうと思ったけれど、美咲ちゃんみたいな人もいるのだから、東日本チームの隊長になりたいと思っていた人から嫌われることだって、あっただろう。どれだけ完璧な人でも、完璧である人を嫌う人はいるから。
「ダージリン様は容姿もそうだけど、頭もいいから。あちこちの高校から特待生のオファーもあったし、戦車道の選手としてもいい成績を残していたもの。努力してもその地位に立てない人たちはみんな、彼女のことを悪く言うくらいしか、やることがなかったのね」
「…………そのことを、ダージリン様は知っていらしたんですか?」
「さぁ?きっと、気にする時間がもったいないと思われていたんじゃないかしら」
「ですよね」
 ダージリン様のことだから、きっと笑って華麗にスルーされていただろう。あるいは孤高の人だったのなら、それすら糧にしておられたのかも知れない。
「ルクリリはどうするの?」
 アイスティを淹れてもらい、甘いガムシロップを淹れてかき混ぜた。グラスはうっすらと冷たい汗をかいていて、握りしめるとひんやりと心地いい。
 写真の中の楽しそうなダージリン様とシナモン様の微笑みが見つめてくる。ルクリリも、ペコたちに中学時代の楽しかった想い出を話して聞かせてあげたかった。だけど、そんな日はこれからも訪れることはないだろう。中学3年間、いろんな楽しいことを積み重ねてきたことが、一発殴って消えたのだ。
「私は今の仲間が大事です。私に必要なのはペコたちと築く未来なので」
「そうね。だったら、ペコに手を出させる前に、もっとうまく立ち回るべきだったわね」
「……はい」
「仲間を守るだけでは、隊長になるには足りないと思うわ。仲間が大切にしているものを守る強さを身に付けなさい」
「はい、シナモン様」
 退学届けまで準備をしてくださっていたシナモン様は、優しく、それでも静かに怒ってくださった。

 仲間が大切にしているものを守るには、まだまだルクリリは弱すぎるのだ。


さらし者の刑からようやく解放されて、ペコはプラカードを首から外し、大事に机の引き出しにしまった。怒りに任せて起こした暴力。ダージリン様とアッサム様を心配させたり、悲しませたり、怒らせたりすることの方が辛かった。あの腹立たしさよりもずっと、ペコの方がお2人を傷つけたのだ。
 それでも、呆れられたり、放り出したりされない優しいお2人。

 ずっとその優しさに甘えて、支えることもできないでいる。

 こんなはずじゃなかった。
 まだまだ思うようには行かないものなのだと、気づかされてばかり。

「おーい、2人とも。ご飯食べに行こうよ。シナモン様が外に食べに出てもいいって許可を下さったよ」
 シナモン様の部屋にセーターを返しに行っていたルクリリが、上機嫌で返ってきた。騒動を起こしてから、ずっと幹部席で食事を取っていないし、学校の食堂以外に出歩いていない。放課後もずっと、掃除やら練習場の整備をし続けていて、学校の敷地から1歩も外に出なかった。出るなと声に出して言われたわけではなかったが、1年生たちみんな、出ようとはしなかったのだ。けじめの一つだった。
「やったーですわ!ノエル!ノエルがいいですわ」
「やだよ。ざるそばがいい。天ぷらがいい。でっかいエビの天ぷらがセットになったやつ」
 サンドイッチに飽き飽きしていたのに、洋食を欲しがるローズヒップにすぐさま腕で大きく×を書くルクリリ。
「私は中華がいいです」
「ペコ、こういう時は第3案を出すんじゃない」
「そうですわ。こういう時は、最初に手をあげた人に従うべきですわ」
右からルクリリが肩を組んで、仲間に引き込もうとして来た。慌てて左からローズヒップが真似するように、ペコの肩に腕を回してくる。

 2人分の腕は、ずしりと重い。

「いや、こういう時は第3案が一番いいのではないですか?」
「中華?北京ダックより、私は天ぷらと冷たいざるそばがいいんだよ」
「私はアボカドバーガーがいいですわ」

 重たくて、暖かくて、たぶんこの学校を卒業してからも、なんだかんだとずっとこうやって肩を組んでいるような気がする。そうであればいいのに、って思った。

 ペコが守りたかったものを守ってくれたのは、結局はルクリリで。
 ペコを庇ってくれたのは、ローズヒップで。
 必死になって一緒に謝ってくれたのは、クラスメイト。

「では、今日はおそばを食べて、明日の夜にアボカドバーガーにしましょう」
「ということは、明後日に北京ダックということか」
「はい、そうですね」
「仕方有りませんわね。天ぷらを挟んだバーガーはありませんし」

 今日も明日も明後日も、ペコと肩を組んでくれる仲間がいるのは心強いだろう。
 自分への苛立ちは、いろんな人から指をさして笑われることで、巧く処理していったような気がする。笑われるようなことをしたのだ。大切な人を守る方法を間違えたペコが悪いのだ。
 ペコがもっと早くに、ルクリリを守ってあげるべきだった。


「やっぱ、持つべきものは仲間だよねぇ」
「そんなにおそばを食べたかったんですか?」
「ん~?まぁ、色々あるんだよね」

 財布と携帯を手にしてすぐに寮を出ると、丁度、東京に出ておられたダージリン様とアッサム様が車で戻って来られるところに出くわした。

「アッサム様!ダージリン様!」

 確か、OG会のお姉さま方にお詫びに行っておられたはず。どれくらい怒られたのかはわからない。きっと学校を辞めさせろとか、ティーネームをはく奪だとか、OG会のお姉さま方はきつくおっしゃったに違いないだろう。聖グロの生徒として、ティーネームを授かったものが他校と喧嘩なんて前代未聞のトラブル。庇ってくださるお2人の立場も悪くされてしまう。

 それでも、お2人は全力で庇ってくださっていることを知っている。

「あら、3人とも。プラカードを持って外に食べに行かないの?」
 助手席の窓を開けたダージリン様は、とても綺麗な笑み。怒られてきたようには見えない。
「いや、あれで外に出るのは流石に」
「そう?カッコよかったのに」
「………勘弁してください」
 聖グロの学生艦に住んでいる人にも、当然今回の事件のことは筒抜けで、何だかんだと学校の外にまで清掃作業をしに行った過去もあるから、あぁ、また戦車道1年生ねって笑われていることは、潮風に乗って伝わってきている。

 それでも、受け入れてくれているのは、ルクリリが次の隊長だってみんなが知っているからだと思う。何となく、そう思えるのだ。ダージリン様が選んだのならば、間違いはないだろうっていう空気もある。
 守ろうとして傷つける結果になったペコよりも、ずっと、本当の意味で聖グロを守ることができるのは、たぶん、1年生ではルクリリしかいないんだと思う。

「ダージリン様、アッサム様。OGのお姉さま方たちはどうでしたか?」
「相変わらず3人とも仲良くしていらしたわよ。ルクリリお姉さまもいろんな意味で相変わらずだったわ」
「……いえ、えっと、そうではなくて。あの、私たちの処分は?」
 なんだかとても楽しくお茶してきたと言ったような笑みで、ダージリン様はとても余裕でいらっしゃる。どんなやり取りをされたのか、さっぱりわからない。
「処分?あぁ、あなたたちがプラカードを首からさげて校内をうろついていた動画も写真もすべて、お姉さまたちに見せたわ。ルクリリお姉さまは、手を叩いて喜んでいらしたわ」
「………はぁ、そうですか」
 ダージリン様とアッサム様が厳しくお叱りを受けずに済んだのなら、笑われるくらいは大したことではないけれど、あまりにも楽しそうに微笑むから、何だかもやっとしてしまう。

「ところで、あなたたちは何を食べに行くの?」
「おそばを食べに行きます」
「あらそう。私はアッサムがどうしても中華と譲らないから、今日は中華にするわ」


「「「私たちも中華を食べます!!!!」」」


 ノエルがいいとか、天ぷらとざるそばがいいと言っていたのはどこの誰だったのだろうか。ペコの声に重ねてきた両再度の2人が、肩を組んでポーズを決めている。
「あらそうなの。じゃぁ、どうぞ、ご自由に食べたらいいんじゃないかしら?」
「え~~!ダージリン様とアッサム様と一緒がいいです!」
「そうですわ!もう、ずっとずっと一緒にご飯もお茶もしていませんわ!」
 勝手に後ろの座席に乗り込む2人に、遅れを取らないようにペコも乗り込んでドアを閉めた。

「あなたたち、本当に反省しないのね」
 運転席のアッサム様は、バックミラー越しにため息を反射させて、それでもゆっくりとサイドブレーキを外して校門へとUターンを始める。
「あら、アッサム。アールグレイお姉さまに甘えた声を出して、3人を庇っていたのはどこの誰かしら?」
「オレンジペコお姉さまの腕にしがみ付いて、ふて腐れていた人もいましたわね」
「“あらやだ”、バニラお姉さまのことかしら?」
「“あらやだ”、ダージリンことですわ」

 何だかよくわからないけれど、お2人がOGのお姉さまに甘えたり拗ねたりして見せて、ペコたちを庇ってくださったと言うことは伝わってくる。

「ダージリン様」
「なぁに、ペコ」
「ごめんなさい。もう、悪いことはしません」
 後部座席からダージリン様の両肩に手を伸ばして、セーターを握りしめた。優しい手のひらが甲を撫でてくださる。
「ペコ」
「はい」
「私たちのためではなく、仲間のために強くなりなさい」
「はい」
「仲間を守る方法をルクリリ達と一緒に考えていくことね」
「はい」

 必死になって、考えなければならないのだ。
 守る方法を。これからもずっと、肩を組んで笑っていられるために。

「大丈夫ですわ、ダージリン様!このローズヒップがペコとルクリリをしっかり守って見せますわ!」
「あら。期待しているわね、ローズヒップ」
 
 クスクス笑うダージリン様の声と、呆れて何も言えないアッサム様の横顔。

「ルクリリ」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「………色々ですよ」
「ふーん。なんだ、もう拗ねたりしないんだ」
「はい」


 ルクリリが腕を回して、ペコの首に絡めてくる。苦しさから逃れるように、イヤイヤとダージリン様に助けを求めたけれど、バックミラー越しに笑うダージリン様とアッサム様にはきっと、じゃれているようにしか見えないのだろう。


 次は、本当にちゃんと仲間を守れるように。

 強くなれたらいい。







肩を組んで笑お ⑤

 膨らんでいたスカートのポケットから退学届けを取り出したルクリリは、ダージリン様の机の上に置いた。

「私も責任を取ります」
「私もですわ!」
「私たちも責任を取ります」

 慌ててペコも取り出して、ルクリリの封筒のすぐ傍に並べた。何にも打ち合わせをしていなかったのに、バニラたちも退学届けを書いてきていた。騒動に巻き込まれただけなのに、バニラたちが辞める理由なんてない。

「いえ。私だけが責任を取りますので、ペコ達には聖グロの戦車道を続けさせてあげてください」

 ルクリリは自分以外の退学届けをまとめて、勝手に手に取って一歩下がった。
 本当に腹が立つ。
 こういうことをサラッとしてみせるところが、ペコにはない強さなのだ。
 ペコがクラス委員をやりながらも、次期隊長にはなれないのは、何かが足りないから。
 ルクリリのような強さとか、ルクリリのようなカッコよさとか、ルクリリのような潔さとか。

 悪役になりきる心とか。

「ルクリリ!私も辞めるって言いましたわ!」
「聖グロにいろ、ローズヒップ。クルセイダーに乗りたくて聖グロに入ったんだから」
「嫌ですわ!」
 ペコたちの退学届けを束ねて捻り、ゴミみたいにしたルクリリは、胸倉を掴むローズヒップを睨み付けている。
「ローズヒップ、ここで声を荒げるな」
「ルクリリが1人で辞めるなんて、絶対にダメですわ!」
 退学届けなんて、何度でも書き直して提出すればいい。もし、本当にルクリリを退学させるのなら、すぐにでもペコは直接ダージリン様に辞めることを告げる覚悟だ。

「2人とも、周りを見なさい」

 涙目でルクリリの胸倉を掴む背中に、アッサム様が声を荒げた。ここは隊長室で、1年生は全員、ダージリン様の前に並んでいる。

「ごめんなさいです、アッサム様………」
 
 胸元が寄れたセーターをピンと直して、ルクリリがもう一度ダージリン様に向きを戻した。

「申し訳ございません。どうか、今回の他校の生徒との喧嘩は、私だけに処分を下してください」

 お願いします、とルクリリが頭を下げるから、ペコはそのズルさに腹が立って、何だか泣きたくなった。ローズヒップみたいに声を荒げて今すぐに抗議できないことも、自分だけを処分して欲しいと、ダージリン様に詰め寄ることも、ペコにはできない。一歩が重く、一言が出せず喉が痛む。

「オレンジペコ」
「………はい」
「あなたはどうするの?」
「私もルクリリと同じ処分を望みます」
「そう」
「私が最初に水を掛けなければ、騒動にはなりませんでした」
「そうね」

 ダージリン様はルクリリの退学届けを手にして、さっきルクリリがしたことを真似て、捻じってしまった。

「ルクリリ」
「はい」
「あなたの手元にあるゴミと一緒に処分しておいて」
「………はい」

 捻じれた退学届けがルクリリの手元に戻ってくる。ダージリン様は退学届けを受け取るつもりはないご様子だ。

「オレンジペコ」
「はい」
「聖グロの戦車道はあくまで優雅。自らの手で自らの未来を汚すことはあってはならないことよ」
「はい」
「光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良いこともある。でも、あなたが選んだ方法がその時の最善であったのなら、それは聖グロの総意とされるの」
「………はい」
「ティーネームを授かっていることを、あなたがノーブルシスターズと巷で呼ばれ、注目を集めているという身分であることを、今一度深く考えなさい」
「はい、ダージリン様」

 もう一度、1年生をじっくりと眺めている瞳。
 どっしりと椅子の背もたれに身体を預けて、とても優雅でいらっしゃる。

「1年生が起こした問題については、教育担当のアッサムが報告書を作成し、OG会に説明に行きます。戦車道1年生は全員、連帯責任として早朝より校内清掃、訓練場の清掃をすること。当然、それ以外にも、暴力を振るった生徒、暴言を吐いた生徒にはそれなりの罰を受けてもらいますので、心の準備をしておきなさい」

 アッサム様が手元のファイルから、いくつかの封筒を出して、ルクリリに見せてくださった。
「寛大な処分を求めて、多くの生徒が署名しています。戦車道2,3年生、整備科全生徒、情報処理部。どれだけの人があなたたちのことを想っているか、どれだけの人の信頼を背負っているか、きちんと考えなさい。お願いだからこれ以上、私たちをがっかりさせないで」

 退学届けというゴミをきちんと処分するようにと念を押され、1年生は全員寮に戻るようにと言われた。これから、謝罪行脚のため、先輩方の寮室を訪問しなければならない。


「ルクリリ、どうして1人だけで学校を辞めようとしたんですか?」
「当たり前だろ。私に売られていた喧嘩なんだ」
「水を掛けたのは私です」
「そうさせたのは、私だろ」
「そう言う無駄にカッコつけるの、どうかと思います」
「別にカッコつけのためじゃない」
 隊長室の扉を開け、早足で歩きながら、ペコはルクリリの腕をきつく引っ張っていた。ちっぽけな力では何の効果もないけれど、怒っているということは伝えたい。腹が立つのだ。でも多分、自分に腹が立っている。ルクリリのようなことができない自分に。どこまでも、悪者になりきれなかった自分に。

「ルクリリはズルいですよ。そう言う所の全部がズルいです!」
「はぁ?何がどうズルいって言うの。私が売られた喧嘩なんだ。みんなを巻き込んだのは私のせいなんだから、責任を負うのは当たり前なんだよ」
 腕や背中を叩いても、何ともないと言わんばかりのルクリリ。精一杯力を入れて叩いても、全部受け止められて、そして消えて行ってしまう。
「ペコ、もうやめましょうよ。誰も退学にならないのだから」
「そうですわ。また揉め事を起こすと、アッサム様にお尻を叩かれますわ」
 バニラにたしなめられてローズヒップに無理やりに引き離されても、帰る方向だってずっと同じで過ごす部屋も同じで。目頭が熱くなって悔しいって思うのは、ダージリン様に怒られたからでもなくて、反省しているわけでもなくて。

 本当に、悔しい。
 ダージリン様のためにぐっと我慢することも。仲間を想い、嫌われてでも守ろうとすることも。どちらもペコには出来なかった。


 集まってくれていた1年生全員に、退学は免れたと告げて、改めて頭を下げた。みんなホッとして嬉しそうだけれど、連帯責任の罰が待っているのだ。もう慣れっこになった、なんてニルギリたちは言ってくれる。何の悪さもしていないクラスメイト達を巻き込むことが心苦しかった。でも、ダージリン様の指示なのだ。自分の行動が誰かを傷つけ、迷惑を掛けるということを、身をもって学べと言うことなのだろう。整備科や情報処理部の1年生たちも集まっていて、みんなで罰を受けようって、何だかやる気がみなぎっているように見える。
「ペコが水を掛けたんでしょう?」
「………はい」
 整備科のチャーチル担当の1年生が、目を赤くしているペコの肩を優しく叩いてきた。さっきまでルクリリに食って掛かっていた声。バニラたちに引き離されて唇を尖らせたままだ。
「よくやったわ。きっと、後でアッサム様から褒められるに違いないわ」
「いえ……流石にそれはないと思います。こんな騒動になってしまったわけですし」
「でも、ペコが我慢できない程だったのでしょう?聖グロの生徒として、ダージリン様への侮辱を笑って聞き流すなんてしてはいけないのよ。やるときはやらないと」
 周りの皆も、ペコが手を出したということは、よほどの暴言だったと捉えているようだ。だからこそ、ほんの数時間で嘆願書を集めてくれたのだろう。これが最初に手を出したのがルクリリなら、今頃、批難轟々だったに違いない。普段の風格の違いと言うものだ。

「みんな、ごめんなさい。何かといつも、一緒に罰を受けさせてばかりで」
「いいのよ、ペコ。聖グロの戦車道は全員で戦っているの。整備科も情報処理部も、他の学部もみんな、ペコたちと同じ想いだから。同じ道を歩んでいる仲間のためなら、どんな罰でも一緒に受けるわ」
 集まってくれた多くの仲間たちの心配の目が、なぜかペコにばかり集まって。役得だよなって思わずにいられない。ルクリリはそれも当然だろう、と思いながら眺めていた。手を取り合って微笑み合う少女たちの美しい光景。ルクリリだけが手を出していたのなら、きっと今頃、連帯責任の文句や嫌味を言われていたはずだ。



 3人でとにかく先輩お一人お一人に頭を下げに行き、夕食の時間も、食堂に集まった生徒全員に頭を下げて回った。こういう謝罪行脚に馴れている身体というのも、どうなんだろうって思いながら、ずっとずっと頭を下げ続けた。ほとんどの生徒は、ペコが水を掛けたことに対してとても寛大でいて、よくやったと言ってくださるコメントも多かった。複雑な表情を見せるペコは、笑うことも開き直ることもできなくて、ずっとずっとㇵの字に眉をひそめたまま。

 夕食にダージリン様もアッサム様もシナモン様やグリーン様も現れず、幹部の先輩方とお外に食事に出て行かれたそうだ。夕食を取りながらみんなで話し合いを持ち、ルクリリたちへの処分を決めるのだろう。
 食事中もいろんな人に応援みたいな言葉を掛けてもらい、特にペコにはみんな優しかった。そのことに苛立ちを覚えているのだろう。おかげでルクリリに対しては拗ねた態度を見せたまま。ずっとずっと、ルクリリに唇を尖らせた顔を見せ続け、その顔のまま夜は終わった。

「3人にレオタードを着せて、白鳥の湖を躍らせるという案もあったのだけれど……。今回はキャンディ達からのお願いもあって、とてもとても寛大な処分を下すことになったわ」
 月曜日。校内の清掃をして、朝食後に隊長室に呼ばれたペコたちは、ダージリン様の手から30センチ四方のラミネート加工された紙を受け取った。

「あの、これは?」
「いいと言うまで、授業以外の時間は首にぶら下げて過ごしなさい。食事中は椅子にでも掛けて、目立つようにしておくこと」
 首からぶら下げられるように紐が通されている。


『私は罪を犯しました』


 しっかりと太くて大きな字でプリントされているそれを受け取ったルクリリは、もう散々笑われ者は馴れっ子なのに、と心の中で思った。
「踊りを見たかったのに、キャンディたちの涙の訴えに負けたわ」
 ダージリン様のことだから、何かと笑わせようとされるだろうと思っていたけれど、今回は投票で罰を決めたそうだ。きっとシナモン様も反対してくださったに違いない。
「私は戦隊もののコスプレを着せたショーを見たかったのですが」
 アッサム様はペコの首に、プラカードを掛けながらため息を吐いていらっしゃる。たぶん、本当にそれを提案されたのだろう。誰の何に影響を受けて、そんな提案をされたのか。
「休み時間のたびに、その姿で他学部の教室を訪問して謝ってきなさい」
 アッサム様は携帯電話を構えて、ペコの写真を何枚か撮影された。罰を与える側がとても楽しそうなのは、どうなのだろう。とはいえ、寛大すぎるほど寛大なのだ。戦車に乗るな、とも言われなかった。ティーネームもはく奪されずに済んだ。
「罰はこれだけですか?」
 ペコはアッサム様を見上げて、本当にいいのかと確認している。いろんな人に励まされることに、かえって居心地が悪い様子だったから、目に見えた罰がこの程度なのは、優等生のペコには物足りないのだろうか。これはこれで十分、普通に考えたらキツイはずだけど。聖グロの生徒として、毎回毎回、お仕置きは恥の上書きしかない。
「白鳥の湖を踊りたいの、ペコは?」
「いえ、そうじゃありません。でも、ティーネームはく奪とか戦車道から他学部への転籍とか」
「あなたはもう、オレンジペコなのよ。身体に沁みている名前を奪ったところで、あなたが聖グロでなすべきことは変わらないわ」
 ペコの頭を撫でるアッサム様の声も表情もいつもと変わらない。過ぎたことであり、ルクリリたちがしでかしたことに対して、ここまで寛大な処分で済ませてくださるのは、ルクリリ達のことを守ってくださっているからだ。決して、殴ったり水を掛けたことを仕方がないと思っておられるわけじゃない。そう思っているのは、他の生徒たちだけだ。お2人は上手くやり過ごせない未熟さを憐れんでくださっている。もう、次はない。

「………もし、アッサム様なら。……アッサム様なら、ダージリン様のことを馬鹿にする人が目の前にいた場合、どうされますか?」
 悪いことをして、殴られるくらい怒られた方が楽なことはある。いろんな人から罵倒されて、憔悴しきるほどの罰を与えられた方が、ずっといいことだってある。ペコはたぶん、ダージリン様とアッサム様が美咲ちゃんに頭を下げたことや、謝罪のために多方面に尽力されたことが辛いのだろう。そうさせてしまったことの責任を感じながらも、周りからの励ましを受け、やるせないのだ。
「私なら、笑ってその場から離れるわね」
「………はい」
「そんな人と飲む紅茶は、とてもマズいでしょう?」
「はい」
「我慢して聞き流すことも立派なことだわ。でも、本当に守るべきものがあるのなら、耳を塞ぎ、離れてしまうことが最善策と考えると思うわ。結果的にダージリン様に迷惑を掛けてしまうもの。それに、知らない人とはいえ、そういう人間が身近にいるということを、ダージリン様に知られたくもないわ」

 あの時、傷ついたのはあの罵倒を聞いたその場にいた聖グロの生徒であって、ダージリン様でもアッサム様でもない。ルクリリが上手く交わしていれば、ダージリン様やアッサム様の耳に深いな想いが届くこともなかった。

「………もっと、うまく立ち回るべきでした」
「そうね」
 プラカードを首に掛けて、お2人に頭を下げると、その姿のまま3年生の教室へと真っ直ぐ向かった。お姉さま方は皆、携帯電話を構えて待っておられて、大真面目に謝罪しているルクリリたちを、アッサム様と同じようにドンドン撮り、保存されているようだ。どこの教室に入っても、皆動画に写真に、保存しておられてばかり。廊下を歩いても、どこかの誰かが撮影をしているから。なるほど流石にアッサム様。下を向いて歩くことも許されなくて、普通にきついお仕置きのようだ。

肩を組んで笑お ④

「ペコ」
「………ルクリリ」
「ごめん」
「私が……最初に手を出したんです」
「手を出させたのは私だから。そんなことは気にするな。ダージリン様が、あとは引き受けてくださるそうだ。シナモン様と一緒に、先に船に戻ろう」

 店内は静まり返っていて、面白半分で店を出ずに見ていた他のお客様が様子を伺っている。聖グロの青い制服の生徒たちは、黙ってお店を出た。お店の外では、騒ぎを聞きつけたのか、1年生の戦車道や整備科の生徒たちが心配そうな眉を並べている。キャンディ様もグリーン様も駆けつけてくださった様子。


「直ちに学生艦に戻りなさい。聖グロの生徒は実家に戻った生徒も含めて、全員に帰艦命令が出されました。明日も外出は禁止です」

 いつも柔らかく微笑んでくださるシナモン様は、険しい顔。ご自分が着ておられるセーターを脱ぐと、ルクリリに押し当てた。
「コーヒーのシミを付けて、みすぼらしいわ。聖グロの生徒でしょう?次期隊長がそんな姿で人前に出るんじゃありません」
「………ありがとうございます」
 受け取ったルクリリは、セーターを脱いでコーヒーの匂いのする湿った髪を軽く握った。白いシャツも、薄く汚れていた。

「帰ろう、ペコ。私たちはまだ、聖グロの生徒だ」
「はい」
「帰って、部屋の整理でもするか」
「そうですね」

 いつでも出て行けるように、身軽にしてしまわないといけない。沢山ある戦車道の本も、手あたり次第集めた資料の山も、仲間と一緒に撮ってコルクボードに張り付けている写真も、全部、段ボールに放り込まないと。

 退学かも知れない。それは何かあれば毎回思ったものだ。そのたびにローズヒップだけがアッサム様に頬を叩かれるだけで済んだり、始末書だけで済んだり、清掃活動や、戦車道訓練施設10周ランニング、そういう罰を受けて、それで免れてきた。だけど、人に暴力を振るったことでの罰は一度もない。聖グロに来てから、殴りたくなるほど悔しいと思うことなんてなかった。みんな、穏やかで優しくて、仲間想い。お嬢様と呼べる人間じゃないことはちゃんと自覚していたけれど、それでもこの聖グロと言う世界では、そうでありたいと願い、過ごしてきた。

 思うようには、行かないものなのだ。
 ルクリリがこのティーネームに似合う人物でいようと思っても、どうにもこうにも、おとなしくしていられない。

 部屋で待機を命じられている間、3人で徹底的に部屋を掃除して、ついでに寮の廊下や窓の拭き掃除もして、退学処分にされるくらいなら、自主退学の方がダージリン様に迷惑もかけないだろうと、机に向かって退学願を書いた。ペコとローズヒップには、その罰を受けさせたくはないけれど、2人は何があってもルクリリと同じ罰を受けると言い張って、折れようとしない。聖グロの校章の入った封筒にそれぞれが書いた退学願。流石に、ダージリン様であろうとも、他校との揉め事を起こした生徒を傍に置いてなどくださらないだろう。何とか、2人だけは見逃してもらいたい。床に頭をこすりつけてでもお願いをしなければ。

 殴られた他校の1年生がダージリンのファンだと言うことは、すぐにわかった。殴られた頬を気にしながらも、嬉しそうな瞳は隠せていない様子。
 ペコがいきなり水を掛け、そのことについて謝ってほしいと言ったら、今度はルクリリが殴ってきた、とまくし立ててくる。2人がそう言う暴力的なことをした理由を問うと、ルクリリが大学選抜チームの試合の時に、品のない言葉を吐いたことを注意しただけ、だと。ダージリンの傍にいるのだから、もっと上品にふるまうべきだと、小学生の頃からの友達として、言って“あげた”らしい。そのことで、ペコが腹を立てて水を掛けるというのも不思議なことだ。やはり、ペコたちから説明を受けなければ、本当のことがわからない。隠したいことがありそうな他校の生徒たちの様子を見ている限りでは、水を掛けられるようなことをしたからだと言うのはありありと読み取れる。

「ルクリリに苦言を?彼女はわが校の戦車道の生徒ですので、責任は私にあります。あなたがルクリリの態度について苦言を呈する必要はございませんわ」
「いえ、あの、私は小学生時代からずっと彼女とは友達で。友達として、言動の注意をしたまでです」
「そうですか。あの子にはOG会からもクレームが来ましたし、こちらではもう、その件での指導は済ませてありますの。ですので、他校の方から何かを言われる筋合いはございません。何か文句があるようでしたら、すべて広報担当におっしゃってください」
 広報担当って誰のことかしら。アッサムは隣で話を聞きながら、きっとグリーンだろう、と心の中で決めておいた。殴られて痛そうな頬の色は、ダージリンと話ができて嬉しそうな、それでいて、ルクリリたちを庇うことが気に食わないような、悔しさの色のようにも見える。

「ダージリン様は、暴言や暴力を振るうような人を庇うおつもりですか?」
「えぇ、もちろん。後輩の失態を庇えないようでは、戦車道の隊長を務めることができませんわ」
「ノーブルシスターズの人は水を掛けてきたんですよ?」
「指導が行き届いておりませんでしたわ。どれほど腹が立つことを言われても、我慢をするようにと、後でいい聞かせておきます」
 ダージリンは謝罪しながらも、ルクリリ達のことを最後まで庇う姿勢を変えようとしない。冗談じゃなく、人を殺したとしても、ダージリンがルクリリたちを学校から追い出すことはしないだろう。アッサムが好きな人は、後輩を愛し、守り抜く人だから。
「聖グロの戦車道に、あんな人たちはふさわしくありません!」
「それもすべて、私たちの指導が行き届いていない結果ですので、重ねてお詫び申し上げます」
 ちくりと嫌味を言いながらも、それでもダージリンは頭を下げる。流石に暴力に打って出た以上、偉そうにふんぞり返ることもしたくないのだろう。アッサムも何度も頭を下げて、最後は目を赤くして悔しそうに逃げ去って行った“自称ルクリリの友達”の後姿を見送った。

「帰ったら、各責任者を適当に見繕って隊長室に呼んで頂戴。1年生はいいわ。大体の事情はわかったから」
「わかりました」
「まったく……あの子たちは。アッサムの指導の賜物ね」

 全員の帰艦が終了したと、グリーンから報告メールが届き、アッサムはタクシーを捕まえて聖グロ学生艦へと告げた。食事会を楽しみにしていた両親には申し訳ないが、全員帰艦は仕方がないことだ。聖グロの生徒が横浜で問題を起こしてしまったのだから、すぐ、あちこちにその噂が広がるだろう。間もなくOG会にも伝わり、いろんな人からの電話攻撃が始まる。反省の態度をわかりやすく見せるためには、生徒の外出を禁止して、浮かれて遊んでいる姿を見せないことだ。

「ダージリン、電話が鳴っていますわ」
「………こっちの暴力の方がよっぽど酷いわ」
 ダージリンが中学時代から使っている、使い慣れた携帯電話の小さな着信画面には、オレンジペコ様と書かれている。名前の変更の仕方がわからないから、ずっとそのまま。
「アッサム、あなたが出て」
「ダージリンにかかってきています」
「私は反省に涙して声も出ないと、そう言ってちょうだい」
「怒られたいんですの?」

 携帯電話を押し付け合う間も、鳴り響く呼び出し音。アッサムは通話ボタンを押した後、ダージリンの耳元に押し付けた。

『ダージリン。3コール以内に出るようにと、何度も言ったはずよ』
「申し訳ございませんわ。反省に涙しておりましたの」
『私は、あなたを嘘吐きに育てた覚えはないわ』
「あら、私たちは愛菜さまに育てていただいたはずですが」
『その態度を改めさせるために、水を掛けてぶん殴らないとダメかしら?』
「えぇ、是非ともそうしてくださいませ。アッサムが受けて立ちますわ」
 聞き耳を立てながら、都合よくしれっとアッサムに責任を押し付けるあたり、まだまだダージリンも余裕らしい。
『OG会の幹事は、面白いって笑っているわよ。前代未聞の新記録樹立、おめでとうって』
「そうですか。オレンジペコとルクリリが問題を起こしましたの。どなたかのティーネームと同じですわね」
『…………最低だわ』
「素晴らしいティーネームですわ。あの子たちにこのティーネームを授けたことが、私たちの誇りです」
『……あぁ、そう。マチルダ会からは、2人のティーネームはく奪を勧告させてもらうわ』
 そう言えば、マチルダ会の副幹事は愛菜さま。幹事はもう少し上のお姉さま。
「ご冗談を」
『OG会の幹事からは、すべてダージリンに一任すると』
「流石、ルクリリお姉さまですわ。今度、うちの1年生たちを1日お貸しいたしますと、お伝えくださいませ」
『ご冗談を。涙を流して反省をしていたわりにはとても元気な声ね、ダージリン』
 愛菜さまは、さほどお怒りではいらっしゃらない様子。何を言っても無駄だってわかっておられるのだろう。ダージリンが全力で1年生たちを守ることは、よくご存じの方だから。
「また、お会いした時に、きちんとお詫びいたしますわ。この件に関して、該当生徒に対するいかなる処分勧告もお受けできませんので、ルクリリお姉さまにそうお伝えください」
『育て方を間違えたわ。私の責任ね』
「そうですわね」
『いいわ。勝手にしなさい』

 プツンと音声が途切れたようだ。アッサムは押し当てていたダージリンの携帯電話を閉じて、その手に返した。ふて腐れたようにアッサムを睨んでくる。大好きな愛菜さまに怒られたことで、ちょっと機嫌を損ねたのだろう。
「そんな顔をして、私を見ないでください」
「アッサムが電話に出ないからよ」
「私が出た方が、かえって怒りを買いますわよ?」
 窓の外に視線を逃がして、ふて腐れていることをアピールしたところで、甘やかせるまでにはまだまだ、やらなければならないことが沢山ある。きっと、戦車道の生徒たちは気が気ではないだろうから。

「折角のお休みのところ、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございませんでした」
 アッサムが呼び出したのは、マチルダⅡ部隊長のシナモン、2年生のキャンディ、リゼ、カモミール、整備科長と情報処理部のグリーン。
 隊長椅子に腰を掛けてため息を吐いてから数分。まだ、お湯も沸いていないのに、ぞろぞろと入ってきたメンバーは、ずらりとダージリンの前に並んで一斉に頭を下げた。
「シナモン、あの子たちは?」
「全員、寮にいます」
「そう。グリーン、あなたの元に情報は集まったかしら?」
「はい。バニラ、クランベリー、偶然同じお店にいたニルギリとルフナからの聞き取りは終わっています」
 短時間の内にトラブルの概要をまとめてくれたグリーンから書類を受け取り、パラパラと捲って文字を読む。先に手を出したのがペコと言うのは間違いないようだ。そして、ペコを馬鹿にした発言をした相手に、ルクリリが殴りかかった。ニルギリたちからは、殴られた他校の生徒とルクリリの関係が細かく書かれてある。聖グロへの受験に落ちて、ルクリリに嫉妬していたらしい、と。
「ペコもルクリリもまだまだね」
 読み終わった書類を机に置き、アッサムが淹れてくれた紅茶を手にした。今度はアッサムが書類を手にして、傍で読み始める。
「あの子たちがしてしまったことは、どんな言い訳も通用しません。私の指導不足でもあります」
「それで、シナモンはあの子たちにどんな処分を下せと?」
「もし、聞いてくださるのであれば」
 シナモンは嘆願書と書かれたものをダージリンの机の上に置いた。
「これは?」
「戦車道3年生、ダージリン様とアッサム様以外の生徒全員からのお願いです。寛大な処分を、と。それが叶わぬ場合は全員、連帯責任として退学届けを提出する覚悟です」
 封筒の中には、ダージリンが毎日を共に過ごしている3年生の仲間の署名がある。ルクリリたちに寛大な処分を、つまりは何も処分するなというお願い事だ。
「ダージリン様、私たち2年生からもお願いいたします!」
 キャンディも嘆願書と書いてある封筒を、机に置く。
「こちらは整備科1,2,3年生、全員の署名を集めましたので、お納めください」
「えっと、情報処理部は1年生が全員、何も言っていないのに私に押し付けてきましたので、おまけとしてお納めください」

 ダージリンとアッサムが頭を下げている間、シナモンたちは学校中を走り回ったに違いない。受け取り、全員の名前が本当に書かれてあることを確認して、やれやれ、と背中を椅子に預けた。

「……あなたたちの気持ちはわかりました」
「この様子だと、1年生もあの子たちを助けようと走り回っているでしょうね」

 報告書を読み終わったアッサムが、今度はその嘆願書の束をまとめて机から奪っていく。大切にファイルの中にしまった。アッサムが裏で何かしらの操作をしたとは思わないが、情報処理部や整備科まで動かすと言うのは、アッサムがルクリリたちに目を掛けている影響もあるはずだ。

「3人は部屋で待機をさせていますが、他の1年生は嘆願書と退学届けをセットで用意しているみたいです」
「何だか、私が悪代官みたいだわ」
 この件に関しての処分は、あの場にいた生徒たちの反省の態度を見てから考えると伝えた。OG会の対応もすべて、ダージリンが責任を持つと。不安そうなキャンディたちは、祈るようにダージリンを見つめてくる。

「うちの1年生は、随分愛されているわね」
「私の指導の賜物ですね」
「あら。他校の生徒を殴ってもいいとあなたが教えたの、アッサム?」
「ダージリンや聖グロの生徒に対して、暴言を吐いたのでしょう?致し方ありません」

 
 …
 ……
 ………

「……うちの副隊長がこう言っているので、あとはこちらに任せてもらうわ」

 人に暴力を振るうことを、大前提として認めてはならないというのに。
 そもそも、アッサムは指導として悪さをしたローズヒップの頬を叩くことや、お尻を叩くなんて日常なのだ。ルクリリもアッサムから言葉遣いのことで、両頬を思い切り抓られていた。アッサムがこれだから、あの子たちに暴力について文句を言えない気がしないでもない。


「流石、アッサム様。裏番長ですね」
 

 グリーンが呟いた言葉は、あながち嘘じゃないだろう。


『1年生のティーネームを持つものは、全員、隊長室に来なさい』

 膝を抱えてじっと待っていると、アッサム様の声が寮に響いた。携帯電話ではなく、寮内放送で呼び出すということは、相当お怒りでいらっしゃるのかも知れない。ペコは立ち上がり、皺の付いたスカートをパンパンと払った。シャワーを浴びて服を着替えていたルクリリは手に退学届けを持っている。ペコも忘れずに持って、ローズヒップとうなずき合う。

 寮の玄関には整備科と戦車道の1年生が全員、放送を聞きつけて集まっていた。

「ルクリリ」
「ごめんね、ルフナ。関係ないのに巻き込んで」
「いいの。殴られた方にだって、絶対原因はあるわ。私たちから、ダージリン様にもちゃんと説明をするわ」
「いや、どんな事情でも先に手を出した方が悪いんだ」
「そうです。最初に手を出したのは私です。私が一番悪いんです」

 言い訳なんてしないで、頭を下げるだけ。みんな、心配そうに見送ってくれたので、手を振って寮を出て隊長室に向かった。


「失礼します」
 
扉を開けて入ると、シナモン様たちが部屋の隅っこに並んで立っておられた。先に呼び出しを受けて事情を聞かれていたのだろう。ペコたちは深く一礼をしたあと、隊長席に座っておられるダージリン様の前に並んだ。

「オレンジペコ、ルクリリ。他校の生徒に暴力を振るったのは、あなた方2人で間違いありませんね?」
「間違いありません」
 ダージリン様の傍に立っているアッサム様が、とても厳しい目でペコを見つめて尋ねてくる。ルクリリがはっきりと答えて、ペコもうなずいてみせた。
「それ以外の人は手を出していないの?」
「出していません」
「ローズヒップは暴言を吐いてない?」
 確認するように、瞳がじっとローズヒップを捉える。お仕置きされることに馴れているローズヒップは、少しひるむように一歩下がった。
「………お相手の方と同じくらいの暴言を…言い返しましたわ」
「そう」

 こんな時でも、ダージリン様は優雅にお茶を飲んでおられる。こんな素晴らしい方に、頭を下げさせたのだ。ペコはもう、ダージリン様のお傍にはいられないだろう。いる資格がない。
 

「オレンジペコ」
「はい、ダージリン様」
「他校の生徒に水を掛けたの?」
「はい」
「どうして?」
「それは………私が未熟だから…です」

 今更ながら、ダージリン様のことを侮辱する見ず知らずの人よりも、ダージリン様に頭を下げさせるペコの方がずっと悪人ではないか、と気が付いた。ずっとずっと、ペコの方がダージリン様にとって嫌な存在になってしまったのだ。

「ペコは他校の生徒がダージリン様を侮辱したことに、カッとなっただけです。ですが、そもそもの原因は私にあります。私の代わりに腹を立ててくれました。すべての責任は、私にあります」

 ルクリリが一歩前に出る。そう言うところでカッコつけて仲間を庇おうとするから、腹が立つのだ。あの時もそうやってカッコつけて、ぐっと我慢してくれていたのに。ペコが先に手を出してしまった。だから、ルクリリも手を出さずにはいられなくなった。ペコだけを悪者にできないって、気を使う馬鹿だから。

「オレンジペコが先に手を出したのよ。彼女には責任を負う義務があるわ」
「いえ。相手は私の知り合いです。全てにおいて私が責任を負います」

 ダージリン様はティーカップをソーサーに戻し、肘を立てた手の甲に顎を乗せた。1年生の端から端まで1人1人の顔をじっくりと眺めておられる。

「ルクリリの言う責任とは、どのようなことかしら?」
「学校を辞めます」

 膨らんでいたスカートのポケットから退学届けを取り出したルクリリは、ダージリン様の机の上に置いた。




肩を組んで笑お ③

「女の子たちがテラスで喧嘩してるわ!」




 アイスティを飲みながら、良く見えないテラスの席でルクリリたちはステーキを食べているのかしら、なんて思っていると、ニルギリの耳にわずかにガラスが割れる音が届いた。
 店員が慌ててフロアを駆け抜けて、テラスに向かって行く。他のお客さんたちがざわざわして、みんな同じ方向を眺めている。

「喧嘩?まさか、ローズヒップとルクリリはこんなところでやりあってるの?」
「まさか。馬鹿丸出しもいいところよ」
 ニルギリの問いかけに、ルフナもそんなまさかって小さく笑う。とはいえ、あの2人は、そんなまさかを現実にする人だから、ちょっと嫌な予感でもある。

「見に行ってくるわ」
 女の子たちと言うのが、聖グロの生徒とは限らないけれど、ルクリリたちが食事している相手は美咲ちゃんだ。
 ルクリリがほとんど満点に近い点数、成績2位で聖グロに合格した時、落ちるべき人が受かるなんて、と、ルクリリのことを陰でずっと罵倒していた。小学生の頃から、高校は聖グロに入りたいと言い続けていた美咲ちゃんが、男子生徒相手に喧嘩をするお嬢様とは程遠いルクリリに負けて、プライドを傷つけられ抉られ、あまりにも落ち込み過ぎて、戦車道を辞めたことは知っている。
 ルクリリと違って、確実に聖グロに入れるだろうと言われていたニルギリとルフナは、中学3年生になった頃から、彼女に敵視されて、あまり会話をしなくなった。
すっかりもう、過去のものとして、久しぶりに会ったルクリリと仲良くランチをしているのかと思っていたけれど。何か、言い争いでもしてしまったのだろうか。

「バニラ、クランベリー」
「ニルギリ!」
「え?やだ、やっぱりルクリリたちが喧嘩しているの?!」

 周りのお客さんたちが迷惑そうに立って、距離を開けている。店員があわあわしているその先に、美咲ちゃんの胸倉を掴んでいる青い制服の生徒。ルクリリだ。

「止めなさいよ、2人とも」
「止められなかったの。止めたくもなかったし……でも、ダージリン様を呼べって」
「えぇ?!」
 おっとりしている2人には、確かに喧嘩は似合わないけれど、羽交い絞めして止めるくらいはするべきだ。でもなぜだろうか。ローズヒップとペコが全く止める様子もない。

「私はダージリン様に電話するから」
「では、私はアッサム様に。ニルギリはシナモン様と、キャンディ様に連絡をして」
「いや、だから、先に止めてってば」
「ルクリリは、殴らないと気が済まないのよ」

 何か、取りあえず殴りたい理由ができたらしい。ざわざわしているテラスでは、他校の生徒にメンチ切っているローズヒップとペコの姿。声を張り上げて、仲間を侮辱するなと叫んでいるルクリリ。

 何となく、ルクリリが手を出した理由がわかったような気がして、ニルギリは携帯電話を取りに席に戻った。


 ダージリンとランチを取った後、別行動をしてそれぞれ実家に帰ることになっていた。ダージリンを迎えに来たハイヤーを見送り、アッサムは携帯電話のショップに入った。秋の新作がどんなものなのか、この目で確かめたい。実家からの迎えはもう少し時間がかかるから、その間の時間つぶしに、と。
ショップに入るとすぐにクランベリーから電話がかかって来て、日差しの中に飛び出した。問題が起きたので、大至急来てもらいたい、と。カフェの名前を告げられて、頭の中に浮かんだ地図は、アッサムがいる場所から少し離れていて、隣の駅だ。

「問題というのは、何?ローズヒップがまた迷子になったの?」
『いえ。似たような…と言うより、もっと悪いことです』
「もっと悪いの?」
『はい』
「ダージリン様には?」
『バニラが電話をしています。シナモン様、キャンディ様にも連絡を取りました』
「そんなに?」
『はい。とにかく、来ていただけませんか?』

 こういう助けてください、みたいな電話をクランベリーが掛けてくると言うのはどういうことだろう。ちょうど、アッサムを迎えに来たハイヤーに乗って、実家に帰れないかもしれないと親に電話をして行き先変更を伝えた。アッサムの携帯電話が鳴る。

「ダージリン」
『バニラから電話が来たわ』
「私もクランベリーから」
『状況を電話で上手く説明できないって言っているわ』
「そのようですわね。迷子よりも悪い状況、らしいです」
『あれ以上?まったく、アッサムの指導の賜物ね』

 どこの誰が問題を起こしたのか、具体的な名前を聞いていないけれど、おおよそあの3人の、とりわけ2人のどちらかだろう。あるいはどちらも、なのか。公衆の面前で喧嘩でも始めたのかも知れないが、そんなことで、シナモンやキャンディまで呼ぶだろうか。もしそうなら、むしろアッサムとダージリンには隠したいと思うはずだろう。責任者を呼ぶと言うことは、第3者に迷惑を掛けている、と言うことだ。あるいは、OGが絡んでいるか。

「どうしたの、グリーン?」
『アッサム様、そっちにも情報は行きましたか?』
「何の情報かしら?」
『ルクリリがカフェで他校の生徒を殴ったようです。うちの学部の1年生が街中で噂を聞いたらしくて、私に電話してきました』
「……………あの馬鹿」

 クランベリーの言う迷子よりも悪い状況というのは、確かなようだ。


ルクリリが美咲さんの胸倉を掴んで振り回し、一発頬を殴ったのを見て、何だかすっきりしている自分がいた。本当は、ペコがそれをするべきだったのだ。ダージリン様を、ルクリリを、聖グロのすべてを馬鹿にする言動を、じっと耐えるなんて出来なかった。水を掛けてしまったのだから、悪いのはペコだけだというのに、悪役をルクリリに押し付けてしまった。ルクリリが友達を殴るのを、止めたりなんてしてあげなかった。これで退学になるのならば、ペコも喜んで退学して、一緒に別の学校で戦車道を続ければいい。たとえこの揉め事を起こしたことで、ダージリン様に嫌われてしまったとしても、それでも、許せないものは許せなかった。

 ダージリン様もアッサム様も、血相を変えてルクリリを、ペコを、ローズヒップを怒るに違いない。お2人から殴られるかもしれない。


「ご迷惑をおかけしました。おそうじをしますので、道具を貸していただけますか?」

 外野だった美咲さんを囲んでいる生徒たちが、次々にルクリリを大声で罵倒しているけれど、宣言通り一発殴ったルクリリは、それ以上何も言わず、言われても無視を決め込んだように店員さんに頭を下げて、割れたグラスを拾い始めた。ペコもローズヒップも、引っ張られて歪んだテーブルクロスの上で倒れているグラスや、零れているコーヒーを黙って片づけ始める。

「何か言いなさいよ、こんなことして!あんたたち、絶対に退学してやるわ!」
「聖グロのOG会にいいつけてやるんだから。聖グロはOGの言いなりなんでしょ?!」

 バニラとクランベリー。そして店内でランチを取っていたニルギリとルフナが、借りたモップや布巾を手に来てくれた。
「ルクリリ、お姉さま方を呼んでいます」
「ありがとう、バニラ。ここの清掃をお願い。私はお店の責任者の人に謝ってくる」
「わかったわ」
 ルクリリは傍にいた店員さんに、店長さんに直接謝罪をしますと申し出て、一度テラスから姿を消した。きっと色々と覚悟の上で殴ったのだ。衝動に駆られて水を掛けたペコよりも、ずっと状況をわかっている。


「………退学になっても、私は構いませんわ」
「ローズヒップ」
「ルクリリが退学なら、私も辞めますわ」
「私もお供します」
 ガチャガチャと割れたガラスを集めて、塵取りで拾う。それを何度か繰り返し、テーブルの上を綺麗に片づけて、無事な食器類は全て下げてもらい、新しいテーブルクロスを広げ、何事もなかったようにセッティングする。その間も、殴られた美咲さんはペコやローズヒップに食って掛かって来ていたし、他の人たちも下品な言葉でののしって来ていたが、バニラたちも徹底的に無視をして、4人テーブルを2つくっつけていた場所は、元通りになった。


「美咲さん、これ以上大声を出すのは、他のお客様にご迷惑ですのでお店を出ましょう。そちらのお代は、こちらでお支払いさせていただきます」

 テラスに座っていたお客さんは、何組かお店を出て行った。その人たちのお会計は、たぶん、店長に謝りに行ったルクリリが支払うことを申し出ているだろう。
 
「良い子ぶって。殴ったくせに掃除?殴った方が悪いに決まっているでしょう?」
「はい。ですので、こちらが支払いをいたします。二度とルクリリの前に、私たちの大切な仲間の前に姿を見せないでくださいませ」

 視界の隅っこに、綺麗なブロンドの髪が見えた。聖グロの制服姿の人がテラスに近づいてくる。

「あんたが先に水を掛けた癖に!あんた、まだ謝ってないでしょう?!」

 殴られて頬を赤くしている美咲さんは、同じ目に合わせたいのか、ペコの肩をぐっと掴んで勢いをつけ倒そうとしてきた。

「あら。うちのオレンジペコがあなたにお水を掛けましたの?それは大変失礼いたしました」

 床に倒れ込まなかったのは、真後ろにアッサム様がおられたから。ダージリン様がすぐ隣で、満面の笑みを浮かべておられる。とても綺麗な笑み。限界まで怒りを抑えていると言うことがわかる。それは店内にいた全員にも、痛いくらい伝わっているだろう。

「ダージリン様」
「ペコ、こちらの方にお水を掛けたの?」
「………はい」
「余程、腹を立てたのね?」
「………はい」
「わかったわ。全員、すぐにお店を出なさい」

 身体を支えてくださっていたアッサム様は、まったく笑っておられない。それでもペコの頭をそっと撫でてくださって、その掌からは優しさを感じられた。

「わが校の生徒がご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません。聖グロリアーナ女学院の責任者である私が、騒動を起こした1年生に代わりまして、謝罪をさせていただきます」

 ダージリン様とアッサム様が頬を腫らしている美咲さんに向かって、90度以上頭を下げている。

 こんなことをさせてしまったことが悔しくて、申し訳なくて、いたたまれなくて。


肩を組んで笑お ②

「ねぇ、こういうお店の紅茶って美味しいの?」
「出されたものは、何でも美味しくいただくよ」

 別に忘れたい過去でも消したい過去でも何でもないことだから、ルクリリがどんな悪ガキだったのかをペコ達に暴露されたって、痛くもかゆくもない。聖グロに入学する生徒は確かにお嬢様ばかり。有名な会社の社長の孫だとか、医者や弁護士の娘だとか。とにかくそう言う人たちの集まりだ。だけど、聖グロは決して御家柄で生徒を区別してなどいない。試験の点数の順番以外は何も見られてなどいないのだ。ただ、卒業後もOG会に入り、後輩たちへの寄付をしていくことが暗黙の了解で、金額もお年玉で何とかなるようなものでもない。
 戦車道は乙女のたしなみと言われて、聖グロは昔から戦車道の名門校。大事な一人娘に戦車道をさせたい世の金持ち父さんが、こぞって娘を聖グロに送り込み続けてきたのだ。いつの間にかそれが、お嬢様しか通えない、と言われるようになってしまったのだ。たぶん、だけど。あとは結婚相手として喜ばれる、とか。今のところ、本当にそうなのかはわからない。


「へぇ、そうなんだ。ほら、聖グロの生徒って、イチイチ紅茶の味に文句言いそうでしょう?」
 そう言われて、アッサム様が思い浮かんでしまった。たぶん、みんな、アッサム様の顔が浮かんだに決まっている。あのお方に美味しいと言わせて、初めて聖グロの戦車道生徒として認められると、シナモン様から教わった。もう9月だと言うのに、まだ、落第点なのはローズヒップだけ。
「私の周りには、そう言う生徒はいないかな。自分で淹れたものがマズいと思うことはあるよ」
「ルクリリは、おしゃべりに夢中で時間を計っていないことがありますね」
 クスクス笑っているペコの笑い声は偽物だ。あまりにもルクリリのことを下げようとしている美咲ちゃんの、その手にあえて乗ったのだろう。そうしておいた方が、美咲ちゃんの機嫌は良くなるのかも知れない、と。

「へぇ。っていうか、ルクリリっていうのはティーネームなんでしょ?」
「そうだよ」
 席に着いたときに、全員を紹介した。偶然、ここにいるのはみんなティーネームを授かっている。もう一つ偶然で言えば、成績上位5人だ。
「聖グロの戦車道って、全員がティーネームで呼び合っているわけじゃないでしょ?」
「いや、そんなに茶葉の種類もないよ。2,3年だっているし、同じ名前は使えないし」
「勝手に名乗るとか?」
「そんなまさか。ダージリン様とアッサム様に選ばれた人だけ、かな」

 ダージリン様とアッサム様。この名前を口にしたとたん、美咲ちゃんの両隣にいる2人の子が笑い出した。
「ダメよ、笑っちゃ。そりゃまぁ、変なニックネームだけど」
「ごめんなさい。流石に知っているお茶の名前に“様”を付けるなんて、無理!」
 その“無理”は、真面目な顔で聞くに堪えられない、と言う意味の無理なんだろう。戦車道経験者にとっては、聖グロのティーネームなんて普通のことで、ルクリリは小学生の頃から当たり前のように受け入れていた。美咲ちゃんも、聖グロのティーネームに憧れていたはず。でも、関係のない人には笑いのネタになる物なのだ。それは、致し方のないこと。

「な、何がおかしいんですの?!」
「ローズヒップ、声を荒げるな」
 小さな拳を作って抗議するローズヒップのその腕を押さえつけて、ルクリリは笑って見せた。これは、そんなに馬鹿にしたことじゃないかもしれない。自分たちがただ、馴れきっているだけなのだ。

 世間は、戦車道と無縁の世界の人の間では、確かにおかしなことだって。そうやって受け入れるほうがいい。

「ねぇ、そのローズヒップっていうのもティーネームなのよね?」
「そうですわ。アッサム様が付けてくださった、クルセイダー部隊の名誉あるティーネームですわ」
 自分に話題を振られて、慌てて胸を張って誇り高きティーネームを披露する姿。ローズヒップは夏の大会以降、クルセイダー部隊の部隊長をしている。
「あなた、北海道の大学選抜の試合に出ていたわね」
「はい!あら、よくご存じで!!」
「壁に突撃していたクルセイダーの人」
「そうですわ!チャーフィーを撃破しましたわ!」
「試合終了の時に大股開いて座っていたのがモニターに映って、横浜中のみんなが大笑いしていたわよ」

 それは、試合が終わった後に学生艦あてに、OG会のお姉さまがじゃんじゃん電話を鳴らしたから知っている。ダージリン様もアッサム様も、映した方が悪いのだ、なんて言い訳をして電話で言い返しておられた。当然ローズヒップもルクリリも正座させられたのだけど。なんせ、ルクリリが呟いた下品な言葉も、ちゃっかり音声で拾われていたらしいから。無線も放送されるなんて、聞かされていなかったのだ。放送する方が悪い。

「………でも、大学生相手に頑張ったわけだし。結構、みんなに喜んでもらえたかな。聖グロは3両で大学選抜を2両も撃破できたし、大洗女子も廃校撤回になったから」
 拳を作ったままの、そのローズヒップの腕を押さえつけ、何も言うなと足を蹴った。何だかんだ、あの戦いの影響は大きくて、カールと分厚い装甲のT28を撃破した高校の戦車道チームの学校は、きっと来年の受験倍率が跳ね上がるだろうと言われている。裏ですべて手を回したのはダージリン様だし、情報集めに走り回ったのはアッサム様だ。お2人が大洗女子学園を救ったといっても、決して過言ではない。
「彩華ちゃん、じゃなかった“ルクリリ様”も試合に出たのでしょう?」
「出たよ」
「聖グロは3両しか出なかったのに、どうして1年生を連れて行ったのかしら?」
 紅茶ではなく、アイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、美咲ちゃんは鼻で笑っている。たぶん、言いたいことは次の質問に取っているのだろう。
「それは、ルクリリとローズヒップが、とても優秀な選手だからですわ」
「えぇ、そうね。それに、ダージリン様とアッサム様が凄く可愛がっていますし」
 どうして、と言う質問にどう答えようかと悩む仕草を見せるよりも早く、柔らかい声が両サイドからふわふわと舞った。両サイドの端っこに座っているバニラもクランベリーも、きっといつも通りに天使のような微笑みをしているに違いない。無垢で嫌味の一つも言えない、本当に聖グロに通うべくして通っている、みたいな子。聖グロの制服がとてもよく似合っている2人。

 美咲ちゃんが目指して、叶わなかった夢のような、そういう感じなんだろうな。

「え?彩華ちゃんみたいな野蛮な子が、3年生から可愛がられているの?」
「いやぁ………ははは。ほら、免疫がないんじゃないかな、こう、私みたいな野蛮なタイプ」
「試合に出ても、1両も撃破できなかったのに?野蛮が取り柄なんて、聖グロにとってマイナスのイメージしかない気がするわ。実際、下品な言葉が全国に放送されていたもの」

 大学選抜との試合で、マチルダⅡが撃破出来る車両なんてあるわけない。ダージリン様はわかったうえでルクリリを選んでくださったのだ。チャーチルの盾となり、大洗女子学園の隊長車の盾となり、守り抜き、役に立てと。

「でも、撃破するだけが戦いじゃないからね」
 どちらかと言うと、美咲ちゃんがそんなところまでちゃんと試合を観ていたことの方が意外だった。戦車道のない学生艦で生活をしていると言うことは、もう、戦車には乗っていないのだ。それでも、試合を観るほどに、そしてルクリリが出場して、さらに1両も撃破出来なかったことを覚えているほどに、夏休みの1日を費やして、試合を観ていたなんて。


「聖グロは、ここ最近弱くなったわね。今年の夏も、決勝には出られなかった」
「準決勝で黒森峰と当たったからね。あと一歩っていう所まで行ったんだけど」
 アッサム様の砲撃は、ティーガーⅠに当たった。だけど、跳ね返されたのだ。勝負は時の運。もっと近づいていれば。もっと、ルクリリたちマチルダⅡ部隊が残っていられたら。他校のように見るも無残な負け方ではなかった。勝てるかもしれない。毎年、黒森峰とはそんな戦いを続けてきた。
 泣きじゃくる隊員たちの嗚咽する声と、清々しい笑顔のダージリン様と、すべて割り切って、力いっぱい抱きしめてくださったアッサム様。ずっと忘れずに、鮮明に覚えている。当たり前だ、つい、1か月前のことなのだ。
 聖グロは2年連続で準決勝敗退だが、2年連続で黒森峰に負けたのだ。逆に、ここ数年は公式試合で黒森峰以外に負けてなどいない。四強の中でもっとも貧弱な戦車ばかりを揃えている聖グロであっても、戦術と練度で、ずっとその地位を維持してきた。重戦車を揃えても、1回戦で敗退している学校だってあるのだ。


「“ルクリリ様”が車長をやっているせいかしら?」
「ははは、うん、それはそうかもね」
「夏の試合にも出ていたの?」
「うん、全試合に出ていた。私は入学してから、他校との試合には全部出てるよ」
 1年生で全試合出場している生徒は、数人だけしかいない。2,3年生をサポートに回してでも、ダージリン様はずっと練習試合もすべて、ルクリリを育てるために、出場させてくださっている。

「あぁ……だから」

 だから?
 ルクリリがいてもいなくても、試合結果は同じだって、イチイチ言わなかった。彼女の聖グロへの憧れは、確かにルクリリ以上に強かった。聖グロに入れずに戦車道を辞めるほど、きっと辛いことだったのだろう。入学の可能性はC判定だって嘘を吐いて、美咲ちゃんに気を使っていたルクリリだけが受かってしまったのだ。合格発表の日以降、彼女の方から距離を取られていった。ルクリリもまた、どうすればいいのかわからないまま、中学を卒業して、それぞれの生活が始まった。連絡先は消していなかったはずだが、毎日の様にやり取りしていた頃が嘘のように、2人は赤の他人のようになった。
 ルクリリが悪いことをしたのだろう。彼女の夢を壊したつもりはないけれど、ルクリリがいなければ、もしかしたら、彼女は聖グロに入れたのかも知れない。そう思われているに違いない。

 だから、これくらい、言われても腹を立ててはいけない。
 聖グロの戦車道は、多くの人の夢であり、希望でもある。
 ティーネームを授かるには覚悟がいる。好かれるのと同じくらい、こうやって妬みをぶつけられることもある。特に、お嬢様らしくないルクリリならなおのこと。

 だけど、何を言われても受け入れられる。
 ルクリリの両サイドには仲間が、今のルクリリにとっての大切な仲間が座っているから。


 ローズヒップがルクリリの指を痛いくらい握りしめてきた。反論するとか、怒るとか、そう言うことをしろって言いたいのだろう。ムッとした表情で口を閉じているのは、ローズヒップが言い返すべきじゃないと、彼女なりにもわかっているから。でも、言わせておけばいい。少しでも、途切れた夢に苦しまされることが減るのなら。ルクリリの悪口なんて、言いたいように言わせておけばいいのだ。


「うーん。秋の大会では、もうちょっと良い成績を取れると思うよ」
 次の試合は、ルクリリがマチルダⅡ部隊長の指揮を執る。訓練ではチャーチルに乗ることもある。次期隊長になれと、夏の戦いの前から言われているのだ。厳しく、それでも本当に可愛がってもらっている。負けることも含めて、すべてが勉強なのだ。
「彩華ちゃんが試合に出るようでは、四強から零れ落ちるんじゃないの?大洗女子が優勝で、黒森峰にプラウダにサンダース。聖グロは準優勝しか経験がないし、サンダースみたいな物量もないし」
「うーん、四強も公式発表と言うわけでもないし、そういうのは別に気にしていないよ」
「重戦車を1両も持っていないのに?ダージリン様はOG会に嫌われているんじゃないの?」
 OG会の許可なく、戦車の購入ができないことを知っているあたり、流石だって思う。でも、重戦車がないから負けたなんて、言い訳をしたくないのだ。そんなのは逃げているだけ。
「今持っている戦車だけでも、戦う術はちゃんとあるよ」
「マチルダⅡばかりで何ができるのよ?鈍足のチャーチルの火力も大したことないし、当たっても跳ね返されてばかり」
「でも、ダージリン様もアッサム様も、本当に黒森峰との戦いでは素晴らしかったよ。私たちは、順位なんてどうだっていい。あのお2人と戦えたことが誇り。私が試合に出ていても出ていなくても、きっと変わらなかった」
 ダージリン様の判断力、統率力、アッサム様の情報収集能力は、素晴らしい。他校の隊長たちもそれを認めている。傍にいて、その凄さはよくわかる。
「準優勝すらできなかったのに?ダージリン様も大したことないのよ。結局は最も名誉あるティーネームを与えられたわりには、歴代で最も貧弱な結果しか残せなかったんだから。それもすべて彩……きゃっ!」

 彩華ちゃんのせいで、と続けるつもりだろうと奥歯をきつく噛んで耐えていた。

 でも、その言葉がルクリリに降って来なかった。
 代わりに、小さな悲鳴が聞こえてきた。

 静かに立ったペコ。
 手に持っていたグラスから弧を描いた水が、真っ直ぐに美咲ちゃんの顔に投げつけられたのだ。

「ダージリン様を侮辱することは、私が許しません」


 違う。


 美咲ちゃんが本当に侮辱したいのは、ルクリリだけだ。彼女はダージリン様のことが好きで、憧れていて、だから傍にいて可愛がられているルクリリが羨ましくて、妬ましいだけだ。
 羨ましいって、声に出せないだけなんだ。本当はルクリリの場所に自分がいたかったのにと、言えないだけだ。


「ペコ…………馬鹿。なんてことを」


 氷の混じった水を顔に掛けられた美咲ちゃんは、ペコを睨み付けている。ローズヒップの腕を抑えていたけれど、選択を誤ったようだ。まさか、じっとしていたペコがこんなことをするなんて、欠片も思っていなかった。

「ルクリリを侮辱することだって許しませんわ!!」
「やめろ、ローズヒップ!」
「どうしてですの?!どうしてじっと聞いているだけですの?!どうしてヘラヘラ笑っているんですの?!ダージリン様のことを馬鹿にするなんて、ルクリリの大事な人を馬鹿にするなんて!そんなのルクリリの友達でも何でもないですわ!」

 椅子を倒し立ち上がって抗議するローズヒップを、止められなかった。
 ペコもローズヒップも、聖グロを、ダージリン様を、大事な人たちの名誉をただ、守りたいだけなのだ。
 黙って聞き流せばいいだけなのに。彼女が許せないのは、“友達だった”ルクリリだけなのに。

「落ち着け、ローズヒップ。こんなところで揉め事を起こしたら、アッサム様に怒られる!」
「アッサム様だって、ダージリン様を馬鹿にした人と喧嘩したら、褒めてくださいますわ!」

 ここに来ることを、断ればよかった。
 後悔って言う無駄なことを想っても、もうどうすることもできない。

「聖グロって野蛮人ばかりなのね。だから彩華ちゃんでも合格できるのね」

 
 空のグラスを持ったまま、じっと美咲ちゃんを睨んでいるペコの横顔。こんなに怒りをあらわにしている顔なんて、みたことがない。いつも、喧嘩し合うルクリリ達を止める立場のペコが、こんなにも腹を立てている。

 何を、どうすればいいのだろう。

「1年生の分際でノーブルシスターズなんて呼ばれて、調子に乗って偉そうに」
 滴る水をハンカチで拭きながら、鼻で笑うルクリリのかつて友達だった人。一緒に聖グロを目指し、一緒のチームで戦い、仲がいいと思っていたけれど、それはきっとすべて、勘違いだったのだ。否、もうすべてが終わったことなのだ。

 ルクリリのことを妬ましいと思う。それだけじゃ飽き足らず、聖グロに入った生徒は、校章の入った青いセーターを着ている少女たちは、戦車道の生徒は、美咲ちゃんにとって妬みの対象なのだろうか。

「………私の友達を馬鹿にしないでよ」
 ルクリリが今友達と呼べる人は、大切な仲間は、ペコたちだ。
「はぁ?そんなことより、謝りなさいよ」
「謝れば、前言を撤回してくれるの?ダージリン様やペコを馬鹿にしたことを、謝ってくれるの?」

 一発殴りたい気持ちを殺して、我慢を自分に言い聞かせた。ここで声を荒げたら、退学処分になるに決まってる。
 ペコだって、最初に手を出したのだから、処分されるに違いない。

「頭を下げてから物を言えば?」

 見下したもののいい方でも、別に構わない。ルクリリは立って、90度頭を下げて見せた。左側の視界に入るおさげ。
 頭を下げても、きっと謝罪されることなんてないと分かっていても、それでも、下げるしか術がなかった。

 守らなければいけないのだ。仲間を。仲間の大事にしている人を。仲間の未来を。

「私、ずっと前からあなたのことが嫌いだったのよね、“ルクリリ様”」

 あんまり好きではないコーヒーの匂いが鼻についたのは、下げた頭にまるでシャワーを浴びたみたいに、冷たいコーヒーを掛けられたからだった。

「そう。別に好かれていたいなんて思ってなかったから、いいよ」
「そう言うことを嘘でも言う所が嫌い」
「私はダージリン様にもアッサム様にも凄く可愛がってもらっているし、ペコたちという大事な仲間がいる。聖グロの皆が私のことを好きでいてくれるから、私にはそれで十分だよ。美咲ちゃんとはお互いにもう関わり合うこともないし、嫌っていてくれてもいい。それに嫌いだからって何?嫌いなら、一緒にランチなんて取らなければよかったのに」

 コーヒーはルクリリの髪とセーターを濡らして、ポタポタと真っ白いテーブルクロスにシミを作っていく。

「ルクリリ!」

 ローズヒップが慌てて聖グロの校章の入ったハンカチで、ルクリリの髪や顔を拭いてくれた。お店の人に謝罪をして、クリーニング代を支払わないといけない。聖グロの生徒はここのお店を出禁になるだろう。横浜ではあっという間に噂も広がるに違いない。他学部の生徒になんて言われるか。整備科の仲良し仲間や、家政科の友達なんかが、怒鳴り込んでくるかもしれない。


「何てことしますの?!頭を下げている人に対してコーヒーをかけるなんて!」
「最初に水をぶっかけたのは、ノーブルシスターズの人でしょう?」
「だから、ルクリリが謝りましたわ!」
「かけた本人は謝る気配もないわよ」


 バニラがオロオロしながらローズヒップの袖を引っ張っている。ペコは立って、ずっと美咲ちゃんを睨み付けたままだ。嘘でも謝ったりしないだろう。それくらい、ダージリン様のことや、聖グロのことが大好きで、大切だから。

 同じように聖グロが大好きで、ダージリン様に憧れていた美咲ちゃんと、仲良くなれたかもしれないのに。


「水を掛けて悪かった。彼女の過ちは私の責任だから、私が謝ったのだから、許してあげて」
「はぁ?何なのそれ?謝るのなら、ノーブルシスターズさんでしょ?1年生の分際で、ダージリン様の傍をちょろちょろして。こんな野蛮な子がダージリン様の傍にいるなんて。なんでこんな人たちが聖グロにいるのかしらね!」

 まだまだ、我慢が足りないなって思うよりも早く、ルクリリの右手は動いていた。
 手元にあった、冷め始めた紅茶。
 持ち上げて、勢いよく腹立たしいその顔にかけてやった。
 良くて停学処分。最悪は退学だ。

 別に、何だかもう、どうでもよくなった。身体が動いてしまったのだ。仕方がない。
 同情はする。ルクリリのことを嫌いならそれでもいい。好きなだけ馬鹿にすればいい。


 でも、ペコもダージリン様も、ローズヒップも馬鹿にされる謂れは何もない。


「………バニラ、クランベリー。私は今から他校の生徒を殴るから、2人はダージリン様を呼び出しておいて」

 ローズヒップよりも勢いよく椅子を倒してテーブルを回りこむと、美咲ちゃんの胸ぐらを掴んで、無理やりに立たせた。

「何すんのよ?!」
「私が男子生徒と取っ組み合いのけんかをしているのを、ずっと見ていただろう?」
「聖グロの生徒が外で喧嘩?!」
「売られたものを買っただけだ」

 謝るとか謝らないとか、そんなことよりも、一発殴りたかった。

 テーブルも椅子も盛大に音を立てるし、驚いた子たちが慌てて立ち上がると、テーブルの上のグラスが音を立てて床に落ち、アイスコーヒーとガラスが散らばった。




肩を組んで笑お ①

「やっぱり、難しかったね」
「うん、脳みそに詰め込んだもの全部使い切った感じ」

 憧れの聖グロリアーナ女学院。
 
 学校説明会のために来て以来の聖グロ学生艦。あの時は、いろんな中学の戦車道の人たちが、紅茶の園を背景に写真を撮ったり、ティーネームを持つお姉さまの姿を探しては、イソイソしていた。解放されてある戦車倉庫を眺めて、絶対にこの学校に入らないといけないんだと、そう思ったものだ。

「模擬試験はいつもC判定だったものね」
「もう、記念試験みたいなもんだよ」
「B判定の私でも、倍率のことを考えると厳しいって言われてるのに、よく想い出づくりのために来たわね」
「まぁ、一応はプラウダの2次試験も残ってるし。いざとなればあっちに行く」
「あそこだって難しいのに」

 受験のために必死に勉強をした冬。戦車には全く乗らなかった。学校から帰ったら、6時間くらいはみっちり勉強をして今日を迎えていた。どんなことがあっても、聖グロに入りたいと思っていた。

 隊長であるダージリン様こと高森穂菜美様は、中学東日本チームをまとめたことがある。1年生の時、彩華(あやか)もメンバーに選ばれたのに、名前も顔も覚えてもらえなかった。その他大勢の1人、さらには補欠。近づくことさえできず。あまりにも後光眩しくて、ファンが多すぎて。いろんな学校から無試験での引き抜きの話があったらしいけれど、すべてを蹴って、正規ルートで聖グロに入学されたそうだ。だから、追いかけなければならなかったのだ。追いかけて、傍で多くを学びたいと。自分に足りないものを、ダージリン様はたくさん持っておられるはずだから。


「あっ!見て、あそこにアッサム様とダージリン様がおられるわ!」
「え?どこ?」

 ずっと同じチームにいた友達は、小学校の頃から聖グロに憧れて、ティーネームを授かり、チャーチルに乗るのが夢だといつも言っていた。聖グロのお姉さまたちのファンで、よくわからない何代も前のお姉さまたちのことも詳しくて、夏の大会や練習試合などがあれば、遠征をしてでも見に行っていた。

「あーぁ、行ってしまわれたわ。残念」
「………姿、見えなかった」
「アッサム様は黒のリボンよりも、前の赤いリボンの方が絶対にいいわ。お近づきになれたら、プレゼントして差し上げたい」
「………へぇ。はぁ、まぁ、いいんじゃない?」
 そう言えば、確かに赤いリボンだったような。学校も違ったし、何度か見たことある程度の薄い記憶だけど。フランス人形みたいな人と言うことは覚えている。

 憧れのダージリン様に近づきたい。聖グロのタンクジャケットを着てみたい。彼女はいつも、キラキラした瞳で熱く語っていた。

 同じ憧れでも何かが違う気はするけれど、それでもお互いに聖グロに入りたいという想いは同じ。共に励まし合い、共に目指していた場所だった。


「あら?……彩華ちゃん?」


 大洗女子学園を助けるために、急遽北海道に向かった学生艦。いつのまにか夏休みも終わっていて、休みらしい休みを過ごした記憶もなかった。なんて思いながらも、大学選抜と戦うなんていう面白い経験をさせてもらって、いい自慢になったものだ。
北海道のお土産を何も買えないことが残念だったけれど、そこは流石の聖グロ情報処理部と栄養学部。試合と無関係の学部の生徒は、空いた時間にじゃんじゃんと名産品を買い漁り、船に乗せたらしい。

 ということで、今のところ、聖グロの学生食堂は連日、海の幸で満ちている。満ち溢れすぎるほど。

徹夜付けで9月初めの学年テストを乗り切った後の、土曜日。
聖グロの学生艦は横浜に戻っていた。



「あぁ、久しぶり」


 親と電話をするときくらいしか自分の名前を言わないし、言われない。すっかりティーネームが身体に染みわたっていて、他校への自己紹介もずっと“ルクリリ”で通している。それでも、長く染みついた自分の本名なのだから、呼ばれたら立ち止まるし、その人の顔を見てしまうものだ。


「久しぶり。聖グロの制服ってことは、本当に生徒になっていたのね」
「うん、まぁね」


 中学時代まで同じ学校で、戦車道チームでも一緒だった子。満面の笑みで手を振って近づいてくる。いつのまにか疎遠になり、いつのまにか顔も声も忘れてしまった子。ルクリリは片手をあげて手を振って見せた。流石に、じゃぁね、と手を振って別れる訳にもいかない。半年ぶりに会うのだから。


「聖グロの制服、やっぱり彩華ちゃんには似合わないね」
「え~?そうかな?」
「全然、似合わない。ちゃんと上品な言葉を使えているの?」
「ははは、……さぁ、どうだろうね」


 海鮮ものに飽きた胃袋を満たすためにお肉を食べに行こうって、戦車道の仲間たちと鼻息荒くして歩いていたものだから、ルクリリのすぐ後ろからクスクス笑う声が漏れたのは仕方がない。
「ルクリリに上品なんて、おへそで紅茶がなんとか…ですわ!」
「ローズヒップ、似たり寄ったりのあなたが言わないで」
「仲間を馬鹿にしないの」
 指をさしてゲラゲラ笑うのは、少なくとも上品のレベルではルクリリよりも低いに違いないはずのローズヒップだ。まぁ、言われるだろうと思っていたけれど、空気って言うものを読めないのだ。バニラとクランベリーはたしなめてくれるけれど、どうせたしなめるなら、似たり寄ったりなんて、言わなくてもいいのに。


「彩華ちゃん、良ければどこかカフェにでも行かない?」
「あ、いや。今からはちょっと」

 彼女の名前は美咲ちゃん。小学校、中学校、ずっと一緒だった。高校受験が終わってからは、連絡を取っていなかったのだ。積もる話があるような、ないような。

「ルクリリのお友達ですか?」
 ペコが袖を少し引っ張って、とてもよそ行きの笑顔で聞いてきた。外ではダージリン様と行動することも多いから、なんて言うか、ペコの笑顔のオンオフはわかりやすいのだ。仲間といる時と違うのは、それなりに、顔を知られていることがあるからだろう。
「うん、中学時代の」
「折角ですから、私たちを気にせず行ったらどうですか?」

 カフェのランチなんかよりも、お肉が食べたいのに。何と迷惑な申し出なのだろうか。ペコは普通のことを言っているのだろうけれど、ルクリリにはお肉の方が大事なのだ。今更、久しぶりに会う『過去に仲の良かった友達』と、語り合いたいことなんてないのに。

「あなたはもしかして、オレンジペコ様?」
「……あ、はい。そうです」
「ノーブルシスターズの1人でしょう?」
「はい」
「有名よね、オレンジペコ様って言う名前」
「いえいえ、そんな。私なんてまだまだ」

 顔の前で両手を振って謙遜を見せているペコは、わかりやすく照れている。横浜港を母校としている学生艦の中でも、聖グロはやっぱり特別。戦車道の全国大会出場校の中でも四強と言われて、大会が始まれば、横浜の住民は巨大スクリーンに釘づけだ。隊長を始め、ティーネームを持つ生徒は顔も名前も有名人。ルクリリも小さい頃から青い制服、赤いタンクスーツに憧れ、小学校も中学校も、関東で一番と言われている戦車道チームに所属して、受験のための猛勉強をしていた。もちろん、ペコだって努力をしてきたから、こんな風に有名になったのだ。

「よかったら、みんなでカフェに行きませんか?」
 美咲ちゃんの後ろには、戦車道をしていなかった同じ中学の人たち。今更ながらに気づいたのだけれど、横浜港を母校としている学校の制服。でも、そこに戦車道はない。

 ……
 ………

 今、どうしているのかと聞いても、無駄なことなのだと思う。だったらなおさら、話すことなんてないような気がして、ルクリリは小さくつばを飲み込んだ。予定通り、美味しいものを食べに行った方がいいって。

「私たちは構いませんよ」
「他校との交流はとてもいいことですし」

 数秒の沈黙は、ペコとバニラを少し誤解させてしまった。気を使っているのは仲間にではない。“仲間だった友達”に対してだ。

 断りたい事情をペコ達に丁寧にする余裕もなく、満面の笑みの他校の生徒たちを拒絶することもできず、流れに身を任せてぞろぞろとカフェに向かった。こういう時こそ、ローズヒップがお肉お肉と騒ぎ立ててくれたらいいものの、ニコニコしながら付いてくるんだから。役に立たない奴だ。


「……ニルギリたちどうしたんです?」
「どうしたって、ランチを食べているだけよ。ペコたちこそ……合コンでもするの?」

 店員があちらへと手のひらを向けているのは、テラス席だった。何度か来たことのあるカフェ。ランチは美味しいけれど、まだまだ暑い時期にテラスはちょっとキツイ。店内を抜けるべくゾロゾロと歩いていると、見知った制服の子たちが、クーラーで涼みながら手を振っている。ペコは手を振り返した。

「ううん。ルクリリの中学時代のお友達だそうで。ばったり会ったから、せっかくだしカフェに入ろうということになりました」
「………あれ?美咲ちゃん?」
「え?あ、そっか。ニルギリはルクリリと同じ中学出身でしたね」
 ニルギリと一緒にランチを取っているルフナも、同じ学校の出身だ。席数は決まっているから、ニルギリたちと替わってあげた方がいいのだろうか。とはいっても、もうランチを食べ始めている2人と替わるのもおかしい。
「えぇ。私たちのことは気にしないで」
「挨拶しなくてもいいんですか?」
「うん、いいわ。…………色々あるから」
「そうですか?」
 ニルギリはちょっとだけ、困った顔で笑っている。ルフナも眉をひそめていた。あの美咲さんと言う人と、何かあったのだろうか。


「お肉、お肉、お肉……」
 念仏を唱えるようにメニューを眺めているローズヒップは、一番高いランチセットを指さして、これだ!と目をキラキラさせた。みんなでお肉を食べようって決めていたから、最初からそれなりにちょっと高めを想定していた。お肉専門店ではないけれど、サーロインのステーキセットがメニューに書かれてあって、当然、聖グロの生徒は皆、それを注文する。

「意外。聖グロの生徒って、サンドイッチと紅茶を頼むんじゃないの?」
「いや、ちょっと学校の食堂が毎日海鮮物続きで、お肉を食べようっていう目的で横浜に出てきていたからね」
 ルクリリは美咲さんにそう伝えて、ステーキを待ちわびる仲間たちの愁いを説明してくれた。聖グロはそこまで毎日、サンドイッチとスコーンにまみれてはいないのだ。紅茶は毎日飲むけれど。
「で、一番高いサーロインを頼むんだ。流石、お嬢様学校ね」
「仕方ないよ、だってお肉はこれしかないんだし」

 細くてチクリと刺す棘みたいなものを感じたのは気のせいかな、と思う。ローズヒップはルンルンと膝にナプキンを掛けて、ステーキへの想いを厨房に飛ばしている感じ。子供みたいに。他校の生徒と一緒なんて、きっと大したことと思っていないのだろう。まぁ、正式な交流会ということでもないから、別に問題もない。幸いなことに同じ歳なのだから、そのあたりの気遣いだってしなくてもいい。何というか、普通でいいのだ。ルクリリの友達として、恥をかかなければ。


「お肉ですわ~!」
 両手をあげて喜ぶローズヒップの前に並んだ、サーロインステーキ。聖グロの生徒の前に荒々しい匂いが充満して、向こう側は女子高生らしい、パスタやオムライスなどのセットが並ぶ。敬虔なクリスチャンのクランベリーが手を合わせて、心の中でお祈りを始めたので、ペコも、もちろんローズヒップ達も皆、同じように手を合わせて、神様に感謝の言葉を伝えた。御座なりにする生徒もいるし、キチンとする生徒もいるし、外ではしない生徒もいるし。聖グロの生徒の多くはクリスチャンだけど、信仰の自由は認められている。だけど、必須科目に宗教の授業はある。当たり前のように聖歌は空で歌える。

「うわ、マジでそう言うことをするんだ」
「何だかこっちが罪深い人間みたいね」

 一言、お祈りをさせて欲しいと告げればよかったなと思ったのは、目を開けて嫌そうな表情の美咲さんの顔が見えた後だった。

「ごめん、もう身体に沁みついちゃっていて」
 普段、お祈りなんてしないルクリリがさらっと嘘を吐く。それは、大切な仲間を想う嘘だ。
「へぇ。聖グロの生徒になった自慢?」
「ははは。まぁ、そんな感じ」
 一番端っこに座っているクランベリーが眉をひそめてペコを見つめてくるけれど、何だかこう、何と言うか………ちくりと刺されたような棘はたぶん、ルクリリにだけ向けられている。気にする必要はない。

「そっか、すっかりお嬢様ぶってるんだね」
「今のところ、頑張っているって感じかな。上級生にいつも怒られてばかりだよ」

 徹底的にフォークとナイフの使い方を、アッサム様にしごかれていたローズヒップ。今日みたいな日のための訓練だったに違いない。それでも、本当に美味しそうにパクパクと食べる息遣いが、ルクリリの隣から聞こえてくる。前に並んでいる女の子たちは、各々がパスタやオムライスを美味しそうに食べていた。パスタなんて、聖グロの学食には出ない。欲しいという要望は意外と少なかったりする。パン食に飽きたからと言って、同じような原材料のものを増やしたくはないからだ。

 食事中に、ルクリリのことを“彩華ちゃん”と呼ぶ美咲さんと、そのお友達は、思い出話に花を咲かせていて、中学時代の先生のこととか、別の学校に行った子の話をしていた。ルクリリは相槌を打つばかりだったけれど、周りは意味がわからないし付いていけない。とはいえ、彼女はそう言う話をしたくてルクリリに声を掛けたのだろうから、話題を変える必要も見当たらなかった。幸い、ローズヒップはお肉に夢中で、バニラもクランベリーも物わかりの良い子。何より無意味に話題を振るタイプじゃない。美咲さんと言う人が、やたらルクリリのやんちゃな中学時代をペコたちに暴露したがっているような気がしたけれど、何と言うか、まぁ、男子生徒と殴り合いのけんかをしたとか、食事の最中に牛乳を吹いたとか、その程度なんてルクリリらしいな、としか思えなかった。だから、バニラたちもニコニコしてその、残念な武勇伝を聞いているだけだ。

 ダージリン様だったら、むしろ手を叩いてお喜びになるだろう。あのお方もアッサム様も、ルクリリのそう言うやんちゃな部分も含めて、溺愛をされているから。

だって、恋人でしょ? END

「え?ここで食べますの?」
「当然よ。2人きりのタイミングを待っていたの。夕食の後だとお腹がいっぱいだもの。今がいいわ」
 放課後、書類仕事を片付けた後、隊長室でお茶をしましょうと用意をしていると、ダージリンがイソイソとアッサムのケーキを冷蔵庫から出してきた。子供が大事なものを隠している宝箱を取り出しているみたいだ。とても嬉しそうだし、無邪気だから、それはそれで、アッサムもゆっくり見ていたかった。アッサムは一口も食べていないけれど。ダージリンが美味しいと言うのならば、きっと本当に美味しいのだろう。

「紅茶はどうされます?」
「ミルクティーがいいわ」
「では、アッサムで」
「そうね」

 箱からお皿に乗せて、フォークを添えて。キラキラした目。アッサムのものを奪ったケーキ。紅茶を蒸らす時間も今か今かと言わんばかり。
「どうぞ」
「ありがとう、アッサム」
 早速フォークを手にして、アッサムが食べるはずだったケーキを一口。
「やっぱり美味しいわ、アッサム」
「そうですか」
「とても美味しいわ」
「それはよかったです」



 …
 ……
 ………


「あの、ダージリン」
「何?」
「……それで?」
「それで?」

 まぁ、わかってはいたけれど。アッサムの手元には紅茶しかない。半分くださいとまでは思わないが、今日はヴァレンタインなのだ。ダージリンはまさか、本当にアッサムには何一つ用意をされていないのだろうか。

 いえ、もう、この様子だと絶対に用意されていない感じだ。
 クリスマスの時は、交換をしましょうと最初から約束をしていたが、今回は何も言っていなかった。でも、アッサムは昨日、ダージリンにケーキを作って渡すと言うことは伝えていたはず。それを聞いてダージリンは……。

 まぁ、ダージリンがそんな気を利かせる人ではないと、わかっていたけれど。


「どうしたの、アッサム」
「………何でもありませんわ」
「不服な顔ね。美味しいわよ?」
「えぇ、とても美味しそうに食べていただいているので」
「美味しいもの」
「よかったですわね」

 アッサムが何かに不服と言うことは、ダージリンにも伝わったようだけれど、どうにもその理由はわからないらしい。美味しそうに食べている顔は見ておきたいので、取りあえず紅茶を飲みながら、ダージリンが食べ終わるのをじっと待った。アッサムの手元にはお茶受けがないことなんて、当然、ダージリンは気づく素振りもないようだ。



「ダージリン」
「……なぁに、アッサム」
「美味しかったみたいで、よかったです」
「そうね。とても美味しかったわ。オレンジペコ様のレシピ?」
「レシピだけはそうですが、あのお方、バニラ様に付きっ切りでしたわ」
「そう。アッサムがとても時間をかけたことが、伝わってきたわ」
「えぇ」

 流石にダージリンは、アッサムが何かに対して怒っている、と言うことには気づいている感じ。瞳を左右にさせ始めたが、それを誤魔化すようにティーカップで顔を覆っている。 

 もう空っぽのくせに。


「ダージリン」
「……なぁに、アッサム」
「ダージリンからは、何ももらえませんの?」


 …
 ……
 ………




「…………あっ」


 長い沈黙の後、合点がいったらしい。カタカタとカップを鳴らしてソーサーに置く姿は、さっきの美味しそうに食べていたダージリンと同一人物ではない。


「そうですか。何もないんですね」
「だって、アッサムが作ってくれると言うものだから、嬉しくてそのことばかりで頭がいっぱいだったのよ」
「………そうですね。いえ、別に期待なんてしていませんわ」

 ソワソワ楽しみにしていて、もらうことだけに頭がいっぱいと言うのは、本当にダージリンらしいといえば、らしい。この人は、イソイソと買いにでかける人ではないのだ。誕生日の時も、欲しいものを先に教えてと言うし、食べたいものもリクエストをされるし。たぶん、色々と上手ではない。そこのところ、ちょっとお姉さまに似ている。お姉さまもそう言う部分が凄く疎いのだ。乙女心、みたいなのが欠けている。ついでに、乙女心をわかろうとしないところも。ダージリンもお姉さまも、同じ性別なのだけれど。


「では、そうね……お礼にどこかに食べに行きましょう。アッサムの好きなものを」
「結構ですわ。今日は3食とも食堂に来るようにとオレンジペコ様に言われています」

 プレゼントを持ってくる生徒がいるため、手渡し禁止でも、幹部席に座っているようにと言うのが、オレンジペコ様からの命令だ。朝も昼も、ダージリンへのプレゼントは箱に入っていた。きっと、夕食の時にも持ってくる生徒はいるだろう。

「では、明日にでも」
「明日はもうヴァレンタインじゃありません」
「じゃぁ、今から何か、あなたの欲しいものを買いに行きましょう」
「もう、そろそろ暗くなるし、欲しいものなんてありませんわ」

 多大な期待をしない方が、これからのためだ。ダージリンは媚を売るように隣に座りなおして、アッサムに抱き付いて機嫌を取ろうとしてくる。

「アッサム、機嫌を治してちょうだい」
「考えておきますわ」
「それはいつまでなの?あと5分?それとも10分はかかるの?」

 どちらかと言うと、身体にしがみ付いてきていることの方が、鬱陶しくて苛立つ気もしないではない。こういう人なのだ。惚れたのはアッサム。でも、ダージリンだってアッサムのことを好き好きって言うのなら、チョコ1粒でも用意すればいいのに。アッサムは作ると言っていたのだから、どうしてもらうだけしか気を回せないのだろうか。


 どうしてもこうしても、ダージリンとはそう言う人なのだ。
 
 

「離れてください、ダージリン」
「機嫌を治してちょうだい」
「わかりましたので、離れてください」
「嫌よ、機嫌が治っていないもの」
「………はいはい、もういいですから」


 まとめあげている三つ編みを撫でて差し上げると、やっと腕の力が抜けた。

「許してくれるの、アッサム?」
「………まぁ、せっかくケーキを作って渡したのに、嫌な気分で一日を終えたくありませんもの」
「そうね。そうよね、流石アッサムだわ。そう言う所が好きよ」

 隊長室なのに、キスしてくるものだから。

「調子に乗らないでください!」


 “ごめんなさい”を言わないダージリンの頬を、思い切り叩いておいた。


「…………何があったの?」

 食堂に行くと、いつもと空気が違った。アッサムとバニラがぴったりと椅子をくっつけて座り、おいしそうに食事をしていて、意図的にアールグレイとダージリンが隔離されている。明らかに何かをしでかしたのは、アールグレイとダージリンだろう。ムスッとした表情のダージリンの左頬には、張り手の痕。気のせいか、アールグレイの左頬にも、似たような腫れがある。

「別に」
「何でもありませんわ」

 オレンジペコは和食を選んでいたので、アッサムに日本茶をリクエストして、いつもはアールグレイが座る場所、つまり二分されているセンターに座った。

「どうぞ、オレンジペコ様」
「ありがとう、アッサム」

 陶器のお茶椀を受け取り、頂きます、と手を合わせる。2組のカップルに挟まれているけれど、片や犯罪者のような顔。そして、制裁を加えた方はなんだかとても清々しく、妙な団結があるようだ。

「アッサム、明日はフレンチに連れて行ってあげる」
「本当ですか、バニラ様」
「えぇ。予約を入れておくわ。この学生艦の中で一番高いお店よ」
「嬉しいですわ、バニラ様」

 聞き耳を立てているダージリンとアールグレイは、互いに1秒だけ見つめ合ったけれど、2人に対抗して何かの約束事をするなんて、互いに避けたい相手だと思い当たったらしく、背中を見せ合うように、そっぽ向いた。そしてダージリンがオレンジペコを見つけたと言わんばかりに、満面の笑顔を振りまいてくる。

「オレンジペコ様」
「嫌よ」
「何もまだ、言っておりませんわ」
「明日は忙しいの」
「アッサムにだけ時間を割いてばかりです。私とも遊んでくださいませんこと?」
「あなた、コーヒーは嫌いでしょう?ケーキだって作れないし」
「善処しますわ」
「絶対に無理よ」


 ふくれっ面のダージリンは、同じように不服を顔に付けたままのアールグレイを睨み付けている。昨日、恋人のためにと一生懸命ケーキを作っていたあちら側は、肝心のヴァレンタインの夜に、一体どうしてしまったのだろう。と言うか、多分、ダージリンとアールグレイは怒られている理由もわかっていないに違いない。

 この理不尽を張り付けている顔が、余計に腹立たしいのだろう。


 きっと、くらだないことで喧嘩をしたんだろうなと思う。
 たぶん、バニラとアッサムが一方的に鈍感な相手に腹を立てて、頬を叩いたのだろう。


 何があったのかは知らないけれど、せっかく美味しいケーキを作っていたのだから、一日機嫌よく過ごせばいいものを。


「もう、ヴァレンタインなんてなくなればいいのに」

 オレンジペコが呟くと、同感と言わんばかりに大きく頷いたダージリンとアールグレイ。

 その余計な動作を、殺意ある目で睨んでいるアッサムとバニラ。


 鈍いにも程があるでしょう。


 食事の後、アッサムとバニラが部屋に突撃して来て、ずっとずっと愚痴を聞かされ続けた。もう、正直、ただの惚気にしか聞こえない。ゆっくり本を読もうと思ったのに、本当にうるさい2人だ。何だったら、リリーから送り付けてきたチョコに埋もれてポーズを取っている写真を見せて、これよりずっとマシだと説教してやりたいくらい。最低だの配慮がないだの、気持ちをわかろうとしない、だの。

 2人の隊長のもう1つ上の元隊長の方が、ずっと酷いのだ。………言えないけれど。

 散々、鬱憤を晴らした2人が手を繋いでオレンジペコの部屋を後にしたのは、日付が変わる少し前。

「…………バニラとアッサムがフレンチを食べている間、あの2人の相手は誰がするのよ」

 こっちは仲良く手を繋げる関係でも、あっちはだからと言ってタッグを組んだりしない2人だ。いい加減、卒業を控えたこの時期なのだから、ダージリンもアッサムも3年生に甘えないで自分たちで何とかすればいいのに。


 とはいえ、携帯電話にある着信履歴を眺めながら、仕方なくダージリンの頼みを聞き入れてあげることにした。これが最後なんだから、と。


 たぶん、これが最後なんだからって、あと何度かは使う気がする。



だって、恋人でしょ? ④

 朝、食堂ではいつもと違う景色が広がっていた。幹部席の後ろには長机が用意されていて、『手作りの食べ物は禁止。幹部へのプレゼントはこの中に入れること。差出人の名前がないものは破棄』と書かれたプラカードと、5つの箱が用意されていた。アールグレイ様、オレンジペコ様、バニラ様には1人1つの箱があって、2年生のトップ3人のお姉さまたちは1つ、そしてなぜか、1年生の箱、つまりダージリンやアッサムたちのものまである。

「おはようございます、お姉さま方」
「おはよう、アッサム」
「あれ、なんですの?」

「以前、とんでもない数のチョコレートをもらったお姉さまがいらして、ファン同士が小競り合いみたいになったの。それ以来、平等と秩序を守るために、あぁいうことをしているのよ」

 ヴァレンタインにプレゼントという行為そのものを、禁止にしてしまえばいいのに。なんて言えば、自分が作ったものを否定してしまうことになるから、アッサムはつばを飲み込んだ。早朝にオレンジペコ様のお部屋に取りに行った箱。「手作り禁止」に違反しているのだけれど、大丈夫だろうか。まぁ、渡す本人の許可をもらっているわけだし、幹部が幹部に渡すことまで、ルールに従うことなんてないだろう。


「バニラ様」
「おはよう、アッサム。よく眠れた?」
「はい。昨日、ありがとうございます」
「子供みたいに寝ちゃって。可愛い顔していたわよ」

 ダージリンもお姉さまもバニラ様もオレンジペコ様も、朝の定食のトレイを手になんてしていないから、アッサムのケーキを楽しみにしてくれていることはわかっている。あと、バニラ様の分も。バニラ様なんて、勝手に1人2つのケーキ皿を用意していて、とても周到でいらっしゃる。


「どうぞ、ダージリン」
「ありがとう、アッサム」

 ビターチョコが好きだと宣言したからか、オレンジペコの茶葉をチョイスしたダージリンは、お姉さま方にも紅茶を配ると、アッサムが渡したケーキの箱をとてもうれしそうに両手で受け取った。

「ダージリンは、このケーキはいらないでしょう?」
「別にいりませんわね」
「あらやだ、じゃぁ、本当に食べさせてあげないわ」
「私には、アッサムのケーキだけで十分ですわ」

 バニラ様が、よもや手作りでケーキを作っていたなんて思ってもみなかったのか、お姉さまは顔を引きつっておられる。

「……まさか、バニラが作ったの?」
「昨日、3人で仲良く作ったのよ。ね、ペコ?」
「大丈夫よ、アールグレイ。こっちのケーキ、半分以上は私が作ったから」

 ダージリンは3年生たちの話なんて一切聞こうともせず、木苺のたっぷり乗ったケーキをキラキラした瞳で眺めている。とても嬉しそうで何よりだ。

「お姉さま、どうぞ」
「ありがとう、アッサム」

 バニラ様がホールケーキを切って、お皿に乗せている間、アッサムはお姉さまにもケーキの箱をお渡した。オレンジペコ様にもお渡して、バニラ様の目の前にもそっと置いた。


「アールグレイ」
「どうしたの、バニラ?」
「どうして、先にアッサムのものから手に取るの?」
「だって、おいしそうだもの」

 空気を読むなんてできないお姉さまは、先に渡した方から手にしただけなのだろうけれど、こういう時くらい、恋人の作った方から食べるべきなのだ。


「アッサム、とても美味しいわ」
「そうですか。時間をかけた甲斐がありました」
「木苺がいっぱいね」
「はい」

 3年生を完全に無視して、ダージリンはアッサムに嬉しそうにアピールしている。

「アッサム、私のケーキには木苺が1つしかないわ」
「1つあればいいじゃないですか」
「ダージリンには5つ。アールグレイたちは2つだわ」
「昨日、つまみ食いされていたからですわね」

 バニラ様と睨み合っている間、ダージリンもお姉さまもパクパクとアッサムが作ったケーキを食べている。オレンジペコ様もバニラ様のケーキより先に、アッサムの作ったケーキを美味しそうに食べていらした。

「………アールグレイ、あっという間にアッサムのケーキを食べたわね」
「美味しかったわ」
「………あらやだ、お腹いっぱいだなんて言わせないわよ」
「こっちは、ゆっくり食べるわよ」

 まぁ、お姉さまは子供の頃から、大事なものほど後に取っておく性格でいらっしゃるから、アッサムのものを先に食べたことが、凄く悪いことでもないけれど。


「美味しいですわ、バニラ様」
「本当?初めてエプロンを汚さずに作ったわ」


 アッサムだけは、何だか可愛そうだから、バニラ様のチョコレートシフォンを先に食べることにした。ダージリンの幸せそうな顔を眺めながら、やれやれとため息を吐かれておられるオレンジペコ様の表情も視界に入ってくる。


「………お察ししますわ、オレンジペコ様」
「ありがとう、ダージリン」

 いろんな人たちの視線をたくさん浴びながら、手作りのケーキを食べている隊長たちの姿。一般の生徒たちは何を想うのだろう。きっと羨ましいって思われているのだと思う。バニラ様の手作りケーキを食べるなんて、と。整備科あたりから、何か文句を言われそうだ。


「ねぇ、アールグレイ。どっちのケーキが美味しかった?」
「どっちも美味しかったわ」
「そう言う答えはいらないわよ」
「順位を付けるものでもないわ」

 気を使っているから順位を付けられないお姉さまに、バニラ様は不服と言わんばかり。片やダージリンは、最初からアッサムのだけが美味しいと言って、アッサムの自分の分のケーキも欲しいとねだるものだから、結果的にアッサムはバニラ様のケーキを2つ食べることになってしまった。ダージリンはアッサムのケーキを大事に持って帰るそうだ。そうやって喜びを表現してくれることはとてもうれしい。きっと取っておいて、後のお茶の時間に食べるつもりなのだろう。


「アッサム、バニラの愛が重いわね」
「えぇ……まったくですわ」

 美味しいシフォンケーキ。2つ分の重たい愛を、胃の中へと流し込む。
 今度は、アッサムが胃もたれで寝込んでしまわないだろうか。


「はい、お茶受け」
「………朝、全部切って配ったんじゃなかったの?」
「あらやだ、見ていなかったの?ホールの半分は手を付けずに箱に戻したのよ」
「………半分?」
「そうよ、半分」


 ランチの後、暇を持て余してセックスをして少し眠った後、バニラがお茶を淹れてと言うので、バニラティーを淹れた。

 差し出されたお皿の上には、見たことのあるシフォンケーキが乗っている。

「その半分はどこにあるの?」
「何を寝ぼけているの?この部屋にあるから、こうやって出してきたのよ」
「バニラの分は?」
「いらないわ。整備科に貰った、『ホワイトローズ』のヴァレンタイン限定チョコがあるから」
 
 そっちがいい、なんて言えるはずもない。間違いなく、アールグレイ1人でシフォンケーキの残った半分を食べさせられるに違いない。このケーキ分があと、少なくとも4つはあることになる。

「何、嫌な顔して」
「………嫌じゃないわよ」
「あらやだ、嬉しいの?」
「いえ、私も後輩から貰ったチョコを食べないと」
「あなたの分は、手を付けずに、そのまま横浜の教会へ直行でしょう?」
「………そうね」
 2つ3つならともかく、数えるのが面倒な程のプレゼントをもらうので、送り主のリストを作ってもらい、現物は教会を通して児童施設などに届けられることになっている。手作り禁止はそのためだ。賞味期限の短いものは、ひっそりと情報処理部が始末するそうだ。みんな、そのことはわかっていて、それでもリストに名前が挙がるのなら、と、せっせとプレゼントをくれる。アールグレイは送り主に手書きの礼状を書いて、それをコピーして、サインだけは1枚1枚書き入れて、送るのだ。バニラもオレンジペコも、そうやってきた。ルクリリお姉さまの時は、1人で大きな箱を5つ分程集めてしまい、礼状が面倒になったと言う理由を作って握手会なるものを開催して、学内の小さな礼拝堂に行列ができてしまった。


「あーん、ってして欲しい?」
「いえ、いらないわ」
 朝に食べたから、味は覚えている。美味しいと思ったが、一日にケーキを3つも食べたいかと言われたら、3日に1度くらいでも多いと感じるくらいだ。

「バニラ」
「何?」
「あなた去年、私に何か、ヴァレンタインに作ってくれたかしら?」
「作ってないわ」
「どうして、今年は作ろうと思ったの?」

 1年生の時も2年生の時も、ファンから沢山のプレゼントをもらって困っていた記憶はあるが、バニラからはチョコもケーキももらったことなどなかった。

「………アールグレイ、本気で聞いてる?」

 にっこりほほ笑むバニラの眉間が怒りを表現しているのは、何となくわかる。
 聞いてはいけないことだったに違いない。

「ごめんなさい。そうね、アッサムに対抗心を燃やしていたんだったわね」

 アッサムのあのケーキは、とても美味しかった。きっと、ケーキを作るアッサムをからかって遊びたいだけだったに違いない。包丁を触るのも嫌なバニラが、積極的にケーキを作るとは思えないのだ。


「アールグレイって、どこまでも馬鹿ね」
 

 満面の笑みに薄っすら見える青筋のようなもの。勢いをよくふり落とされた右手が頬にぶつけられて、どうやらそうではないらしい、と言うことだけはわかった。

 でもたぶん、正解も教えてもらえないだろう。

だって、恋人でしょ? ③

バニラ様のケーキが焼き上がり、それからしばらくした後、やっと生地が出来上がったアッサムは、小さなカップにちょっとずつ生地を流し込んでいった。1つ1つ計量をして平等にしようとしたら、オレンジペコ様に不要なことだと止められた。何となく同じでいいと言われて、そう言ういい加減なことが嫌なのだと伝えても、だったら、一番少なさそうなものをバニラ様に渡せばいいことだと言われてしまう。均一に火を通すことが大事だと言えば、そもそも部屋にあるオーブンは、計ったように均一に火を通すことが難しいと言われた。生焼けじゃなければいいでしょうって。

 最後は時計を見なさいと言われ、諦めが付いた。ここまでにすでに、2時間半。本当なら、もう焼き終わっているはず。なんだったら、夕食に向かっている時間。

「バニラ様は?」
「さっさと夕食に行ったわ」
「そうですか」

 お茶を飲んで静かにしておられると思っていたが、いつの間にかいなくなっていたなんて。しかも、ご自分のケーキを放置したまま。お姉さまとの夕食がそんなに大事なのだろうか。

 オーブンに入れて、オレンジペコ様が温度と時間をセットしてくださったので、その間、じっとしゃがみ込んで睨んでいようと思ったら、頭を叩かれた。
「そんなところで見守っていても、どうしようもないわよ」
「………はい」
「片づけてしまいましょう。焼きあがったら、熱を冷ましている間に食事をしましょう」
「はい」

 そう言えばこんな時間なのだから、ダージリンが怒っているかもしれない。夕食は別で食べてと言ってないのだ。ムッとして待っているだろうか。携帯電話を開くと、気が付かなかった着信がいくつも入っていた。掛けてみても、今度は出てくれる様子がない。

 メールが1通入っている。

「先に食べておきます」

 シナモンとそのまま、ご飯を食べに行ったのだろうか。アッサムは出来れば、疲れ果ててしまって食べずに寝てもいいくらいだけれど、まだ、生クリームを表面に塗ったり、木苺を上に乗せたりと、やらないといけないことがあるのだ。

 あんまり、オレンジペコ様からアドヴァイスをもらった覚えがないし、多分、一応は全部自分で作った。ダージリンにも胸を張ってそのことを言える。

「アッサム、遅いわね」
「…………そうですわね」
「電話、したの?」
「出ませんわ」

 アッサムの携帯電話を何度も鳴らしたけれど、一向に出る様子がなかったから、メールだけを残して食堂に向かった。きっとまだ、オレンジペコ様とのケーキ作りが終わっていないのだろう。もうこんな時間だと言うのに。まさか、いろんな人に配るために大量に作っているわけでもないでしょうから、きっとまた、計量に情熱を燃やしているのだろう。とはいえ、そのことを笑いでもしたら最後、明日のヴァレンタインには、手作りのケーキをもらえないことになる。

「バニラ様はどうされましたの?」
「さぁ?どこかに行ってるんじゃないの?」
「そうですか」
「昨日、バニラと遊んだのでしょう?」
「えぇ、ノエルでごちそうになりましたわ」
「バニラは夜遅くまで寝込んでいたわ」
「そうですか。おいしそうに召し上がっておられたのに」

 幹部席に行くと、アールグレイ様がお1人でいらした。ここにダージリンと2人で座ったところで、笑顔を交わして食事をすると言う相手ではないけれど、目が合ったのに別の席に移動なんて出来る訳もなく、する理由も見当たらず、隣同士に座ったまま。


 それにしてもバニラ様、満面の笑みで勝ち誇っていらしたのに、同じように胃もたれで寝込んでいらしたとは。大体、あんな量を食べて無事なわけがないのだ。ご自分ができないことを後輩にやらせようとするなんて、なんて酷い先輩なのだろう。


「あらやだ、2人が仲良く食べているなんて」


 噂をすれば。バニラ様がお1人でやって来られた。ダージリンはお茶を淹れるために一度席を立つ。

「バニラ。オレンジペコはどうしたの?」
「アッサムとデート中よ。あれでは、夕食には間に合わないと思うわ」

 バニラ様、2人がケーキを作っているのを知っておられるご様子。勝手に参加されてきたのだろうか。あまり深く聞くと、また遊ばれてしまいそうなので、知らない振りをしたまま、お茶を出した。

「昨日、2人で映画を観たと言っていたわね」
 アールグレイ様は、どうでもいいと言った感じだ。流石に過保護とはいえ、アッサムがオレンジペコ様と2人でいることまで嫌だなんて思うほどじゃないだろう。アッサムのことだから、イチイチ、アールグレイ様に何をしたのかを話していそうだけれど。と言うか、話しているから、部屋で映画を観たことをご存じでいらっしゃるのだ。
「あらやだ。浮気だわ」
「私もバニラ様と昨日、デートしましたわ。ノエルで仲睦まじく、バーガーを食べたじゃありませんか」
「そうそう、そうだったわね。美味しかったわね」
「えぇ」


 携帯電話が鳴った。きっとアッサムからだろう。夕食をどうするつもりか電話をしていたが、もう先に食べてしまっている。そのことはメールを入れておいた。あの子はあの子で、自分で考えて済ませてくれるだろう。そう言うことでの喧嘩はしないから、特に問題はない。


「明日、ヴァレンタインね」
「そうですわね」
「ダージリンは私に何かくれるの?」
「整備科の1,2年たちが、バニラ様のために色々と用意しているみたいなので。戦車道1年生は、協議の結果、お姉さま方には一切何もしないということになりましたの」
「あらやだ。個人的に何かをしてくれてもいいのよ?」
「遠慮しますわ」

 出来る限り時間を掛けて食事をしても、アッサムもオレンジペコ様も姿を見せる気配はなかった。バニラ様とアールグレイ様も、思い出したときに腕時計を眺めているけれど、20時を回る頃に諦めて、3人で席を立った。

「たぶん、ペコが何か作って食べさせているんじゃない?」
「そうでしょうね、きっと」
「ちょっと、ペコの部屋を見てくる」
「放っておいたら?」
「いいの。ちょっと、用事を残しているから」

 バニラ様はアールグレイ様を置いて、スキップする勢いで先に寮に戻って行かれた。バニラ様はたぶん、アッサムがケーキを作っていることをご存じなのだろう。ダージリンが知らないと思っていて、隠してくださっているのかも知れない。ともあれ、何時間かけて作ったケーキなのだか。オレンジペコ様もお可哀相に。面倒看のいい方だから、最後まで付き合ってくださっているのでしょうけれど、1gの誤差も許せないアッサムに、キレたりされていなければいいのだけれど。


アッサムのケーキが焼き終わり、冷ましている間に夕食を作って食べて、それから丁寧に生クリームを乗せ、木苺を乗せ、1つ1つ箱に入れて。
 真剣な目で几帳面に均一に仕上げるそれを眺めながら、やれやれと何度ため息を吐いただろう。仕上げだけで1時間を費やした。5つの小さめなケーキが並び、ダージリンのものだけが木苺が沢山乗ってある。愛情の差だろう。朝まで冷蔵庫で預かってあげることにして、これでやっとヴァレンタインのケーキは作り終わった。

 バニラとアッサムがそれぞれ用意したのだから、今更オレンジペコが何かを作って渡す必要もなさそうだ。教えた側の人間まで渡したら、2人から睨まれるだろうし。

 アッサムは神経を使い果たしたせいなのか、箱に入れて冷蔵庫に入れたあと、ソファーに座った瞬間眠ってしまった。


「ペコ、ただいま」
「………シー」
「シー?あらやだ………寝てる?」

 バニラが放置したままのケーキは、放っておいたらそのまま乾いてしまうので、オレンジペコが勝手に仕上げのチョコソースをコーティングして、ホールごと箱に入れて冷蔵庫に入れてしまった。結局、半分以上はオレンジペコが作った気がする。バニラは、暇を埋めるためにケーキを作った感じだから、そこまで執着もないだろう。そう言うことで愛情を確認し合うほど、アールグレイとは初々しいものじゃない。

 ……たぶん。

「ケーキは出来上がったの?」
「誰かと違って、全部アッサムの手で作ったわ」
「疲れ果てるくらい、本気だったわけね」
 起きる気配がないので、ブランケットを掛けてそのまま寝かせておいた。バニラとお茶をしながら起きるのを待ってみたけれど、30分経ってもぐっすり眠っている。

「ダージリンに迎えに来させる?」
「いいわ、私が送ってあげる」

 自分のケーキを取りに来たはずのバニラは、部屋に持って帰るとアールグレイに早々にバレるからと、結局、バニラもここにケーキを一泊させる方法を取った。代わりに、目をこすりながらも眠たげなアッサムを背負って、1年生の寮に送ってくれた。妹の世話で馴れているから、なんて。
 バニラのふわふわした髪に顔を押し付けて、がっちり背中にくっついたままのアッサムは、アールグレイの妹分だけど、今だけはバニラの妹のようだ。

「仲がいいのか悪いのか、わからないわね」
「あらやだ、私はアッサムとは仲良しよ」
「昨日はダージリンを虐めていたでしょう?」
「ダージリンで遊んでいたの」
「………はいはい。じゃぁ、お願いね」


 2人を追い出すと、残ったチョコレートの塊がテーブルの上に置かれているのが目についた。こんなブロックのもの、どうやって処理をすればいいのだか。






 バニラ様がアッサムを背負ってダージリンの部屋に来た。一体何事かと思ったけれど、色々あって、オレンジペコ様のお部屋で眠ってしまったらしい。だったらアッサムの部屋に預けたらいいものを、有無を言わせずにダージリンのベッドに寝かせて、ウインク一つ飛ばして帰ってしまうものだから。致し方なく黒いリボンを外してあげて、そのまま寝かせておいた。20分ほどして目を覚ましたアッサムは、まだぼんやりとした顔のまま。
「起きたの?」
「………ダージリン」
「オレンジペコ様のお部屋で寝ていたのを、バニラ様が背負って連れて来て下さったのよ」
「バニラ様?」
 不思議そうに首をかしげているアッサムは、ダージリンの部屋だとわかったようだ。ケーキを作り終わって、疲れて横になったところで記憶が消えてしまったらしい。

「上手くできたの?」
「はい」
「そう。明日、楽しみにしているわね」
「えぇ」
「………もう、このまま泊まっていけばいいわ」

 別に一緒のベッドで眠ることが嫌と言うわけじゃないけれど、今のところまだ、同じベッドで一晩を過ごしたことはない。隣同士の部屋。眠たくなるまでどちらかの部屋でくつろいで、お休みと言って自分たちの部屋に戻るのがパターン化しているのだ。なんとなく、そうなっている。

「でも、お風呂に入ってしまいます」
「ここのを使いなさい。着替えを取ってくるといいわ」
「………じゃぁ、お言葉に甘えて」




だって、恋人でしょ? ②

「お姉さま」
「アッサム。ダージリンは?」
「ノエルのコーラとバーガーに胃もたれとか」
「……あぁ」

 食堂に行くと、お姉さまが1人で幹部席に座っている。珍しいこともあるものだ。そう言えばオレンジペコ様は情報処理部の人たちと外に出掛けると言っておられた。アッサムはサラダとスープをトレイに乗せて、直ぐ隣に腰を下ろした。遠巻きにお姉さまを眺めていた生徒たちのざわめきはぴたりと止まった。

「バニラ様も?」
「あの子、ベッドでうずくまって、ずっと、気持ち悪いって言っていたわ。動けないみたい」
「………ダージリンもです」
「馬鹿ね」
「はい」

 お姉さまの冷たい呟きは、ダージリンには可愛そうだけれど、あまりにもごもっとも過ぎて。バニラ様がけしかけるからですって抗議してあげたい気持ちもあるけれど、受けて立った方も悪いのだ。ただ、バニラ様もベッドに突っ伏しているのだったら、この勝負は引き分け。報告をしたら、ダージリンの落ち込みも回復するだろう。

「お姉さま、ヴァレンタインに何かリクエストは?」
「ヴァレンタイン?あぁ、そうね。そういう時期ね。別に何もしなくていいわ」
 お姉さまはまだ、学生艦の責任者であり、この聖グロの学生艦の中で一番モテる人だ。年頃の男性のいない場所なのだから、当然、生徒たちはお姉さまや、オレンジペコ様、バニラ様に恋い焦がれ、ヴァレンタインに何かしらの行動を起こすに違いない。クラスメイトは特に、何かをするなんて言っていなかった。明後日だと言うのに、それほどざわついていないのは、お姉さまが笑顔でチョコを受け取りそうにない人だと、空気を読んでいるからだろう。勝手な予想だけど、外から見えたら、ふんわり天然系のバニラ様に、チョコレートが集中してしまうかもしれない。

「お姉さま、私、チョコレートケーキを作るんです」
「アッサムが?」
「はい。オレンジペコ様に明日、教えていただくことになっていて。もし、もらってくださるのなら、お姉さまの分も」
「そうなの。じゃぁ喜んで」

 アッサムが気にしたのは、バニラ様のことなのだけど、お姉さまはそういう所に敏感なお人ではないのだ。ニッコリ嬉しそうに笑うから、まぁ、別に今までだって何かといろんなものをもらったりあげたりの関係なのだし、と同じように笑った。明日、まずは買い物に行って、材料とか、プレゼント用のケースを揃えないと。もちろん、ちゃんとダージリンの分も。






「アッサム」
「あ、バニラ様。ごきげんよう」
 次の日の放課後、ダージリンはバニラ様に捕まらないようにと、シナモンの腕を掴んで、早々に街にお茶に出かけた。逃げる顔は真剣だったが、アッサムがケーキを作ると言うことは素直にうれしいらしく、さっきも、とても楽しみにしている、なんて言い残していたから、相当な期待を受けているということはわかった。目的は、オレンジペコ様とケーキを作ることだなんて、もう言えないだろう。ダージリンにイチイチ言う必要もないことだから、楽しみにしているのなら、それはそれでいいのだけれど。

「聞いたわよ、ペコとラブラブクッキングなのでしょう?」
「普通にケーキを作ります」
「あらやだ。ケーキなの?とても面倒な日本食を作るって言っていたのに」

 それは、きっと……そう言っておいた方がいいと思われたからに違いない。
 そんな嘘を吐くようになんて指示を受けていなかったものだから、うっかり本当のことを言ってしまって、マズい、と悟ったのだけれど。

「………あ、えっと、日本食です」
「嘘でしょ。ケーキでしょ?」
「いえ、煮物とかお魚を3枚におろすとか、です」
「ケーキでしょう?」

 買い物に行こうとランドローバーの鍵を手にしていた。その腕をがっちりと掴んでくるバニラ様の瞳。背筋が痛い程、嫌な予感がする。

「どうされましたの?バニラ様」
「買い物に行くの?」
「え?えぇ」
「小麦粉とかバターとか?」
「……お魚です」
「ビターチョコレート?」
「その、……オレンジペコ様は許可されましたの?」
「大丈夫よ」

 大丈夫と言うのは、どういう意味の大丈夫ですか。そう尋ねるよりも早く、車の鍵を奪われて、ついでに解放されなかった腕は引っ張られて、助手席に押し込まれてしまう。
「バニラ様、お料理できますの?」
「ペコが先生なのでしょう?」
「あの、でも……」

 オレンジペコ様が嘘を吐いて、バニラ様の参加を拒否されたのには、それなりに理由がおありに違いない。怒られてしまう気がして、とても嫌な予感がする。


「………バニラ、どうしてあなたがいるの?」
「アッサムとばったり出くわして」
「それで?」
「ダージリンのために美味しいケーキを作ると言うから」
「……それで?」
「私もアールグレイとペコのために、美味しいケーキを作ろうと思ったの」

 オレンジペコ様は、ふわふわと微笑むバニラ様を睨み付けた後、その怖い視線でアッサムを睨み付けた。

「私は、別にダージリンのためなんて言っていません!」
「アッサム、そこじゃないわ」
「…………はい」

 真っ白で無駄に高そうなエプロン。それを見ただけで、バニラ様の料理経験の無さと言うのはわかる。アッサムは中学時代の家庭科の授業で縫ったエプロンを付けた。これは、提出に間に合わせるために、家でずっとずっと縫い続けた想い出のエプロン。
「あら、そのエプロン。とても可愛いわね」
「ありがとうございます。バニラ様のエプロンは真っ白ですね」
「そうでしょう?毎回、使うたびに再起不能にしてしまって……洗濯しても落ちないのよね。これで何着目かしらねぇ」


 ……
 ………

 
「オレンジペコ様!」
「………言っておくけれど、連れてきたのはアッサムよ」
「そんなっ!」
「ダージリンとはタイプが違う意味で、厄介な子なの」
 
 それは、何となくもう、“バニラ様”というだけでわかっている。
 ただ、どういう方向性で問題があるのか、それが大事なのだ。


バニラがアッサムと同じ種類のケーキを作るなんて、絶対に嫌だなんて言うものだから、オレンジペコは致し方なく、バニラには違う種類のものを作らせることにした。アッサムには、昨日作っておいたレシピの紙を渡して、取りあえず、書いてある通りにしなさいと指示を出した。バニラにお金を払わせたらしい、大量のチョコレートがテーブルの真ん中に置かれている。一体何人に配るつもりなのだろうと、2人を交互に見つめると、ため息しか出てこない。


「バニラ、いい?これはゲームじゃないの。速さを競うものじゃないから、飛び散るほどのスピードでハンドミキサーを使わないで」
「わかっているわよ」
「ボウルをしっかり腕で固定させないと、大変なことになるの」
「何度も経験したわ」
「1度で学ばなかったでしょう、あなた」


 そのやり取りを聞いていたアッサムが、必要な材料を抱えて、リビングのテーブルに移動していった。オレンジペコの部屋のキッチンは、寮の中で一番大きいけれど、3人並ぶと、それなりに狭い。あの子はリビングを汚す事はしないだろう。レシピさえあれば、放っておいても大丈夫そう。

「あらやだ、アッサム。どうして一緒にやらないの?」
「身の危険を感じたのよ」
「酷い子だわ」

 ボウルに割った卵の欠片。『卵黄と卵白を分けて』と1行目に書いてあるのがわかっていないのか、この馬鹿は。
「殻。あと、卵黄と卵白をどうやってこれから分けるの?」
「もう一つボウルを使えばいいんじゃない?」
「私の部屋に、何でも沢山ないわよ」

 だから、殻を全部取って。


 リビングのアッサムをチラリとみると、秤を睨み付けて、恐る恐るバターを計っている。あの様子だと、何時に終わるのかわかったものじゃない。


「ちょっとバニラ。殻を全部取ってから混ぜなさいよ」
「だって、取れそうにないもの」

 取ろうとする努力をしないからだ。
 混ぜてしまえばわからないなんて言い出して、ハンドミキサーのコンセントを入れようとするから、慌ててボウルを奪い取った。

「バニラ、追い出されたい?この部屋でやる以上、私の言うことを聞きなさい」
「だって、アッサムより早く終わらせたいじゃない?」

 そんな対抗心を燃やさなくても、あの子のあの様子じゃぁ、夕食の時間になっても終わりそうにない。

「絶対、バニラが早く終わるはずだから、丁寧にしなさい」
「………今更、殻が入っていてもわからないわよ」

 過去、何度も殻入りのケーキやクッキーを食べさせられてきたことを言っているのだろうけれど、だからバニラは家庭科の成績が酷いのだ。ハンドミキサーのモーター音が好きだとか言って、何度周りの人が悲鳴を上げたことか。


「追い出されたい?」
「………ペコ、怖い」


 殻を取るのが嫌だと言うので、一度卵白を捨てさせて、結局1からやり直し。アッサムはようやくバターの計量が終わって、薄力粉を計っているようだった。3g程度の違いなんて、気にしなくてもいいって、口に出してあげない方がいい。反論してくるだろうから。




 本当なら、アッサムとの約束であって、アッサムに付きっ切りになるはずだったけれど、キッチンを散らかしかねないバニラの行動が怖くて、監視をずっと続けていた結果、ほとんどアッサムを放置することになってしまった。とはいえ、チラチラと確認するたびに、アッサムは秤を睨んでばかりだ。バニラが生地を型に流し込んでいる頃、アッサムはまだ、薄力粉を振るいに掛けていた。しかも、更にそれを計量していて、その誤差を取り戻そうとしているものだから。

「………どっちも面倒だわ」

 どのみち、バニラとアッサムの作っているものは焼く時間が違うから、先にバニラのものを作り終わらせてしまおう。

「あの子、あれは何をしているの?」
「あなたと違って、几帳面なの」
「あらやだ、度を越しているんじゃない?」
「いいじゃない。ダージリンのために丁寧に作っているのだから。バニラみたいにいい加減な感情じゃないということよ」
 結局のところ、バニラに口うるさく注意をしてばかりで、何だかんだとオレンジペコがほとんど作った気がするのだけれど、いつも通りのことなのだ。こうやって、お節介しすぎるし、バニラはいつも人を動かしてしまう。それも才能の一つ。ふわふわと笑って穏やかそうに見えるから、みんな手を差し伸べてしまいたくなるのだろう。

「アッサム、私が手伝ってあげましょうか?」
「嫌です。絶対に何も、触らないでください」
「あらやだ、怖い」
「焼いているのを待っているようでしたら、ベッドルームかどこか、違う所に行ってくれませんこと?」

 ようやく生地を作り始めたアッサムは、ボウルを抱きしめてバニラから我が子を守ろうとしている。気持ちはわかる。ダージリンへの想いがいっぱい詰まっているのもよくわかる。

「アッサム、陽が暮れてしまうわよ?秤ばかり見て、時計を見ていないって問題じゃない?」
「いいんです」
「ペコの部屋なのよ。今、この時間でまだ、かき混ぜているなんて、夕食を食べないつもりなの?」

 バニラの言っていることはごもっともだけれど。

「バニラ様にだけは、言われたくありません」

 ほら、言い返されるのがオチ。

「あらやだ、アッサム。あなたとは一度、色々と決着を付けないといけないみたいね」
「私には、決着を付けないといけない事柄なんて、ありませんわ」

 仲がいいのか悪いのか。表面的な部分も、内面的な部分も全然違う2人は、アールグレイという人物を間に挟んで、お互い睨み合っているような、手を繋いでいるような。

 でも、全然違う癖に、好きな人に対して一途という所はそっくり。

「はいはい、2人とも。バニラ、あなたはおとなしく紅茶でも飲んでなさい。それが嫌なら、一度出て行って」
「ペコは誰の味方なの?」
「アッサムとのケーキ作りに、割り込んだのはあなたよ。一切の文句を、あなたが言う権利はないの」

 頬に空気を貯め込んで、プンプンしながらお茶を沸かすと言うから、その準備はしなくて結構だと、ソファーに座って動くなと命じた。

「アッサム、大丈夫?」
「はい」

 一生懸命、ケーキを作っている姿。やっぱり、キチンと生地の状態が問題ないか、確認くらいはしてあげないと。ティーパックのアールグレイを適当に淹れて、バニラの前に置いた。



だって、恋人でしょ? ①

「もうすぐ、ヴァレンタインですね」


 オレンジペコ様とコーヒーを飲むお茶会。今日もいつも通り、日本で一番おいしいコーヒー豆の会社はどこなのかという調査をしなければならない。
 古めかしい感じのミルで挽かれた豆。キリマンジャロ。
 アッサムは2つの会社のものを取り寄せて、オレンジペコ様もまた、2つの袋を並べていた。それぞれ、担当の会社から持ち出したコーヒー豆。4杯も連続して飲めるはずもなく、2日前に2杯、今日が残り2杯。
 アッサムは、ゆっくりとコーヒーフィルターに入れた豆にお湯を回し入れているオレンジペコ様の傍で、タブレットを持っていた。美味しい淹れ方の検索のついでに、隅っこに見えたネット広告を眺めていたのだ。

「チョコレート、欲しいの?」
「いえ、特には」
「アッサムの場合は、ダージリンからしか要らないわね」
「………さぁ、どうでしょうか」

 少しお湯を足すごとに、美味しそうな様子で香りを楽しまれているオレンジペコ様。アッサムは時々、ちらちらと様子を気にしながらも、ネットのチョコ特集をタップしてみた。人気順に並べられているブランドのチョコたち。もう、見ただけでお腹いっぱいになる。

「さて、もういいかしら?」
「えぇ、大丈夫です」

 真っ白いコーヒーカップに淹れられた、美味しそうなコーヒー。今日のお茶受けはチョコレートケーキ。
 アッサムはスマホでカップとケーキが並んでいるのを写真に撮って、満足な頷きをひとつ、オレンジペコ様に見せた。

「美味しそうですね、このケーキ。どこのお店のですか?」
「作ったのよ」
「本当ですの?」
「えぇ。暇だったから」

 お料理がお上手と言うことは、よく知っている。何度も夕食を作ってくださいと、ダージリンと2人でお部屋に突撃したものだ。
 コーヒーによく合いそうなビターチョコレートのケーキ。アッサムは一瞬だけダージリンにも食べさせてあげたいと思ったけれど、ここでコーヒーを飲もうって誘っても、ダージリンはムッとして、コーヒーは嫌いだと言って逃げた。この、何とも言えない美味しそうな香りが近くにあるだけで、機嫌を損ねられてもメンドクサイ。

「どうしたの、アッサム?」
「いえ」
「ダージリンにも食べさせたい、って言う顔?」
「いえ。秘密にしておきます」
「あの子、今頃はバニラとお茶会しているでしょ?」

 アッサムが放課後、イソイソとオレンジペコ様のお部屋に向かうのを見送ったダージリンを、がっちりとバニラ様は捕まえておられた。あのまま引きずって、学校の外に連れていかれてしまった。お姉さまは今日、部屋に籠っていらっしゃるようだ。寒いから一歩も出たくないらしい。
 ここ最近の3年生のお姉さま方は、毎日暇を持て余しておられる。後輩たちの訓練を見学されたり、ミーティングルームにティーセットを持ち込んで、車長ミーティングを妨害されたり、良くも悪くも、残り少ない学生艦での思い出を毎日作っておられるご様子。

「バニラ様、ノエルでコーラとポテトとずっしりヘビーなバーガーを食べさせるって、おっしゃっていました」
「あら、可愛そうに」
 オレンジペコ様は、言うほど可愛そうと思っておられないコメントを呟き、コーヒーカップを持ちあげた。アッサムも同じように持ち上げ、香りを確かめるように、鼻のすぐ傍まで持ってくる。

「いい香りです」
「そうね」

 舌に流れる酸味。ジワジワと苦さが広がって、ため息を吐くと鼻から抜ける香りがまた、言いようもなく、ホッとする。残念ながら、ダージリンにはわからないだろう。紅茶も好きだけど、このしっかりと味わい深い香りも、余すことなく楽しめるコーヒーと言う飲み物を、時々、身体が欲するのだ。

「美味しいです」
「そうね」

 チョコレートケーキは、コーヒーとの相性は抜群だった。思わずオレンジペコ様に抱き付いてしまいたくなるくらい。流石、と声をあげたい。パクパクと食べ進めて、ペロリと平らげてしまいそうになるのを必死で我慢して、2杯目のために残しておかなければならないのが惜しいくらい。

「アッサム、本当に美味しそうに食べるわね」
「オレンジペコ様のケーキ、美味しいです」
「そう?ダージリンに食べさせたい?」
「ダージリンの分があるのなら、私が食べますわ」
「あら、そんなに?」

 美味しいコーヒーと、ケーキ。ダージリンと2人でお茶をするのも大好きな時間だけど、こうやって、オレンジペコ様と2人でコーヒーを楽しむことができるのも、あと2か月を切ってしまった。べったりと甘えることが許される関係は、オレンジペコ様たち3年生だけだ。お姉さま方がご卒業されてしまえば、ダージリンが学生艦の舵を取り、アッサムは全力で彼女をサポートしていく。甘えも失敗も許されたりしない、そんな場所に立たされてしまうのだ。

「明日、作り方を教えてください」
「構わないけれど、アッサムは料理できるの?」
「授業でやっておりますわ」

 当然、自炊なんてできない。
 していたら、睡眠時間を失くしてしまう。
 聖グロは学生のための食堂があるのが、とてもいいところ。
 自立心を養うことは大事だが、学生なのだから食生活は誰かにコントロールしてもらってもいいのだ。実際、寮のキッチンは使い勝手の悪い電気コンロだし、狭いし。オレンジペコ様のお部屋のように広いキッチン仕様の部屋は、とても少ない。

「シナモンから、お腹を壊したと聞いているわ」
「それは、ダージリンが作ったものですわ」
「同じチームにあなたもいた、と」

 アッサムは、担当したお菓子が時間内に作れなかっただけだ。ダージリンの様にプリンを分離させてしまったあげく、シナモンに固まらなかったプリンに似た液体を飲ませたりなんてしていない。

「それはその……連帯責任を取りましたが、ダージリンは被害を与える方ですし」
「アッサムは違うのね?」
「えぇ。適当なんて、一番嫌いですもの」
「本当に両極端よね、アッサムとダージリンは」
 あの家庭科の授業の後、ずっとその日は口を利かなかった。ダージリンはお姉さまに、次期隊長として、隊員にマズいものを食べさせると言うのは問題、って冷めた感じで注意を受けていた。お姉さまを睨み付けながらも、まったくもって反論できずにふて腐れていた姿。写真に撮っておけばよかった。時間内に課題を提出できなかったアッサムの罪なんて、すっかり忘れ去られるくらい、ダージリンのプリン事件の噂は、あっという間に生徒の間に広がったのだ。

「ですが、きちんと量る方が美味しいと本に書いてあります」
「はいはい、そうね。わかったわ。じゃぁ、このケーキはそこまで難しくないものだし、あなたが作ってダージリンに食べさせてあげたらどう?」
「あ……いえ、別に誰っていうことでは」
「ダージリンだって、きっと喜ぶわ」

 別に、ダージリンに食べさせたいなどと考えてお願いしたわけじゃないけれど、オレンジペコ様に頭を撫でられたので、違う!と言い出せなかった。アッサムはただ、残り少ない時間を少しでも多く、オレンジペコ様と過ごしたいだけなのだ。結果的にはダージリンにも食べてもらうかもしれないけれど、目的ではない。


「さて、じゃぁ2杯目に行きましょうか」
「はい」
 
 
「ダージリン?」
 コーヒーを飲み、オレンジペコ様のお部屋でのんびりくつろいで、一緒に洋画のブルーレイを観た後、部屋に戻るとダージリンがベッドでうつ伏せになっていた。

「…………アッサム、遅いわ」

 声だけですぐにわかる“機嫌の悪いオーラ”。
 そっと傍に近づいて、その頭を撫でてみる。ぬぅっとあらわれた、唇を尖らせている子供みたいな顔。随分とバニラお姉さまに遊んでもらったみたい。
「どうしました、ダージリン?」
「コーラなんて嫌いだわ」
「……あぁ」
「あんなもの、学生艦に積み込む必要などないわ。来年からは禁止にしましょう」
 ダージリンにはなくても、紅茶に飽きた生徒たちは好んでいたりもするのに。なんて言わずに、ヨシヨシと頭を撫でてあげる。
「バニラ様に飲まされましたの?」
「だって、飲めないの?って馬鹿にするんだもの」
「………どうしてそう、何でも受けて立つんですか」
 最近のバニラ様は、卒業試合も終わり、毎日ご機嫌なご様子だ。ふんわりとした銀の髪、性格も穏やかでふわふわされている……と思っていたのは夏まで。
 ダージリンとアッサムの前では猫を被ることなく、実はかなりの行動力をお持ちのお方で、お姉さまもかなり振り回されているらしい。今まで、一度も2人で外に遊びに行くこともしなかったものだから、船を降りると首輪を引きずるように、あちこちデートに行かれていて、お疲れの様子。
 今日は、車長ミーティングの時に、後ろを陣取って、お姉さまとチェスを楽しまれておられた。お姉さまのあれは付き合わされているような顔だったけれど、バニラ様は完全に、ダージリンを挑発している様子だったのだ。またそれをさらっと受け流せばいいのに、ダージリンたら。靴音を鳴らしてお2人に近づいて、バニラ様のチェス駒を動かして喧嘩を売ったのだ。

 おかげで、気持ち悪い笑顔同士の喧嘩が始まった。それでも、ダージリンとバニラ様は仲がいいと思う。本当にお互いに嫌いなら、近づいたりしないだろう。

「コーラも飲めなくせに隊長を務めるつもり?なんて言うからよ」
「飲めないじゃないですか、実際」
「恐れは逃げれば倍になるわ」
「立ち向かっても、倍になっているみたいですわよ」

 放課後、ノエルに連れていかれたダージリン。そこで大嫌いなコーラとずっしりと重たいバーガーにポテトを本当に口にしたようだ。満面の笑みでやり過ごしたのだろうか。その様子を見たかったような、いなくてよかったような。

「アッサム、どうして助けに来なかったの?」
「オレンジペコ様とコーヒーを飲むのを、嫌だと言ったのはダージリンですわ」
「私を1人にさせるから、バニラ様に目を付けられるのよ」

 とはいえ、最初に売られた喧嘩を買ったのはダージリンだ。
 いえ、喧嘩を売った方が悪い。とはいえ、バニラ様なわけで。
 後でお姉様に聞いたのだけれど、毎年、3年生がこの時期に、ミーティングの邪魔をするのは悪い伝統なんだとか。良くも悪くも、耐えられずに行動に出たダージリンの負け。ダージリンの意地悪な一手が、バニラ様の負けを導いたのだ。そのチェスの勝負で、今日の放課後の過ごし方が決まったらしい。お姉さまと遊べなくなったわけだから、ダージリンがその穴を埋めるのは仕方のないことだ。

「気持ち悪いわ」
「………お夕食は、いらない感じですね」
「いらないわ。胃薬を頂戴」

 苦手なコーラ。ダージリンはバニラ様が勝手にLサイズを頼んだものを、無理やりに飲み切ったそうだ。ノエルのハンバーガーも、ダージリンはフィッシュバーガーしか好んで食べない。この様子だと、荒々しいお肉と、こってりしたマヨネーズソースを挟んだものを、食べさせられたのだろう。素直に無理と言えばいいのに。

「アッサム。あの人は鬼だわ」
「遊びに付き合うダージリンも悪いんですわ」
 グラスに水を入れて、薬箱から胃薬を取り出し、錠剤をその手の平に置く。モゾモゾと起き上ったダージリンは胃を抑えながら、薬を飲み込んだ。アッサムにしがみ付いて、悔しそうなため息ひとつ。ダージリンをこんな顔にさせるなんて、流石の3年生と言ったところ。でも、それもあと2か月もない。いなくなる寂しさを想うと、一緒にいたいと思ってしまうのは、ダージリンだって同じなのだろう。


 ……たぶん。


「アッサム、オレンジペコ様とは楽しかったの?」
「えぇ、とても」
「………私、明日はあのお方の背中に庇護されなければ」

 
 残念ながら、明日の放課後はアッサムと一緒にケーキを作るのだ。一応は、ダージリンに食べさせるためということで。ヴァレンタインだし。お姉さまたちの分も作るつもりだけど。

「オレンジペコ様、明日はお忙しいみたいですよ」
「あら、どうして?」
「さぁ、用事があるそうです」
「では、あなたと部屋に閉じこもるわ」
「私、予定を入れてしまいました」

 しがみついている指先に抗議の痛み。ヨシヨシと結った髪を撫でたところで、アッサムの身体から離れる様子なんてない。

「そんなものは断わってしまいなさい」
「約束を反故にするのは、ちょっと難しいです」
「私を放置するおつもり?」
「ですが、仕方ないんです。約束を先にした方を優先しないと」

 イヤイヤイヤと顔をこすりつけてくる。時々、2人きりになると子供のような駄々っ子になるのは知っているが、バニラ様に負けた鬱憤も重なっているから、ふて腐れ具合はいつもより多い気がする。

「アッサム、私のことは好き?」
「もちろんです」
「なら、明日の放課後は私の傍にいなさい」

 何というか、お姫様みたい。流石、ダージリン。

「傍にいると、ダージリンに渡すヴァレンタインのプレゼントがなくなりますが、よろしいですか?」


 …
 ……
 ………



 ヴァレンタインと言う響きに反応した身体。爪痕が付くくらいの力が抜けたようだ。天秤にかけているのが、手に取るように伝わってくる。バニラ様に捕まりたくないけれど、1人でいたくもないし、アッサムに張り付いていると、プレゼントをもらい損ねる。どういう行動を取ることが有効なのか。
「………ヴァレンタインね」
「はい」
「私、チョコレートは好きよ」
「あら、そうですか」
「買いに行くの?」
「秘密です。そう言うのを先に聞いても仕方ありませんわよ?」


「………それもそうね」


 あれだけふて腐れていたのに、何だか急にソワソワしだしたダージリンは、アッサムから離れて、仕方がないと言わんばかりに自分を納得させているようだ。
「バニラ様から逃れられるように、祈っておいて」
 明日は、どんな戦いになるのだろう。胃もたれで動けないダージリンの頬にキスをして、アッサムはお腹が空いたので食堂で軽く食べてくると伝えた。ダージリンはまだまだ、食べるものを見たくないらしい。


きっと、明日

明日、この世界からあなたは消える。


そして、私も消える。



「ねぇ、レイちゃん」
「何?」
「うん。私、レイちゃんのことが好きだよ」


消えた世界に訪れる平和を、この瞳で見届けることができない癖に。

私と言う世界が終わった後の世界を守るのだ。


どうして、守るのだろう。

あなたも消えてしまう世界だと言うのに。


「それがどうしたの?」
「うん、言いたいことは全部言っておこうと思って」
「明日に取っておけば?」


明日で最後だと言うのに。


「そんな余裕、きっとないよ」
「そう?美奈って、案外ビビりなのね」
「………レイちゃん、生き抜くつもりなんだ」
「当然でしょう?私は、“私の未来”を守るために戦うの。世界なんて知らないわ」


あぁ、そうだった。
強がるあなたの弱さを、とても愛したのだ。



あの、遠い世界でも。
同じような言葉で私を見送った。



腕を組んで、胸を張って。
私のことを馬鹿にして。


「じゃぁ、戦いが終わったらさ」
「何よ」
「私に言うって約束をしてよ」
「だから、何を?」


私を好きだって。
そして、ずっと、未来も一緒だって。

そんなとても臭いセリフを、真剣な声で言って。



「大した敵じゃなかったわね、ってさ」

最後を惜しむように触れたいと願った頬。
その未練を残しておいた。


明日がもし、あるのなら
明日に取っておけばいいのだ

明日が、あるのなら。


「それを言うには、かすり傷も作れないじゃない」
「そうね」


あなたは、とてもメンドクサイため息を吐く。

震える唇。
長い睫。
その瞳にはもう、明日はないと映し出されている。


それでも。


「それくらい、言ってあげるわよ」
「うん。あとついでに、美奈のことが好きって言うのも言ってね」


それでも。


「そうね、すべてが終わった後でなら、いくらでも言ってあげるわ」



私の未来を守ろうとする、あなたが好き。


好きだよ、レイちゃん。


恋より深く END

放課後、船舶科との打ち合わせがあり、ダージリンは姿を消した。アッサムは留守を預かり、隊長室で指導計画や日報などに目を通し、整備科との予算の打ち合わせなど、互いに抱えている仕事をこなした。窓の外が真っ暗になるころ、左手に資料を抱えて戻ってきたダージリンの顔は作り笑顔。

「お帰りなさい」
「ただいま。そちらはもう終わったの?」
「はい」
「そう。もう遅いわね。夕食はどうするの?どこかに食べに行きましょうか?」

 その顔色で、ですか。言いたくなるけれど、これはもう、挑戦状なのだ。騙し合いと呼ぶものでもなくて、馬鹿と馬鹿がお互いの感情を揺さぶり合っている。そして、最初からアッサムは負けが決まっている。攻めて、一矢報いたい。その矢は針程の細さだけど。

 
「………中華料理とかいいですね」
「そう。いいわね」
「嘘です。中華粥のお店がいいです」
「あら、北京ダックを食べたいわけじゃないの?」
「寒いので、温かいものが欲しくて」
「そう?いいわ、あなたが行きたいところに行って」


 夕食なんて取らなくてもいいのでしょう?なんて聞いて差し上げたりしない。ノートパソコンを閉じたアッサムは、空のティカップを急いで洗い、ダージリンと肩を並べて隊長室から出た。歩幅をわざとずらそうなんて思うまでもなく、彼女が先に“わざと”乱してきたから、アッサムは腹立たしさを押し殺して、ダージリンには合わせるなんてして差し上げなかった。バラバラと不穏な音。靴音の乱れ。それは心が重ならないことを意味していて、息さえどのタイミングですればいいのか、わからなくなりそうだった。


じゃぁね、アッサム。また明日」
「…………おやすみなさい、ダージリン」
「おやすみなさい」


 意地を張り合ったと言うよりは、あくまでもいつもと変わらないと言う姿勢を崩そうとしなかったダージリンに、結局、アッサムは何も言えなかった。アッサムと同じメニューを頼み、アッサムと同じスピードで食べきる、その顔はいつもと変わらないし、話す内容もいつもと同じ。本当に、重たい中華料理に行けば、どうなっていただろう。


 今日1日、心配して声を掛ける。そのことをわざとしなかったのは、心配させまいと何事もない風を装う、そのダージリンの、ダージリンという隊長としてのプライドを守りたかったからだ。その姿を、その立ち振る舞いを見守ることしかできないのは、弱さでしかないのだろう。脆さを見せて欲しいと願う反面、それでも、ダージリンはそんなことをしないだろうと言う期待もある。それは期待なのか、絶望なのか。

 誰かから心配されることなど、隊長として、学生艦の責任者として、不適切であると。
 ダージリンはそう思っておられるのだろう。

孤高の静寂の中、ダージリンはいつも、ダージリンであると言うことと向き合い、常に戦っている。そのことを知っているのは、アッサムだけだ。


 アッサムは、その姿さえ好きだと思っている。
 知っていて、止められない愚かさを隠せず、簡単に負けてしまう。

 ただ、一言。

 心配をしていると言う言葉を、差し出すこともできなかった。

 受け取ってもらえない怖さに、結局は勝てないまま。





 隣のドアが閉じられる音を壁越しに聞いた後、暖房を付けてベッドにうずくまった。胃もたれを起こす程の、重たいものを一切食べなかった身体は、苛立ちと情けなさのせいで、立ち上がる気力を奪ってしまっている。

 ただ、どうしようもなく泣きたくなる。理由などない。

 いえ、理由など一つしかない。


 どれほど想っても、ダージリンはただ、ダージリンなのだ。

 アッサムには、彼女の弱さを抱きしめる強さがないと、そう思われているのだろうか。
 それとも、見せない優しさの度が超えているだけなのだろうか。


 心配をさせてもらえない、この寂しさは。
 孤高の静寂を抱く彼女には、邪魔なのだろう。


ここまで具合が悪くなるのは、どれくらい久しぶりなのだろう。昨日の朝から何かがおかしいと言う自覚はあったが、寒波の中、打ち合わせなどであちこちに出回ったのが決定打となったのだろう。
朝、胃の不快感と頭痛で、目覚まし時計よりも随分と早く目を覚ました。あまり薬を必要とした生活を送って来なかったせいで、部屋に常備薬もなかった。制服を着替え、鏡を見てみる。たぶん、いつもとは変わらない。そう思えた。


 問題は、アッサムを騙しきれるかどうか。


 そう考えていたところだというのに、朝の挨拶を交わした直後から、何かを不審に思われていたのだ。顔色や態度など何も変えてなどいない。そう思いかえしてみて、そう言えば、自分から扉を開けてしまったのだと思い当たった。アッサムに気づかれまいとした余計な行動。それでも歩幅を合わせ、寒さに紛れて腕が振れる傍に近寄る彼女の髪を、ほんの少しだけ撫でた。いつもと同じだった。

 朝食の後、気分の悪さと頭の痛みを堪えながら、訓練の最中は、アッサムから逃げるようにずっと、砲塔から顔を出していた。冷たい風は容赦なく頬を打ち、固めている三つ編みの隙間を縫うように、芯まで冷やそうと襲い掛かってくる。それでも、ゆっくりとお茶など飲めなかったのは、そこに気を回す余裕がなかったからだ。アッサムに何を想われるのか。考えたくもなかった。あからさまな視線を感じながら、気づいていると言いたげな瞳に、決して認めたりしないという視線を送るように、笑って見せた。

 アッサムは、笑いもしなかった。

 きっと、怒らせたのだろう。

 ランチもわざと、ダージリンと同じものだけを食べ、午後の授業ではずっと、いつもと変わらない様子のままだった。放課後は、スケジュール通りに互いの仕事をこなし、胃の痛みと身体のだるさを背負ったまま、おそらくこのままで行くと、気を失うのではないだろうかと、少し不安にさえなった。それでも、アッサム以外には不審がられることがなかったのだから、何とか乗り越えたのだと、ホッとした。


 アッサムは、普段と変わらずにダージリンと接すると言うことを、やり切ろうとしているようだった。時々見え隠れする、本当に心配していると言った瞳が、ダージリンを更に弱くさせるような気がして、ダージリンはだから、アッサムが必死に、いつもと変わらないでいようとする、その気持ちに応えるべきだと思った。


 今にも吐きそうな身体。
 うずくまり、動きたくないと言いたくなる。
 
 一度乱れた歩みは、わざとお互いに外したままだった。


 息苦しそうな瞳で、おやすみと告げて、部屋に入ると、そのままバスルームに直行して、食べたものをすべて吐き出した。


しばらくそのまま動けず、冷たい空気に包まれていた。意を決して起き上がり、口をゆすいで、顔を洗う。寒いのか暑いのかわからなくなって、とにかく制服を脱ぎ、這うようにベッドに向かい、何とか布団の中に身体を埋めた。

 一晩眠ればまた、明日の朝、いつもと変わらない笑みを彼女に見せてあげることは出来るだろうか。


 アッサムは、愚かだと想っているだろう。

 愚かだと嘆き、もしかしたら、泣いているかもしれない。


 心配されたいとは思わないのに、結果的には心配させてしまっている時点で、ダージリンが悪いのだ。それでも、弱さなど見られたくはないのだ。その弱さはあっという間に、多くの目にさらされてしまうだろう。

 そんなものなど欲していないと、アッサムはわかっている。

 『アッサムなら私のことをわかっている』
 それがもう、弱さなのだ。

「ダージリン」


 布団にうずくまっていると、薄闇の中から声が聞こえた。気を失っていただろうか。もう、あっという間に朝になったと言うのだろうか。


「…………鍵、開けていたかしら」
「はい」

 瞼の奥が赤く感じ、電気がつけられたのだと知ると、致し方なく顔を蒲団から出した。アッサムの顔がすぐ傍にある。

 赤く腫れた瞳。反射的にその頬に触れ、冷たい雫を爪先で掬った。

「何か御用?」
「はい。お薬、持ってきました。きっと、お持ちではないでしょうから」


 見つめ合う瞳からじわりと滲む涙の粒は、ダージリンが犯した過ち。


「………………ありがとう」


 ごめんなさいと、声に出してしまえばどれだけ楽になれるだろうか。

 弱さを認め、縋るように甘えたくなる想いを。
 さらけ出して、荷を下ろしたくなる衝動を。


 そしてそれが怖いと言うことを。


 アッサムはどこまで知っているのだろうか。

 すべて、知られているのだ。

 本当は、とても脆いということを。

 

「…………弱いダージリンなんて…………嫌いです」
「そうね。私も、そんな私は嫌いだわ」
「弱さを見せないのなら…………最初から最後まで、演じきってください」
「そうね」


 頬に伝う、ダージリンが犯した罪。背負わなければならない罪。アッサムの痛みや苛立ちは、心臓に杭を打ち込むように伝わってくる。

 それでも、優しい声を掛けたりしないと言う意地を見せてくるのだから。

 その想いに救われて、縋りそうになる無様を何とか隠すことができるのだ。


「お薬を飲んで、しっかり休んでください」
「えぇ」

 とても自然に近づいてくる唇は、右の頬に押し当てられた。
 引き寄せたくなる両手はかろうじて、その制服を掴むだけでとどめた。

 このまま傍にいて。
 ずっと抱きしめて、一晩傍にいて。

 そんな弱さをさらけ出したくなる衝動は、数秒ですり抜けて行く。

「おやすみなさい」
「……えぇ、おやすみなさい。ありがとう、アッサム」


 拭うことが無意味な程、ハラハラと涙を流す。罪に濡れたシーツに残るアッサムの香り。好きだと零していくのなら、アッサムだって同じ罪なのに。

「好きよ、アッサム」

 アッサムが好きで。
 
「はい、私もです」

 好きでいてくれる。

「そうね」


 ベッドから離れて、扉へと向かう背中。
 遠ざかる足音が、傍にいてと希う気持ちを消していく。


「私、ダージリンのこと……………やっぱりちょっと、嫌いです」
 

 部屋の明かりを消すパチンと言う音と共に、アッサムは言いきって、音を立てて扉を閉めた。


 暖房の音が少しの間忘れていた頭痛を思い出させる。


「………奇遇ね、私もよ」


 彼女にすべてを捧げる強さのない、ダージリンなど。
 アッサムを苦しめるだけでしかないと言うのに。

 濡れたシーツを這う指先。
 温もりは、あと少しで消えてしまうだろう。




 濡れた罪に、唇を押し当てた。



恋より深く ①

「おはよう、アッサム」
「おはようございます、ダージリン」

 部屋を出て、隣の扉をノックしに行こうとする、その10歩の空間。見計らったようにダージリンが出てきた。いつもは、キチンと服を着替え終わっている様子でも、アッサムがノックするのを待っている人だ。いつもと同じ時間に出てきたつもりだけれど、数分、時計が遅れているのだろうか。


「どうかしたの?」
「いえ、なんでもありません」


 右隣を歩き始めたその歩幅。同じリズムで、同じ呼吸。毎朝、この絨毯敷きの廊下を鈍い靴音と共に2人だけで行進する。このわずか1分ほどが好きだ。心地がいいと感じるそれは、アッサムがダージリンに合わせに行っているからであり、それでもそれをわかっていて、決して音を乱そうとしないダージリンの許しがあるからでもある。

「昨日、寒かったですね」
「えぇ。もっと早くに船を南に移動させておくべきだったわ」
「そうですね」

 日本列島を包む寒気は、陸地とは無関係の船の上でも当然、冷たく痛い風をまき散らした。海の上なのだから、その寒さはもしかしたら、陸よりも厳しかっただろう。寒波到来のため、多くの学生艦は南を目指した。そのため、緊急時の停泊場所がどこもかしこも埋まってしまい、聖グロの学生艦は、結局、大寒波を極寒の場所で過ごす羽目になったのだ。幸い、日曜日だったため、生徒たちの外出もほとんどなく、ダージリンとアッサムは、風で少し揺れる学生艦の船舶科と船長と、ずっと進路会議を行っていた。外の空気があまりにも冷たすぎて、暖房も効力が薄く、何をしても皆、寒い、寒い、としか言わない日だった。

「……寒い」
「大丈夫、アッサム?」
「はい」

 学生寮から食堂へ行く徒歩2分ちょっとの距離。手袋とマフラー、ダウンコートを着ているけれど、それでもまだ、寒波の影響の中に学生艦はある。生活に支障の出ないスピードでしか進めない船なのだ。暖かい場所まではまだ時間がかかるだろう。

 乱れないリズム。
 乱さないようにしているリズム。
 アッサムはダージリンに縋るように腕を寄せた。


「おはようございます、ダージリン様、アッサム様」

 寒さに凍えながら、多くの生徒に白い吐息と共に名前を呼ばれ、そのたびに小さく笑顔を返す。立ち止まらずに流れる、おだやかな風景。

 ふと、何か小さな違和感を覚えた。

 いつもと違うのは、生徒の皆が白い息を吐いているせいだろうか。

 いえ、違和感は風景ではない。

 何かが、少し引っかかる。



「今日は、温かいスープだといいわね」
「そうですね」

 カモミールをリクエストしたダージリンの前に置かれたのは、サラダにスクランブルエッグにクルミの入ったパン。そしてスープ。冷えた手を温めるように、両の手を押し当てられたスープの器。

 また、違和感を覚えた。

「いただきましょうか」
「はい」

 
 スープを味わいながら、思い当たるものを少しだけ整理してみたけれど、些細なことと言えば些細なことだ。そのことが問題なのかと自分に問いかけてみたが、否。気のせいとは思わないが、そのことについて聞いてみたとしても、おそらくは不思議そうな顔をされるだろう。


「もう、毎週月曜日の、スクランブルエッグとベーコンには飽きたわ」
「そう言う生徒が多いので、ベーコンを厚切りにしたばかりですよ」
 海軍の風習でも何でもないが、月曜日の朝食だけ、特別行事の時以外はスクランブルエッグとベーコンが出ることになっている。生徒の中には、それを楽しみにしている人もいるし、月曜日に食堂の朝食を避ける生徒もいる。薄くカリカリのベーコンから、分厚くなったのは秋の初め。家政科たちが試験的に振舞ったものが好評で、しっかりとした歯ごたえのある厚みになった。アッサムは朝から重たくなると思ったが、ダージリンは、月曜日は戦車訓練が朝からあるのだから、と、律儀に食べていたと記憶している。

「厚みじゃなくて、内容変更を提案すればよかったわね」
「家政科に口を挟むと、試食地獄です」
「あぁ……そうね」

 隊長が食堂のメニューに口を出そうものなら、家政科の生徒たちが、毎日ダージリンとアッサムを追いかけまわし、試食、試食、試食と口にいろんなものが放り込まれる。何度も痛い目に遭い、2人で学んだのだ。自分たちからは何も言うまい、と。

「スープが美味しいわ」
「そうですね」

 ダージリンはゆっくりとスープを飲み干し、切り分けたベーコンを一口食べて、ちぎったパンを口にした。文句を言いながらも、出されたものはきちんと食べる。食が細く、規定よりも少なく盛りつけてもらっているアッサムとは違う。

「…………ダージリン?」
「なぁに?」
「まさか、薄いベーコンに戻そうなんて考えています?」
「さぁ、どうかしら?」
 小さく口角をあげてみせる、その仕草は意地悪っぽく冗談を含んでいる。アッサムは同じように口角をあげてみせた。彼女の瞳は、アッサムをまともに捉えているようではない。


訓練が始まると、ダージリンはいつも通り、的確に、落ち着いて、乱れのない指示を出しながら、隊列を双眼鏡で確かめていた。背中に感じる気配。いつも通り、と思い込ませてみる。

「マチルダⅡ、4号車。遅れているわ」
『申し訳ございません!』
「そんなに膨らんで曲がるのはダメよ。周りを見てごらんなさい」
『はい!』

 砂利を踏む履帯の音の狭間に感じる呼吸。背中で毎日感じている、ダージリンの声。
 いつもと変わらない……と思ってあげなければいけない。


「マチルダⅡ、蛇行したのは何号車かしら?」
『申し訳ございません!』
『申し訳ございません!』
「謝らなくてもいいわ。他の車両の足を止める方が問題なのよ」


 アッサムは砲塔をゆっくりと回し、射的看板に向けて砲の角度を合わせた。

「ダージリン、砲撃します」
「どうぞ」

 いつもは、ダージリンからの指示を受けて砲塔を回す。一向に来なかったので、待ちきれなかった。今日はずっと、彼女は座って紅茶を飲みはしないだろう。何となくそう感じるのは、なぜだろう。
冷たい空気が遠慮なく頭上から吹き、その痛いほどの風にさらされている。彼女の結った髪に触れたら、どれ程冷たいだろうか。ちらり、と振り返った。砲撃音と共に揺れる車体に合わせて動く背中。

「…………ダージリン、寒くないですか?」
「平気よ」

 わずかに視線がアッサムを捉え、小さく上がる口角。
 アッサムは同じようになど、しなかった。

 正午。ランチのために食堂に向かい、各々が好きなメニューを選ぶ。ダージリンはスープとサラダを選び、それだけをテーブルに並べた。アッサムも同じものだけを選び、隣に並んだ。
「やっぱり、まだ寒いですね」
「そうね」
「先ほど、ずっと顔を外に出していましたけど?」
「顔面が凍ったわ。スープで温まりたいものね」
「えぇ。そうですね」

 スープの器で両手を温めながら、そっとため息を吐く。
 その刹那に漏らす違和感。
 アッサムは確認をした後、同じ仕草をして見せた。

「アッサム様、ダージリン様。ごきげんよう」
「あら、ごきげんよう」
 スープを口に運ぶ間、ファンの子たちが声を掛けてきたり、遠巻きに眺めてきたり。ここでしか会えないというチャンスを逃すまいと、普段は交流のない他学部たちの子が、わざわざ幹部席の近くを通って移動したがるのだ。背筋を伸ばしたまま、不快な顔など1ミリも見せずに、口角をあげて応える。その仕草をアッサムも真似た。

「ダージリン様、アッサム様、ごきげんよう」
「グリーン。ごきげんよう」
「よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
 アッサムの隣に腰を下ろしたグリーンの手元には、ローストビーフサンドとコーヒー。カリカリに焼いているトーストがおいしそうだ。
「お2人とも、控えめなランチですね」
「厚切りベーコンに胃もたれなのよ」
 ダージリンは朝、細かく切りながらも何でもないと言った様子で食べたベーコンに、責任を押し付けるように言った。アッサムは元から、普通の半分のサイズだったけれど、取りあえずグリーンに笑ってみせるだけ。
「あぁ。生徒の大多数には今のところ好評なんですよ」
「そのようね。若いっていいわね」
 自分だけ年齢が違うわけでもないのに。グリーンと顔を合わせて、相変わらずの人だからと肩をすくめた。


 アッサムが同じ内容のランチを取る。ダージリンはきっと、それがどういうことなのかと言うことをわかっているはずだ。

 わかっているけれど、お互いに言わない。


 本当のところ、そう言う関係を望んでいるのかなんてわからない。


ラブレター?!怪事件 END

「ごめんなさい、ルクリリ。私がちゃんと説明をして、渡してあげたらよかったわね」

 ルクリリたちが随分ダージリン様たちにいじられながら、ランチを取っているのを遠くで眺めていた。アッサム様もダージリン様も揃って、ルクリリの器が小さいことや、仲間が嫌がらせをしているなどと考える浅はかさを嘆いておられて、バニラは心がチクチク痛かった。たぶん、ルクリリの反応を楽しまれているだけなのだろう。それでも、バニラが一番悪いのだ。クラスメイトを不審に思ったルクリリは、別に、何も悪くない。


「本当に、まったくだよ。誰もバニラが私を好きだなんて欠片も思わないのだから、ファンレターを預かったって、堂々と言えばよかったのに」
「……そうね。本当にごめんなさい」

 噂はあっという間に学校内に広まっていて、ランチの時もみんな、ルクリリを見て笑っていた。良くも悪くもそれは、本当に愛されキャラと言うことなのだけれど、それでも、ダージリン様と並ぶと、どうにもこうにも風格が違うものだから。もしかしたら、ルクリリはそこを気にしているのかも知れない。ルクリリにはルクリリの良さがあるけれど、やっぱりダージリン様とは全然タイプが違うのだ。学校全体がダージリン様のファンみたいな空気だから、その後を受け継ぐには、それなりの重圧もあるだろう。自信があるのかないのか、ルクリリは必死になっている。それでも、やっぱり、ルクリリは代わりじゃないのだ。比較されることは辛いに違いないだろう。疑心暗鬼にさせたのならば、彼女を支えてあげられていないと言う証拠だ。バニラたちが悪い。
 

 友達は、ルクリリがルクリリらしくいたから、ファンレターを渡そうとしたのだと信じている。内容を見ていないからわからないけれど、黒森峰の試合でバニラを助けている姿は、本当にカッコよかったと、目をキラキラさせていた。

 だから、聖グロの隊長なら誰でも憧れているなんて、そこまでミーハーじゃないと思う。

 たぶん、だけど。



「もういいって。差出人の名前もないし、正直、返事もなんて書いたらいいのかわからないし。受け取ったと言うことだけは、書いた本人に伝えておいて。ありがとうって」
「………わかったわ。伝えておく」


 散々、いじられたルクリリは肩が凝ったアピールをしてグルグルと左肩を回しながら、3年生から逃げるように、一足早く食堂から出て行く。バニラはそれを見送って、疑われたペコにも謝ることにした。


「ペコ」
「………バニラ、ごめんなさい。疑ってしまって」
 食器を片付けて、キャンディ様たちと言葉を交わしていたペコを見つけると、視線が重なって駆け寄ってきたペコは、頭を90度下げてくる。
「何?何のこと?」
「私、バニラが気まずい顔をしていたから、てっきりバニラがその、ルクリリに手紙を書いたものだと思ってしまって、それでその、私だと想われたくもないけれど、犯人をさらしだすのも悪い気がして、でもその……。勝手にラブレターみたいな内容を書いたのだと思ってしまっていて。あの時、素直にバニラに聞いていれば、バニラも気まずい思いをせずに済んだのに………」


 ダージリン様たちがからかっているミーティングの最中、ずっと、チラチラと視線が合っていたのは、そう言う理由だったらしい。最初に気まずい顔を見せたのは、確かにバニラだけど、それでちょっと間違えた方向に理解を示したペコは、無実の証明の上に、バニラが“ラブレター”を書いたと思い込んでいて、色々と気を使ってしまったようだ。

「あの、流石に私がルクリリにラブレターを書くなんて、ありえないと思うわよ?」

 逆立ちしても、脅されても、残念ながら恋愛感情を持ちえない。ルクリリはバニラにとって、隊長というよりも、戦友だ。もちろん、これから隊を率いる立場に立って尊敬しているが、恋などない。

「ですよね……。いえ、ちょっと気まずい顔をしているし、ルクリリは正義感が強いから、絶対にラブレターだとは言わずにファンレターと押し切るかもしれない、みたいなことも思ってしまって」

 何はともあれ、ダージリン様とアッサム様がちゃんと、他校の生徒に間違いないと言ってくださっているし、バニラもプラウダ高校の生徒から預かったものだと、みんなに説明をして、全員がそれを信じてくれたのだ。ペコが気に病むことはない。クランベリーは、プラウダの友達のことを、名前を書き忘れるなんて、彼女らしいと笑っていた。


「ペコって、優しいわね」
「はい?」
「ううん。こっちこそ、騒ぎの発端は、私と私の友達だから」
「その、バニラのお友達は、本当にファンレターを書いたんですか?あのルクリリのことを、本気でカッコいいとか思っているのなら、バニラから目を覚ますように言っておいた方がいいと思いますけれど」


 本気の目で見上げてくるペコは、握りこぶしを両の手で作っている。バニラの友達を真剣に心配しているのか、それとも……何か別の理由でもあるのだろうか。


 まさか、嫉妬とか?
 そんな、まさか。


「私たちはきっと、とても身近過ぎて、ルクリリの良さに気が付いていないだけかもしれないわよ?」
「………見えない部分が大きいって、怖いですよね。ある意味、羨ましいような」



 嫉妬なの?なんて聞いたら、どんな顔をするのだろう。顔を真っ赤にしたら、それはルクリリのことを好きと言うことになるのだろうか、でも本気で怒っても顔を赤くするだろうし。


 ペコはダージリン様から、メンドクサイという称号を、まさか受け継いでいたりなんてこと。


「………まさかね」
「どうしました?バニラ」
「ううん、何でもない」


 何だかメンドクサイ気がして。
 もう何も考えない方がいい。

 豪快シスターズにもバニラにも、1年生たちには色恋なんて、全然似合わないのだから。



「読み返しているんですか?」
「うん。なんて言うか、テンプレート的なファンレターだけど、カッコよかったって書いてある。無様に負けた練習試合なのにね」
「そうですか」
 ローズヒップがお風呂に入っている間、先にお風呂に入って髪を乾かし終わったルクリリが、ベッドに寝そべりながらファンレターを広げているものだから、ペコはそのベッドに座って、それほど嬉しくなさそうな顔を不思議に思って眺めていた。
「カッコよかったって言われてもな」
「嬉しくないんですか?」
「………カッコ悪いことじゃん?状況が判断できずに自分で白旗をあげて試合を放棄するのは、憧れを集める行動だと思わない」
 同じチャーチルの中にいたペコは、ルクリリらしい判断で、誰にでも出来るものではないと素直に尊敬したが、隊員に向かって頭を下げていたルクリリは、そのことでカッコいいと想われたいわけではないだろう。少なくとも、カッコいいと想われたくて取った行動ではないのだから。
「書いている人は第3者の立場ですから、そこまで考えなくてもいいと思いますよ」
「………どうせなら、勝った試合を観てファンレターを書いて欲しいな」
「今のところ、負けだらけですね」
 とはいっても、ダージリン様は強い相手を選んでルクリリに勉強させているのだ。そのがむしゃらになっている姿もきっと、ファンを作ったに違いない。

「あ~ぁ。何だかな。嬉しいような、嬉しくないような。別にファンが欲しいわけじゃないしな。ダージリン様はこういうのをもらって、どうされていたんだろう?」

 ダージリン様宛に届く手紙の類は、危険物が入っていないかのチェックを受けた後、いつも隊長室に届けられていた。ペコの記憶では、ダージリン様が知り合い以外の手紙を開けたことはないはずだ。捨てたかどうかもわからない。読まずに、どこかに置いたままと言う可能性は高いだろう。

「最初で最後の1枚になるかもしれませんよ?」
「うわ~。夏の大会にすら出ていないのに?」
「がっかりしました、なんて言う抗議の手紙が届くかも」
「やめてよ、隊長をやめたくなるじゃん」

 隊長と副隊長は立場が違う。背負うもの、見える世界、何もかもが違う。アッサム様がおっしゃっていた。ペコとローズヒップができることは、隊長を守り、隊長を支え、隊長を尊敬し続けることだと。目に見える重圧よりももっと、見えないものを背負うその姿から、決して目をそらしてはならない、と。

「大丈夫ですよ、ルクリリ。私たちがいるじゃないですか」
 寝そべっているその隣に、ペコも寝転がってみた。知らない誰かがルクリリのファンでいてくれるのなら、せめて、他の学校からはカッコいいルクリリとして見えるように、ちゃんとペコたちが支えてあげないといけない。
「………そうだね。別に他校のファンとかいらないかな。まずは聖グロの生徒に、私がちゃんと隊長何だって言うことを認めてもらう所から始めないとね」
「嫌でも、そうなりますって」
「まったく、卒業間近だと言うのに、ダージリン様はあれだもんな」
「あんな風には無理だと思いますよ。入学した日から有名人だったそうですし」


「あ~~!!!なんだかな~~~!!!!!」


 ルクリリは隊長だ。でも、ルクリリを隊長として支えている土台が脆いから、ルクリリがこんな風に思ってしまうのだ。比較相手がダージリン様なのは、どうしようもないけれど、でも、アッサム様のように、隊長の傍で隊長を信じて、隊長を支え続ける存在になれているかどうか。きっと、ペコとローズヒップは全然足りていない。アッサム様のような、周りの人をうまくコントロールして、隊長が気持ち良く使命を果たせる環境を整えられていない。


「私とローズヒップがもっとしっかりしたら、きっとルクリリも隊長らしくなれますよ」
「…………そうだといいね。期待してる」
「はい」


 ファンレターを電気スタンドのすぐ傍に置いたルクリリは、腕をあげて大きく伸びをした。


「あ~ぁ………ラブレター来ないかな~~!!!」



「無理だと思いますよ」



 来たら来たで、今回以上の騒動になるような気がする。

 果たして、聖グロの戦車道隊長として、そう言う手紙の類は来ない方がいいのか、大量に来た方がいいのか、さっぱりわからない。ニヤニヤしながら、隊長室の椅子でふんぞり返ってラブレターの束を積んでいるなんて。

「何だよ、ちくしょ~!」
「下品な言葉、使わないでください」


 …………そんなルクリリは、やっぱり想像できないのだった。
 


ラブレター?!怪事件 ③

「な、何で笑うんですか、ダージリン様!」
「いえ、別に笑ってないわよ。どちらの練習試合もカッコよかったわよ、ルクリリ」
「馬鹿にして笑ってるじゃないですか!」
「そんなことないわよ、ねぇ、アッサム?」
 共犯者を増やしたいと思っているのだろうか。アッサムには微笑ましいくらいの感情しかなかったのに、そんな馬鹿にしたような笑いはちょっとかわいそうな気もする。これだから、ダージリンは。
「………ルクリリをカッコいいなんて言うのなら、そもそもうちの生徒からの手紙かどうか、検討した方がよろしいんじゃ」
「アッサム様まで!」
「酷いことを言うわね、アッサム」
「笑う方がよっぽどですけれど、ダージリン」
 シナモンにまぁまぁと止められて、アッサムはムキになる前にため息で言い合いをしそうになるのを止めた。

「と言うことで、どこのどなたなのかと言うことはさておき、応援をしてもらっているのなら、それは素直に受け取ればよろしいんじゃないかしら?」
「でも、ダージリン様みたいに、馬鹿にする意図があるかもしれませんし」

 拗ねた感じにルクリリは腕を組んで見せるけれど、ダージリンのこれは、馬鹿にしているというよりも、“溺愛している”の方が正しい。伝わりにくいのが残念なところ。

「あら、私がルクリリを馬鹿にするために、わざわざ応援していると言う手紙を書いて、下足箱の中に入れた、とでも?」
「げっ?!ダージリン様、マジですの?!!!」
 ローズヒップの驚きの声と、ややこしくなるから黙って欲しいと言わんばかりの、2年生たちのため息に上下する肩。アッサムはローズヒップに向けて、人差し指を唇に当ててアピールして見せた。


 黙りなさい、と。


「ダージリン様が、そんなまどろっこしいことするわけないじゃない」
「そうよ、第一、ダージリン様がわざわざルクリリの下足箱に手紙を入れると思う?場所だってご存じないはずだわ」
「本当は、ルクリリの自作自演じゃないの?」
 1年生たちは手も上げずに、次々に発言し出した。隊長といえどもクラスメイト。彼女たちとルクリリの関係は、ダージリンと3年生のクラスメイトとはずいぶん違うようだ。どっちがいいのか悪いのか。決して3年生の仲は不仲ではない。良くも悪くも、ダージリンは最初からリーダー気質だったし、クラスは全て、ダージリンのことを尊敬していた。戦車道に限って、だけど。
ともあれ、ルクリリの自作自演はあり得ないだろうと信じたいが、アッサムには1年生の教室内での様子はわからない。先輩に見せる態度と、クラスメイトとでは、彼女だって当然違うだろうから、クラスメイトの前でファンレターの存在をアピールして、虚勢を張りたい事情があるなんていう可能性も、ゼロではない。

 ………まぁ、ゼロでしょう。

 アッサムの知っている限り、あの子はつまらない見栄やプライドと言うものがない。そこが良いところだ。ダージリンが溺愛しているのは、そのあたりなのだから。


「そんな自作自演をしたものを、ダージリン様たちの前で見せるわけがないだろ~!」
 顔を赤くして拳を作っても、誰も本気じゃないのだ。もう、これはただの遊び。ややこしくして楽しもうとしている、ダージリンの思うつぼだ。
「そもそも、下足箱に入れると言うことは、戦車道の1年生の誰かって言うのは間違いないんじゃないの?」
 発言したかった様子のグリーンが、ルクリリ“隊長”に向けて手をあげた。
「あら、グリーン。そんなの情報処理部にかかれば一発だわ。その理屈で言えば、ルクリリの出席番号を知りえる人間が全員対象になるわ。戦車道の全学年、情報処理部、ルクリリと交流の深い整備科だって」
「アッサム様は今更、2、3年生まで可能性を広げるおつもりで?」
「…………まぁ、それはないわね」


 本音を言えば、内容を深く知りたいところ。ルクリリの言う応援していると言ったことだけなのか、それとも、ルクリリが隠しているだけで、本当はラブレターの類なのか。


「あっ!あの!下足箱に書かれてある番号と、私たち戦車道1年生の出席番号って、グチャグチャじゃなかったですか?」
 ニルギリが重要なことを思い出したようだ。1年生たちは、確かにそうだった、とざわざわし始める。


「どういうことなの、ニルギリ?」

 面白くなってきたと言いたげに、キラキラになる瞳。ダージリンは立ちあがって、ついにミーティングルームのホワイトボード前に向かって歩いて行ってしまった。もう、とっくに引退して、隊員の前に立つ役目を終えたと言うのに。なんら試合の反省会と関係のないこんな時まで。いえ、だからこそなのだけど。

「あ、……えっと、ローズヒップが下足箱を2つ分占領しているのと、あと背の低いメンバーで上の方だった人が何人か、場所を変えてもらったり、何だかんだと結構、バラバラなんです。たぶん、ルクリリは出席番号とは違う番号を使っています」
「それは本当なの、ルクリリ?」

 だとしたらもう、それを知っていたうえでルクリリの下足箱に入れたのなら、戦車道1年生の中に“犯人”がいると確定されたようなもの。ペコと、犯人を捜したがるローズヒップ以外。この、どうでもいいようなよくないようなやり取りは、何だったのだろう。

「ほ、本当です。私はえっと、全然違う所を使っています」
「それを知っている人物は?」
「うちのクラスだけ、のはず」
「情報処理部は知っていて?」
 アッサムの隣で、グリーンは腕でバツを作ってダージリンにアピールしている。そんな内部事情をわざわざ調べるほど、情報処理部は暇じゃない。


「………と言うことは、やっぱりこれはその、私って実は嫌われているとかですか?」

 応援していると書かれてあったのに、何を今更ルクリリは落ち込んでいるのだろう。1年生はみんな、微笑ましいくらい凄く仲がいい。ダージリンだって、違う学部の同学年の人からファンレターをもらったこともあるのだから、そう言う類と思えばいいのに。

「あら、嫌われているわけじゃないでしょう?応援されているのでしょう?」
 ダージリンはルクリリの手元の手紙を勝手に奪い、その封筒をマジマジと見つめた。立ち上がってルクリリの隣に行ったのは、現物確認のためなのかもしれない。
「でも、うちのクラスの子は、私のことをルクリリ隊長なんて呼びませんし。こういうのを出して私が浮かれている姿を見て、笑いたい、……とか」
「さぁ、どうかしらね?本気でそう思っているのなら、あなたは人を見る目がないわね。クラスメイトに対して、そう言う疑心暗鬼を抱くなど、隊長の器じゃないわ」
 ルクリリの手元に返した封筒。ダージリンは日ごろ、隊員の日報を読んでいたから、文字を見て誰なのかを調べようとしたのだろうか。

 否、そもそも、1年生だと本当に思っておられるのかどうか。


「…………素直に文面通り、応援されているのだと思ってもいいのですか?」
「さぁ?自分で決めたらいいことよ。私なら、”他校の生徒からもらったファンレター“を、こんな風に晒しだす真似はしないけれど」


 最初からそう思っていたのなら、アッサムがうちの生徒かどうかを検討するべきと言ったときに、どうして賛同してくれなかったのだろう。

 楽しみたいから、でしょうけど。

「えっと、つまりは1年生の誰かが、他校の生徒にファンレターを渡すことをお願いされて、手渡しせずに下足箱に入れた、と言うことなの?」

 シナモンはグリーンに確認を取るように聞いて、グリーンは面白くないけれど、それで合っていると答えた。彼女たちは、どういう結末であれば面白いと思ったのだろう。

 たぶん、アッサムが考えている通り、誰かがラブレターを書いたと言うことであれば、面白かったのだろう。

「と言うことで、他校からファンレターをもらうほど、カッコいいルクリリ隊長。ズタボロに負けたプラウダとの練習試合の反省会を、そろそろ始めたらどうかしら?」
「…………他校の子からだって、ダージリン様は初めからわかっていたんじゃ?」
「当たり前でしょう?この私がまだ在校生としてここにいるのに、ルクリリを隊長と呼ぶ生徒がいると思っているのかしら?明らかに他校の生徒でしょう。騒ぎ立てるほどのことでもなく、すぐにわかることだわ」

 随分と偉そうに胸を張って、イラっとした表情のルクリリの頭を撫でるその手。無実をアピールしていたペコの肩を叩いて、コントは終わったと言うように、ダージリンは檀上を降りた。



「バニラ。お知り合いには、ちゃんと名前を書かないと、ルクリリからの返事はもらえないと伝えておきなさい」
「…………ご迷惑をおかけしました、ダージリン様」
「あら、とても楽しかったわ」

 どうして、バニラが置いたところまで見抜いてしまったのだろうか。アッサムは全員の背中しか見えていないから、表情まではわからない。壇上に立った時に、明らかに様子が違うということが見て取れたと言うのだろうか。だとしたら、どうしてルクリリには、それがわからなかったのだろう。

「え、バニラが置いたの?!」

 驚いているあたり、表情ではわからなかったようだ。見ていなかっただけかもしれないけれど。

「……………その、中の手紙に名前を書いたって言ってたから。それに、手渡しをして、他の人が誤解をして、変なことになったら嫌だなって思って……騒ぎになるなんて思わなかったの」

 ルクリリは、まだまだ洞察力がない。ダージリンが数分前に立っただけで見抜いたと言うのに。最初から、態度で見抜こうと言うつもりがなかったのだろう。アッサムの隣に戻ってきたダージリンは、してやったりと言わんばかりにアッサムを見つめてくる。



 顔が“褒めて”と言っていた。




「バニラは、相当気まずい顔だったのですか?」
「ここから見ていて、色々と様子がおかしかったのよ」
「バニラの背中が?」
「ペコよ」
「……ペコ?なぜですの?」
「あら、それは私がペコをいつでも良く見ていたと言う、愛のなせる技と言うことね」

 ヤキモチを焼かせたいと思って、そう言う言葉を使っているのが見え見えで、相手をしたくない。ペコに聞けばいいだけのことだ。と言うか、結局、ただのファンレターで、ルクリリが好きだとかのラブレターの類でもないのなら、どうってことのない話だ。

「あぁ、そうですか」
「あら、それだけ?」
「えぇ。ルクリリも成長しましたね。この時期にファンレターとは」
「ラブレターじゃなくてホッとしたのでしょう、アッサムは」
「……さぁ、どうでしょうか?好きだなんて書かれていたら、ちょっと嫉妬したかも知れませんね」
「まったく、放っておけばいいものを」


 積極的に介入したご自分を棚に上げて、そう言うセリフを言うのだから。
 嫌と言うほどわかっているけれど、ダージリンは本当に変な人だ。

「ヤキモチを焼かせようとしたくせに、ヤキモチを焼くって。……メンドクサイ人ですね、ダージリン様って」
 グリーンは呟きながら、微妙な空気のミーティングルームを眺めて、カメラのシャッターを押した。

 書いた本人が名前を書かなかったと言うことも、かなりのミスだけど、そもそもそう言う手紙を受け取って、大げさに反応をしたであろうルクリリが、一番悪い。バニラが知り合いから頼まれたからと、手渡しをしたところで、やっぱり騒いだのは間違いないだろう。ルクリリの落ち着きのなさが、大したことじゃないことを事件にしたのだ。

 やっぱりまだ、隊長としての器が足りない。色々と。そして、隊長を支えるべき副隊長と、サポートしていかなければならない、1年生のクラス全員も。


ラブレター?!怪事件 ②

「まさか、新手の嫌がらせか?!いや、でも、手紙の中では凄く応援されてる」
「思ってもないことを書いて、調子に乗る姿をあざ笑っているんですわ」
「んなわけないだろ?!うちのクラスにそんな性格の曲がった人はいない」
「では、何ですの?」
「………だから、その、応援してますって書いてあるんだし。でも、名前もないし。うーん、何か…裏があるのか……」
「ほら、やっぱりですわ~」

 流石にルクリリはローズヒップやペコに手紙を見せたりしなかった。そのあたりに配慮ができる人であって良かった。いや、この状況は良くないけれど。
 バニラは生唾を飲み込んで、取りあえず素直にファンレターとして受け取ってもらって終わりにしてくれないかしらと強く願いながら、もう一度、ペコを見つめてみる。

「差出人の名前がないって言うことは、書けない事情があると思いますよ」
「どういう事情で?」
「………恥ずかしい、とか?」 
 
 ペコは一度バニラと視線を合わせて、それからルクリリを見上げた。眉をひそめながら、それでも遠まわしにたしなめているようだけど、それを何か別の意味として理解したような頷き。


「ペコ。……まさか、ペコが書いたの?」

ルクリリが真剣な顔でペコの肩に両手を置いた。

「ルクリリ、大真面目に聞いているんですか?」
「………騒ぎ立てて悪かった。ごめんね、うん、気持ちは受け取ったよ。ありがとう。これからも応援してちょうだいね。あ、サイン、欲しい?」

 ルクリリはちゃんと大真面目なのだろうか。それともボケているつもりなのだろうか。
 いずれにしても、ペコの背後からダージリン様譲りの、青い炎が燃え始めているのだ。すぐに火消し作業をした方がいい。


「さすがの私も、堪忍袋の緒が切れますよ?」
「やっぱり隊長のファンは身近な存在なんだよな。水臭いなぁ、ペコったら」
 パンパンと小柄なペコの肩を叩く新隊長は、きっとたぶん、ちょっと本気。
「え~、ペコはそこまで馬鹿ではないですわ」
「そうよ、ペコがわざわざ時間をかけて、手紙をルクリリに書くなんてことをするはずないわよ」
 ローズヒップとクランベリーは全否定だ。毎日飽きるほどすぐ傍で過ごしていて、同じ寮の部屋。休日も何かと一緒なのだ。今更ペコがファンレターを書くメリットなんてないことは、誰もがわかっている。

「いやいや、だってほら、こう、普段は言えない想いのたけをそっと忍ばせた、みたいな?」
 
 芝居臭い言い回しのルクリリ。
 小柄な装填手の拳が、鳩尾に射程距離30センチで発射された。

「ぐふっ!……て、照れないでいいよ、ペコ」
「調子に乗ってないで、差出人がわからないのなら、もう騒がないでください。私ではありません。それは確かです。命かけても、絶対に違いますからね!」
 いつになく声を荒げて全否定するペコの本気は、痛いくらいクラスの皆に伝わっているし、なんだったら最初からルクリリ以外はそんなこと、信じてもいないのだ。ルクリリだってたぶん、半分以上はノリでやっている。……たぶん。

 誰が書いたかなんて、わからないものは、わからない。
 でも、どこかの誰かが、ルクリリを応援している。


 もうそれでおしまいにしてくれたらいいのに。



「でも、結局はどこのどなたからのラブレターなのか、わかりませんですわ」
 予鈴が鳴り響く教室、みんな、戦車道作戦ノートを手にミーティングルームへの移動準備を始める。椅子を引いたり押したりする音にまみれ、ローズヒップは唇を尖らせたまま。
「………どこの誰かと言う特定は無理ですけれど、私じゃないという証明を、今からやりましょうよ」
 どこの誰というのを、棚上げした方がいいと言う態度だったペコは、絶対どんなことがあっても自分ではない証明をしなければ気が済まないのだろうか。

 ………まさか、ペコはルクリリのことを好きだったりして。

 なんて言うことはない。

「うーん。純粋に応援していると言う言葉だけを受け取るのなら、ラブレターっていうか、ファンレターだったんだけど。何か裏がある可能性が捨てきれないし」
「誰かに何かの恨みを買った覚えがあるの?ルクリリ」
 クランベリーは心配の意味も含めて聞いているのだろう。そんな、みんなが眉をひそめるようなものじゃない。本当に、ただのファンレターなのだ。

 すべては名前を書かなかった友達のせい。
 あと、今更言えないバニラのせいでもあるけれど。

「モテるって罪だよね」

 たぶん、ルクリリの性格が事態を余計にややこしくしているのだと思う。


「あれ?どうしてここに?」

 ミーティングルームでお茶をして1年生たちを待っていると、キョトンとした顔でルクリリが入り口で足を止めた。


「暇だからよ」
「暇すぎて、1,2年生たちの反省会を見物しに来たのよ」
「私は、2人に捕まったの」
「同じく」


 3月に入ってからと言うもの、授業もすべて終えてしまったアッサムたちは暇を持て余している。卒業式だけを待つ身分の3年生たちは、学生艦の中をみんな、自由に遊び回っていた。戦車道の合同訓練でプラウダに向かったときは、学校に積もった雪で、3年生たちは学部をまたいで、雪だるまを作ったり、雪合戦をして遊んだり、毎日ずっと食堂に籠って大人数でお茶会を開いたり、平日の昼間からスパに行ったりと。名残惜しい学生生活の最後、学生艦の端から端まで、グリーンと共にカメラを手に歩き回ったりもした。ダージリンは、普段交流が少なかった学部の子たちに引っ張りだこ。いろんな人の携帯のカメラに収められたようだ。

 つまり、暇だからと言うよりも、プラウダとの合同訓練が終わった1,2年生たちを冷やかすついでに、ちょっと遊び疲れた身体を癒しに来たのだ。

「……あぁ、そうですか」
「あら、嬉しいでしょう?ルクリリ」
 ダージリンは温かいアッサムティーを飲み、にっこりと微笑んだ。グリーンはずっとカメラのシャッターを切れる体制のまま。シナモンはただ、笑顔を作っているだけ。
「いえ、まぁ、はい。そうですね」
「私たちのことは無視して、ミーティングしてちょうだい。何も言わないわよ」

 ダージリンの言葉に、無視できるほどの影の薄さでもないでしょうに、とアッサムは心の中で思ったが、言葉にはせずに彼女たちのために開けている席に座るように促した。3年生は4人とも、一番後ろを陣取って紅茶の匂いを漂わせたまま。とてもやり辛い感じのルクリリの表情。これは、戦車道3年生の伝統だ。去年も、その前の年も3年生は3月の暇な時に、ミーティングルームの後ろに座り、お茶をしていた。バニラお姉さまたちはトランプやチェスを楽しまれていることもあって、苛立ったダージリンがバニラお姉さまのチェスの駒を勝手に動かしたせいで、ミーティングの途中から言い合いになったこともある。



「では、今日のミーティングはまず、ルクリリに果し合いの手紙を送ったのは誰かを探し出すことから始めますわ!」

 1年生たちが前方を埋め尽くすと、前に立ったローズヒップが宣言した。

「待て、ローズヒップ。今はマズいよ。後ろにダージリン様たちがいるんだから」
「そうですよ。先に反省会を終わらせて、それは別の日に改めましょう」
「でも、何か裏があっての果し状なら、命が狙われているかもしれないですわ」


 また、何かつまらない騒動を起こしたのだろうか。眉をひそめてグリーンと目を合わせても、肩をすくめた様子が返ってくるだけだ。

「リゼ、あれは何事なの?」
 アッサムの前に座っている2年生の肩を叩き、ヒソヒソと確認を取ってみても、眉に寄せた皺が申し訳ないと言わんばかりに刻まれている。どうやら、2年生は全員、ちんぷんかんぷんな様子。
「ローズヒップたち、何の話をしているの?きちんと全員に説明をしなさい」
 キャンディが声を張り上げた。頼もしくなったものだ。ダージリンはアッサムの髪を引っ張って、それから面白いコントが始まる前のワクワクした笑顔を見せ付けてきた。きっと1年生たちが、何か面白いネタを披露してくれると、そんな期待をしているのだろう。

「ルクリリの下足箱に、果し状が入っておりましたの!!」
「ローズヒップ、個人的な妄想を含めずに、事実だけを述べなさい」
 鼻息の荒いローズヒップとは対照に、冷静なキャンディの声が飛ぶ。あんな声を出せるとは。シナモンはその様子を嬉しそうに見つめて、巣立った雛を見守っている親鳥の気分を味わっているみたい。
「えっと、朝、ルクリリの下足箱に手紙が入っておりましたわ。差出人の名前はありませんでしたの」
「それで?」
「犯人がわかりませんの」
「犯人って?何か嫌がらせのようなことが書いてあったの?」

 キャンディの質問に、ローズヒップは隣のルクリリに聞けと言わんばかりにその袖を引っ張った。内容を読んだのは、差し出された本人だけのようだ。

「いえ、応援しています、みたいな感じでした」
「それが果し状なの?」
「いえまぁ、私はファンレターじゃないかなって思いますが。誰が書いたものなのかもわからないですし。クラスでは、裏を読んで嫌がらせじゃないか、みたいなことになって」

 真ん中に立っているルクリリの左にいるペコが、真っ直ぐに手をあげた。
「神様に誓って、私はそんな手紙を書いていません」
「………いえ、誰もそんなことは聞いてないわよ、ペコ」
 いつになく、睨み付けるような顔でキャンディを真っ直ぐ見つめるペコの表情。1年生のクラスで、“容疑者の1人”とされたらしい。


「ちょっと、よろしいかしら?」


 さっきから、笑うのを堪えていたであろう、ダージリンの震える肩。視界の中に入っていたから、嫌な予感はしていたけれど、我慢ならなくなったのだろう。小学生みたいに手をあげて、ルクリリにアピールし出してしまった。こうなるともう、止められないのだ。アッサムたちは今、黙って彼女たちの反省会を聞くだけじゃなかったのだろうか。ダージリンのことだから、何か余計な事をするだろうとは思っていたが、案の定。

 とはいっても、アッサムも止めようとは思わない。とりあえず“事件”を解決するには名探偵が必要なのだから。

「は、はい。ダージリン様」
「まず、その封筒。あなたへと言う宛先、どんな風に書いていたのかを知りたいわね」
「あ、は、はい!」

 ルクリリはノートに挟まれていた手紙を出して、それから声を出して読み上げた。

「聖グロリアーナ女学院 戦車道隊長 ルクリリ様、と書いてあります」
「そう。あら、あなたは戦車道の隊長だったの?」
「………今は取りあえずそんな感じですが」
「なぁに?違うと言うの?」
「いえ、隊長……です」


 教室の前と後ろ、それなりに離れているのに、威圧感は空間なんて無視して、ダイレクトにルクリリに押し付けられていく。
 アッサムは紅茶を飲み干して、やれやれとため息を吐いた。
 グリーンはシャッターを押すことに夢中だ。

「そう。そうね、あなたが隊長じゃなければ、この学校の戦車道は隊長が不在ですものね」
「はぁ……はい、その通りです」
「それで?あなたたちはその手紙の差出人を探すつもりなのかしら?それとも、それが果し状…いえ、嫌がらせの類であるかどうかを調べたいのかしら?」

 ルクリリは唇を尖らせながら、もう一度手紙を1人で読み返している。声に出さない気遣いをするあたり、本気で悪意があるとは思っていないのだろう。まさか、好きですとか、付き合って欲しい、だなんて書いてあるのだろうか。

「私じゃないことを証明してください、ダージリン様」
 また、ペコが手をあげて主張してきた。ペコがこんなにも自分の意見を、しかも、大したことでもないことをアピールしてくるのは珍しい。皆、ペコを“容疑者”ではなく“犯人”と思っているのだろうか。
「あら、ペコではないわね。同じ聖グロの中にいるのに、わざわざ学校名や、ルクリリを隊長と付けたりなんてしないでしょうし。どうしてもペコがルクリリに手紙を差し出すのなら、もっと賢い方法を取るでしょうね」
「ほら!ほら!ダージリン様だって私じゃないと言ってます!!」
 嬉しそうにルクリリに主張する必死さは、何もそこまで全否定しなくてもいいのに、と思いたくなるほど。クラスでからかわれたりしたのかもしれない。可愛そうに。
「………いや、ペコの字じゃないから、わかっていたけど」
「だったら、教室ではっきりとそう言えばいいじゃないですか!」
「いや、だって誰もそんなこと思ってないけれど、やたらムキになるんだもん。面白くて、つい」
 当然ながら、ローズヒップでもないだろう。かといって、悪戯と言うか、何かの悪意がありつつも、応援をしていると言う内容の手紙を書くと言う心理が理解できない。というか、そう捉える方に問題がある。ルクリリは、何かやましいことでもしているのだろうか。


「ルクリリ」
「は、はい、アッサム様」
「本当に、応援していると言った内容なのね?」
「はい、そうです」
「好意を寄せている、と言う様子は?」
「さ、さぁ……黒森峰やプラウダの練習試合を観ていた、と書いてありました。カッコよかったって」





「………ぷっ」






 ダージリンが口元を抑えながらも、笑いを漏らす声。
 一斉にみんなが振り返ってしまった。

 

ラブレター?!怪事件 ①

「そうね……渡すだけなら」
「本当?!ありがとう!」


『聖グロリアーナ女学院 戦車道隊長 ルクリリ様』


 受け取った封筒に書かれた文字。そして裏には差出人は書かれていない。


「名前、書かないの?」
「あっ……中に書いていたと思う」
「わかったわ。でも、返事なんて期待しないで。今、彼女も忙しい身分だから」
「読んでもらえたら、それだけでいい」
「………わかったわ」

 受け取った手紙が折れてしまわないように、手帳に挟んだバニラは、目の前の同級生に向かって笑って見せた。あのルクリリにも、ついに……っていうかなんというか。

 聖グロの戦車道隊長という肩書きは、それだけで人を惹きつけるらしい。いや、ルクリリは勇ましいと言うか、責任感も強いし、きっと目の前の同級生にとってカッコいい隊長以外の部分は見えないのだろう。負けた試合ではあったが、黒森峰との戦いでは自ら白旗をあげてでも、バニラたちを助けに来てくれた。そう言う熱い人柄は特に、人気を得やすいのだ。

 そう。
 そう言うことにしておこう。

まさか、始末書の枚数は歴代の隊長の中でぶっちぎりだとか、カップ破壊率の高さが尋常ではない、なんて言えるわけもないし。アッサム様に罰としてお尻を叩かれたことがあるとか、「私は罪を犯しました」って書いたプラカードを首からかけて、学校内を歩き回ったことがあるって、言っても信じてもらえないだろう。

 バニラはルクリリが受け取ったファンレターを、自慢げにいろんな人に見せびらかすんじゃないだろうかと不安を覚えながら、それでも憧れに頬を染める同級生に向かって笑っておいた。

「くっそ寒い。マジで寒い」
「……ルクリリ、その言葉遣いをそろそろ直した方がいいですよ。絶対外で使っちゃいますって」
 
3月だと言うのに、海の上にポツンと漂う学生艦の上はまだまだ、真冬とそう変わらない寒さだった。でも、それは仕方がない。プラウダとの雪上合同訓練のために北上していたのだ。かじかむと言うより痛いに近い。豪雪の中の練習試合ではボコボコにされたけれど、4試合のうち1勝だけは出来た。ダージリン様曰く、1勝ならば上出来だそう。負けることで学ぶことは、まだまだ多い。負けが許されている間に、ドンドン負けることも大事なのだ。


「大丈夫だって。ローズヒップじゃないんだから」
「私は下品な言葉を使いませんですわ~」
「………聖グロを背負っていると、もう少し自覚してくださいよ」
「してるしてる、バッチリ。そこはメリハリ付けているからね」

 ローズヒップと3人、マフラーをグルグルと唇近くまで巻き、校舎に向かっていた。船はすでに横浜へとゆっくり舵を切っているが、雪に濡れた地面は生徒の足跡を無数に残していて、それがまた、なおのこと寒さを煽っている。濡れた靴で校舎内の移動をすることは禁止されており、革靴を履き替えるか、雑巾で綺麗に拭いてしまうかのどちらかだ。多くの生徒は個人の下足箱に予備の靴を置きっぱなしにしている。体育の時のスニーカーを置くためのものだが、皆、大体は3種類くらい靴を置きっぱなし。


「何だ、これは?!!!」


 ペコは下から3段目の自分の下足箱を開け、履き替え用の革靴を取り出していた。隣のローズヒップもまた、同じように履き替えている。その向こうで、上品とは言い難い大声を出す人物。ペコの知っている限り、そう言う声はもう、ルクリリしか出せない。


「どうしたんですか、ルクリリ」

 鞄を小脇に抱えたルクリリは、手袋をしている手に真っ白な封筒を持って、天に掲げるようにしていた。

「は、果し状かな………」
「ルクリリ、今度はどこの誰と喧嘩したんですの?」
「してないってば。隊長になってからは、真面目一筋だって」

 黒森峰の練習試合前も、一応は身内同士の喧嘩だったし、他校との揉め事は起こしていない。とはいえ、どんな内容かはわからないけれど、ルクリリの下足箱の場所を知っているということは、とても身近な人物であることには違いないのだ。

 今度はどこの誰に恨みを買ったのだろうか。他学部だろうか。
 ダージリン様やアッサム様のファンから、何かのクレームがついた、とか。
 

「女の人の字だ」
「……ここ、女性以外は立ち入り禁止ですよ」
「うーん。何だろうなぁ」

 透かしてみても、何も見えるはずないのに。

「開けてみたらどうですの?」
「よし、教室に行ってから開けてみよう」


 ローズヒップも興味津々な様子だけれど、ふと思った。
 万が一、本当に1万分の1の確率でラブレターだった場合、それをクラスメイトがいるところで堂々と広げるなんて、いかがなものなのか、と。




「おはようございますですわ!!みなさん、大変ですわ!ルクリリに果し状が届きましたわ!!!」


 食堂で朝食を食べた時に挨拶を交わしたと言うのに、それでも必ず教室に入るときには大声で挨拶をしてまわるローズヒップの元気な声。いつも通りのトリオの登場。大体、ニュースがあるときのローズヒップの声は、何もない日のおよそ2倍。

「果し状?今度は何をしたのかしらね、ルクリリは」
「ついに整備科から、整備ボイコット宣言を受けたとか」
「まさか。だとしたらローズヒップの方に来るはずよ」
「それもそうね」

 ルフナとニルギリは、ヒソヒソとバニラのすぐ傍でそんなことを言っているが、“果し状”であるわけがないと言う、大事なところに突っ込みを入れないのはどうしてだろう。

 どうしてもなにも、ルクリリだからだ。

「果し状って何?」
 興味津々のクランベリーが近づいていく。ルクリリの前に席がある彼女は、バニラの元をすぐに離れて、席に着いた。ワクワクした表情でルクリリを見つめているけれど、騒いだのはローズヒップだ。
「いや、果し状かどうかなんてわからないんだけど」
「え?違うの?」
「ローズヒップが騒いだだけだ」
「ルクリリが自分で果し状って言ったんですわ」
 クランベリーの隣の席のローズヒップは、マフラーを外してクルクル丸めて鞄に押し込んでいる。後ろのコートかけに一緒に掛ければいいのに。ペコは何のコメントもせず、知らないフリの様子。気づいているのかも知れない。果し状じゃないって言うことを。

「まぁ、うちの生徒なんだろうな~。私のアッサム様に近づきすぎです!みたいなクレームの手紙とか、ダージリン様に触るんじゃない、とか」
「……今更?」
 ルクリリがコートとマフラーを脱ぐと、後ろにいたミサちゃんが勝手に受け取って、ついでにローズヒップのコートも合わせて、後ろのコートかけのハンガーに通してくれた。バニラはその見慣れた風景を眺めながら、頼むから今、その手紙を広げてあげないで欲しいと心の中で強く祈ってみる。プラウダに行った中学時代の友達から受け取ったファンレターが、クラスみんなの前にさらされるなんて、あまりにも可哀相だ。っていうか、クランベリーの友達でもあるのだから、彼女だって差出人の名前を見たら、びっくりするだろうに。


「ルクリリ、それで、果し状の中身はなんて書いてありますの?体育館裏に呼び出してすの?」
「どうだろうね」
 封筒の糊の付いていないところに小指を差し込んで、ゆっくりメリメリと音を鳴らし始めた。なんてデリカシーのない人なのだろうか。何だか教室も、固唾を飲み込んで見守っている空気。バニラは眉をひそめて、どんな言葉で止めればいいのかって目が左右に泳がせたけれど、余計なことを言うと、自分があの下足箱に入れたことがばれてしまうと思って何も言えなかった。別に、バニラが書いたわけではない。でも、早とちりしそうな人が何人かいるわけだし。


「えーっと、なになに~。親愛なる、聖グロリアーナ戦車道、隊長 ルクリリ様。私は、秋のプラウダとの練習試合のときから、ずっとあなたを見ていました………ん??」


「ん??ストーカーですの?」
「………え?まさか、それって、ラブレター?」

 ローズヒップの的外れな呟きと、クランベリーのちょっと行き過ぎた解釈。

「ルクリリ、何で声に出すんですか。って言うか、そう言うのは人がいるところで読むものじゃないと思いますけれど」

 冷静なペコのコメント。わかっているのなら、どうしてもっと早くに止めてあげないのだろう。


「………え~~!やばい、これってラブレターなの?!」

 無駄に声が大きなルクリリの、その一言。教室中に響きわたった。

 違う。
 ラブレターじゃない。

ただの、本当にただのファンレターだ。本人も確かにファンレターって言っていた。憧れているんだって。隊長になって活躍することを応援している気持ちだからって、だから、付き合ってくださいみたいなものじゃないんだって。


「マジですの?!一体どこのどなたからですの?!ちょっと、頭がおかしい人ですわ、その人!」
「なんだと?!聖グロの隊長なんだぞ!モテるのが普通だろ?!」
「………は~っ!ダージリン様の足元にも及ばない、優雅の欠片もないルクリリがですの?その差出人は、ルクリリとダージリン様を間違えているんじゃありませんの?!」

 優雅の欠片もないと言う点において、似たり寄ったりのローズヒップは、“おほほほ”とふんぞり返って笑いだした。何がどうおかしいのか。バニラはストッパーのペコをじっと見つめることしかできない。この馬鹿たちを止めてあげて欲しい。

 視線がバチッと合ったペコは、小さく頷いてくれた。よかった。伝わったようだ。


「2人とも、出した人が近くにいるかもしれないんですから、あんまりネタにしちゃだめですよ」
「…………え?なんで?近くにいるってどういうこと?」
「ルクリリの下足箱の場所を知っている人物でしょう?」


 何だか騒めき始める教室は、そんな変な人がこのクラスにいる訳がないのに、と言いたげだ。あと、きっとその差出人の精神を心配しているのだろう。
 その心配はなくとも、友達はちゃんと名前を手紙の中に書いているはず。当然、どこの学校かも書いているに違いない。あわよくば返事をもらえたら、みたいなことを想っているたずだ。どこの誰かを書かないと、意味がないのだ。バニラはざわめきの中、無関係を装うために無言を貫いたまま。

「…………差出人の名前がない」
 ルクリリは封筒を確認し、それから手紙をサラリと見てから呟いた。



 …
 ………
 …………
 あの子はなんで、確認しなかったんだろう。


「じ、事件ですわ!これは大事件ですわ!!」


 事件じゃなくて、うっかりミスなんだけど。


それを今、バニラが声を大にして言える空気じゃない。みんなの視線がルクリリとローズヒップに集まってしまっているのだ。

甘い誘い END

「いかがでした、3人のお守り」
「まぁまぁ、楽しかったと言うことにしておくわ」
「そうですか」

 学生艦に戻ると、すぐにアッサムの部屋に向かった。夕食へと連れ出して、ヴェニスの仮面が綺麗だったことや、ルクリリが選んだランチが想像よりも高かったこと、お腹いっぱい食べた後だと言うのに、ローズヒップが大きなパンケーキをぺろりと平らげたことを報告した。同じようにアッサムからの報告によると、ゆっくり買い物をして、ほとんどお茶をして1か所にとどまっていたそうだ。ちょっと、嘘くさい。

「そうだわ、手作りの石鹸を買ったのよ」
「石鹸、ですか?」
「えぇ。ペコが欲しいというので一緒にお店に入ったの」
 1つだけ鞄に入れて持ってきた、甘いはちみつの香りのする石鹸。キョトンとするアッサムの手の平に置いた。
「………甘そうですね」
「えぇ、とてもいいでしょう?」
「はい。あの、ありがとうございます」
 アッサムは少し困ったように笑う。はちみつが嫌いなんて聞いたことがないけれど、もしかしたら匂いのする石鹸は嫌いなのだろうか。
「嫌だった?」
「いえ、まさか」
「そう?」
「はい。今日、早速使ってみます」


 だったら、一緒にお風呂でも入る?

 と言う一言を飲み込んで、ダージリンは微笑み返した。こんなところで彼女を怒らせてしまうと、グラスの水が飛んでくる恐れもある。一応は喜んでもらえて、楽しそうなのだ。あまり刺激しない方がいい。決して下心があって買ったわけではないが、これで身体を洗ってね、と言うアピールのように思えてくるのは気のせいだろうか。

「………明日、アッサムはとても甘い香りに包まれているのね。とても楽しみだわ」
「そう…ですね。あの、でしたら、その、ダージリンも同じ香りに包まれてみますか?」
「えっ?」


 それはつまりは、一緒にお風呂に入って同じ石鹸を使って、2人で背中を流し合うと言うお誘いと解釈してもいい、ということかしら。


「いえ、あの、私もそのお店に行って来たんです。グリーン達が行きたいというものですから。それで、その、ダージリンにお土産を買ったのですが、今、手元にあるのは、同じはちみつのもので……」
 背中にあった鞄から、同じ石鹸の箱が出てくる。その手元とアッサムを何度も往復して、それから手を差し出した。
「アッサム、私をはちみつ漬けにして、どうしたいというのかしらね?」
「………それは、私のセリフです」
「よろしいわ、交換しましょう」
 他の香りにしなくていいのかと聞かれたが、アッサムと同じ香りがいいからなんて言わずに笑って受け取った。お互いに交換した甘い香り。

「………あの、ダージリン」
「なぁに?」
「い、一緒にお風呂でもどうですか?」
「あら、アッサムが誘ってくるとは思わなかったわ」

 想定外の申し出に、思わずのけ反りそうになったけれど、あんまり過剰な反応をすると怒らせてしまいそうだ。自分が面倒な性格であることはわかっているが、アッサムは残念ながら、自分はまとも、と思っている節がある。かといって、そこを指摘するとネチネチと攻撃を受けるのだ。理不尽だわ、と思うが、それでも仕方がないのだ。それはたぶん惚れた弱みというもの。

「折角ですし。本当に、洗っていい香りが残るかどうかを確かめてみましょう」
「そうね」
「あとで、部屋に伺いますわ」
「よろしいわ」

 バスルームの掃除は行き届いているはず。それなりにバスタブも広いし、ゆっくりとアッサムとお風呂に入るのは、何の問題もない。ダージリンは頭の中でほんの少しだけ想像しながら、ほんの少しだけ赤い頬のアッサムを見つめた。

 
 本当に可愛い。


「…………で、あなたはグリーンたちとお茶をしていただけなの?」
「えぇ」
「それくらいなら、私を排除せずにいてくれてもよかったのに。あの子たちを押し付けてでも、どうしてもグリーンたちとお茶をしたかったの?しかも横浜で」
「………えぇ、そうです」
 絶対にどこで何をしたのか、頑としてでも話したくない様子。唇を尖らせる仕草を見せつけてくるのは、グリーンたちへの聴取を恐れているからなのだろう。
「映画でも行ったの?」
「行っていません」
「何を観たの?」
「映画を観ておりません」
「………そう?」

 どんな映画を観たのかを、楽しく報告したくない程くだらない内容だったのかもしれない。そう言うことにしておくしかないのだ。拗ねられたらせっかくのバスタイムを逃してしまう。

「いいわ。ゆっくりお風呂に入って疲れを癒しましょうか」
「そうですね」


「では、またあとで行きます」
「えぇ」
 着替えを取りに部屋に戻ったアッサムが、ドアの向こうに姿を消し、ダージリンも部屋に戻った。慌ててバスルームに向かって、すべて問題がないかを見て回り、お湯の蛇口をひねる。熱めがいい。アッサムが来て、服を脱いだころにはちょうどいい温度まで下がっているだろう。音楽かなにかをかけた方がいいだろうか、いや、そんなものを流すものが部屋にはない。ウロウロ、オロオロ、あちこちチェックし終わり、指差し確認をしていく。付き合いだしてから、一緒にお風呂に入るのは初めてだ。今まで、スパには何度も一緒に行った。2人で行ったこともあったけれど、残念ながら複数の人がいる公共施設なんて何の経験値にもならないのだ。誘ってOKと言うことは、12月の卒業試合を待たなくても、キスをさせてもらえると言うことかしら。それとも、多少のスキンシップをしてもいいと言う意思表示なのかしら。

 でも、アッサムはまさか、頬をちょっと赤くしていたにもかかわらず、“ただ、石鹸の香りを楽しみたいだけ”なんて言ってのけたりなんてこと……

 流石に子供じゃないんだから。


「………ダメだわ、少し落ち着かないと」


 ソワソワしながら部屋の中をウロウロしていても、アッサムが来なければ仕方がないのだ。深呼吸をして、何事もない風にしておかなければ。





 絨毯敷きの廊下を複数の人が近づいてくる。

 ドタドタ。
 バタバタ。

 その、とても不快で鈍い音がアッサムの部屋の前で止まった。


 その音は、朝、聞いたものと同じ。
 何だか嫌な予感がしてならない。
 とんでもない邪魔が入りそうな、そんな予感がする。


『アッサム様~』
『アッサム様~~!一緒にスパに行きましょう~!!』
『いい匂いの石鹸をゲットしましたわ~!!』


 アッサムの部屋の扉をドンドンと叩く音と、相変わらず元気な声。


『あら、あなたたち』
『アッサム様~』
『スパに行くの?』
『一緒に行きましょう、アッサム様』
 ペコがやたら誘っている声。きっと腕を捕まえて可愛い目で見上げているのだろう。アッサムがそれを断り切れるかどうか。

『……スパに行きたいの?』
『もう、準備バッチリ持ってきていますわ!』
『用意周到ね』
『いい匂いの石鹸を買ったので、アッサム様のお背中は私が』
『いえ、そう言うのはいいわ、ルクリリ』
『え?じゃぁ、私の背中をアッサム様が?』
『ルクリリ、そう言うのはいいです』
『だからボケなんですわ』



 聞き耳を立てていると、バスルームからお湯張りが終了する電子音が響いた。
 何だか、本当に嫌な予感がする。



『仕方がないわね』



「よくないわよ、アッサム」

 アッサムの、仕方がないと言うセリフは聞き飽きた。その割に、ダージリンがキスしたいと何度言っても、そのセリフを言ってはくれないのだ。ちょっと、性格に問題がある気がしてならない。

『じゃぁ、ダージリン様をお誘いしてきて。みんなで行きましょう』
『『『はーい』』』



 バスタブに溜まったお湯。ちょっと熱いくらいのお湯。一緒に石鹸で身体を洗って、甘い香りに包まれて、出来れば素肌に触れるくらい傍に寄り添って、バスタブに身体を沈める。

 沈んだのは、ダージリンの想像の世界だ。扉がドンドンと叩かれるのを背に受けながら、栓を抜いて、熱いお湯と夢を流した。1年生たちを断れば、どうしてどうしてと食って掛かるはずだ。アッサムのはちみつを掛けたような甘さが、あの子たちをあんな風に育てたのだ。



『ダージリン様~~!スパに行きましょう!!』



「…………にぎやかね、本当に」


 ドアを開けたら、ピョンピョン飛び跳ねているローズヒップの頭。その後ろに身支度を終えたアッサムが眉をハの字にしている。本当はその身支度の鞄を持って、ダージリンの部屋に来てくれるはずだったのだ。



「アッサム。甘いにも程があってよ」
「………そうですね。あの、また後日にしましょう」
「当然だわ。明日、絶対よ」
「はい。あの、私だって、その、それなりに……ちょっとは残念には思っています」

 先を急ぐ1年生たちの背中。1人1つ、いろんな香りの石鹸を持っているに違いない。楽しそうな様子を見て嫌だと言い切れるほど、アッサムは強くないに決まっているし、だからダージリンの部屋じゃなく、最初にアッサムの部屋を訪れたのだろう。ズルさの知能は高い子たちだ。

「ルクリリの背中を流したら、本気で怒るわよ」
「でしたら、ダージリンがあの子の背中を流してあげてください」
「あら、あなたはそれを平気で見ていられるの?」
「むしろ、ルクリリが嫌がるでしょうから」
「あら、喜び涙を流すわ」
「……そうでしょうか」

 スパの後、ソワソワしながら、アッサムを待っていた部屋に戻る侘しさを考えると、もう今から頭が痛い。きっと、換気扇の音が耳に触って苛立ってしまうだろう。


「帰りに、あなたの部屋に行ってもいい?」
「はい」
「今日は、まだ一度も頬にキスをしていないのよ」
「わかっています」
「あら、ちゃんとわかっているのね」
「えぇ」



 それでも、1年生に甘いアッサムは、ダージリンと2人でお風呂に入るチャンスを自ら放棄してしまう。


 ………私と1年生、どっちが大事なのかしら

 なんて言う言葉、一度は使ってみたいものね。そう思いながらも、アッサムの答えなんてわかり切っている。だから、こうして1年生たちを甘やかせているのだ。


「あなたたち、今日は1日ダージリン様の言うことを聞いて、良い子にしていた?」
「もちろんですわ。もう、全然面白くもない仮面を、じっと眺めましたわ」
「ランチ、美味しかったです」
「ルクリリが、凄く高いお店を予約して……」
「そう。楽しい1日だったのね」

 3人席の真ん中に座ったペコの頭を撫でて、運転席に座るローズヒップの頭も撫でる。

 本当に、この甘々で甘ったるい蜜の少しでもいいから、ダージリンに分けてくれたらいいのに。


 
 ダージリンは、目の前の助手席に座っている、ルクリリの頭を撫でまわした。


「今日は、とても楽しかったわねぇ、ルクリリ」
「怖い、怖い!怖いです、ダージリン様」
「あら、可愛がっているだけよ」
「嘘!凄く嘘くさいです!アッサム様、助けて!」
「大丈夫よ、ダージリン様はあなたのことを可愛がってるわ」
「違う意味の、可愛がりですよ!」


 このままだと、黒森峰に勝ったところで、本当にキスをさせてもらえるかどうか。
 取りあえず、今ある苛立ちは、ルクリリを可愛がって収めることにしよう。





甘い誘い ③

ルクリリに案内された1人10,000円のランチの後、ローズヒップが選んだパンケーキ専門店と、もうお腹一杯に満たされて、出来れば学生艦に戻りたいと言う気持ちはあったけれど、ペコが行きたいと言う場所に連れて行ってあげていないことに気づいた。
「ペコ、あなたはどこか行きたいところはあって?」
「えっと、あの、手作り石鹸のお店に」
「石鹸?」
「確か、この辺りにお店があったと思います。凄くいい匂いで、お肌にも優しいっていう」
 鞄からフロアガイドを取り出したペコは、携帯電話にメモを残していたお店の名前を探すように指を動かしている。きっと、最初から行くつもりでいたのだろう。
「そうなの。では、行きましょうか」
「え?いいんですか?」
「もちろんよ」
 素直に喜びを表現して、晴れやかな笑顔になるものだから。本当に愛らしくてついつい頭を撫でてしまう。この素直さと従順さは聖グロの宝だろう。ルクリリとローズヒップも素直ではあるが、何かこう、違うのだ。

「役得だよなぁ、ペコは」
「胡散臭い演技ですわ」

 ちゃっかり高いランチを予約していたルクリリと、お茶と言っているのにパンケーキのお店に引っ張り込んだローズヒップは、頬を膨らませている。ちゃっかり具合で言えば、3人とも甲乙つけがたいが、愛らしさで言えば、ペコにはかなわないだろう。そう言う贔屓目を持ってあげないと、この2人とセットにされているペコの不運も報われないのだから。


「あら、ルクリリも愛らしくニコニコしていれば、頭を撫でて差し上げるわよ」
「……いや、怖いので遠慮します」
「そう?残念だわ」
 ちらりとローズヒップに目を向けると、ペコとは違った満面の笑み。
「どうぞですわ!」
「何も言っていないわよ、ローズヒップ」
 ごめんなさい、と言ったポーズで頭を下げてくれるけれど、その頭を“馬鹿”と言ってルクリリが素晴らしく軽快な音を出して叩いた。


「あら、本当だわ。とてもいい匂い」
「思った以上にいい匂いですね」
 華やかな香りに包まれた店内には、キャンディたち2年生の姿があった。やはり噂になっていたらしく、買いに来たそうだ。アッサムはいろんな種類の石鹸のサンプルを手に取りながら、気分はもうすっかりバスタブに浸かっているようになっていた。お店の中央に実際にどんな匂いがするのか、体験できる場所があり、みんなで輪になって腕まで石鹸を付けてみた。それぞれの手を鼻に近づけて、みんなでいい匂いと何度も何度もいいあう。あの色の石鹸も、この色の石鹸も。次々に手に取って、聖グロの生徒たちがレジにずらりと列を作っていく。みんな、きっと明日は報告会になるはずだ。すべすべになった腕を摩り合ったりするのだろう。

「アッサム様、結構沢山買いましたね」
「えぇ、お土産に」
「ほぅ、なるほど」
「整備科のチャーチル担当の子たちによ?」
「誰に、なんて聞いていませんけど……」

 チャーチル担当の子よりも多い個数を紙袋に入れてもらいながら、グリーンのニヤニヤしているであろう顔に背を向けたまま。別に、ダージリンに買ってあげるのは、何の問題もないわけで、部屋は隣だし、同じチャーチルだし。

「………私、服を見て回ってくるわ」
「では、駐車場で集合と言うことにしましょう」

 1つ90グラム程の石鹸は10個を超えていて、いろんな匂いを確認して、結局どれも気に入ってしまい、1つに選べなかった。チャーチル担当の子たちに配ることも本当のことだけど、5つほどは自分のものだ。アッサムは重たい紙袋を手にしたまま、逃げるようにシナモンたちと離れた。

「あら、とってもいい匂いね」
「本当ですね。あ、これもいい匂いです」
 連れていかれた手作り石鹸のお店は、若い女の子たちでにぎわっていた。ペコは一つ一つを手に取って、ダージリンに向けてくる。あれもこれもどれも、みんな柔らかく鼻をくすぐって、香水とは違う心地のいい匂いだ。お店の中央では、ローズヒップとルクリリが手を洗っていた。
「何をしているの?」
「ダージリン様、この石鹸もいい匂いです」
「あら、実際に使えるのね」
 モコモコとした泡がダージリンの両手を包むように襲って来た。くすぐるように胸に届くいい匂い。この石鹸と同じものをアッサムに買って帰らないと。
「石鹸、楽しいですわ」
「どれほど洗っても、ローズヒップはローズヒップのままだなぁ。上品な香りを身にまとっても、中身がなぁ」
「ルクリリに言われたくありませんわ」
「安心なさい、50歩100歩よ」
 ペコが気を利かせてハンカチを渡してくれたので、それを受け取って、好きなものを買ってあげると伝えた。キラキラした瞳が見上げてきて、すでに目を付けていたらしいものがダージリンの前に差し出される。それを受け取り、ダージリンもまた、アッサムへのものと、自分のもの、別のものを追加してレジに向かう。

「50歩と100歩なら、2倍の差ですわ!」
「私が100歩と言うことじゃない?」
「何ですの?昨日、始末書の刑を食らったくせに」
「ローズヒップもだろう」
 
 いつまで、手を洗っているつもりなのかしら。張り合いながらおでこをこすり合わせるものだから、仲がいいにも程がある。幸い聖グロの制服を着てもいないのだ、少し放っておけばいい。止めるつもりはないし、止めるべき突っ込み役のペコはもう、2人をいないものとしているようだ。

「ペコ、とてもいいお買い物だったわ。あなたはもう満足できた?」
「はい」
「よろしいわ。このお馬鹿たちは放置しておきましょう。行くわよ」
「はい」

 3人とも、一応は目的を達成したみたいなので、お守りもこの辺でいいだろう。アッサム程のサービス過剰はする必要もない。アッサムへのお土産を手に、ペコと一足先にお店を後にした。



甘い誘い ②

「………あれで15歳以上って、ローズヒップたちでも観てもいいということでしょう?」
「想像したくないですが、観てもいい年齢ではありますね」
「信じられないわ」
「アッサム様、食い入るように観ていたじゃないですか」
 手で目を覆うことなく、ラブシーンもしっかり観たのはアッサムだけではないはずだ。グリーンに突っ込まれても何も言い返さず、観た後に買ったパンフレットを鞄に仕舞った。後で部屋に戻ってゆっくり読み返すことにしよう。
エンディングが終わってから、感動の涙で1分ほど動けなかったが、感動もしたが、ドキドキもしたし、ハラハラもしたし、これは観ても大丈夫なのかしら、なんて自問したりもした。とにかく、人生の中であそこまで濃厚なラブシーンを見たのは初めてだった。

「ランチ、どこに行きます?」
 シナモンとグリーン、3人で縦に並んでエスカレーターに乗ると、下りながら、いろんなお店がランチタイムの客引きをし始めているのが見えた。いろんな意味でいっぱいいっぱいだったから、お腹が空いている自覚はなかったが、もうそう言う時間だ。
「トリオたちが行動している範囲外がいいわね」
 携帯でダージリンのGPSを追いかけると、同じ建物の中にいるようだった。となれば、そこそこ高いお店を選んでくるだろう。ダージリンにおごらせるつもりのルクリリならば、コースものがあるお店を選ぶに違いない。アッサムはカフェを選んで、ランチセットでも食べようと提案し、レストランフロアから抜ける道を選んだ。あの子たちはちゃんと、ダージリンの世話をしているだろうか。


「あなたたち、買って欲しい仮面はあって?」
「………いや、ありませんけれど」
「変身できない仮面なんて、飾っても埃がたまるだけですわ」
「ローズヒップは、この羽が付いた派手な仮面を付けて、何と戦いたいんだ?」
 一通り、ヴェニスの仮面の展示を眺めた後、いかにも観光客向けっぽい仮面の売り場で3人に確認し、残念ながら拒絶をされてしまった。冗談でもいいから、買って顔に付けて歩いてくれたら、どこの生徒だろうかと話題になっただろうに。アッサムにお土産と買って帰っても、とても冷たい眼差しを浴びせられるのが目に見えてわかる。
「さてと、ランチでも行きましょうか?私に付き合わせたので、次はあなたたちのお好きなところに行くわ」
「本当ですか?じゃぁ、めっちゃ高いお店行きましょう」
 本当につまらなさそうに、それでもダージリンの傍でまるで隊列を組むように3人は付いて回って来ていた。勝手にどこかに行ってくれてもよかったけれど、おそらくそうすると美味しいランチを逃すかもしれない、とでも考えていたのだろう。じっと耐えるのは戦車道の訓練で馴れているのだ。どちらかと言えば、仮面ではなくダージリンに注目していたようだし。
「よろしいわ。好きなだけ食べなさい」
「流石です。もう、ばっちり予約済みです!」
 車の中でコソコソと携帯をいじっていたのは、お店の予約だったのだろう。アッサムがそう言うことをよくやっているのを見たことがある。急に足取りが軽くなったルクリリに案内され、エスカレーターを昇った。


 大きなショッピングモールのショップの並ぶ対面の向こう側。アッサムが見えたのは見間違いかしら。



カフェでランチを取った後、2時間くらいそのお店でずっと座っておしゃべりをしていた。ネタはもっぱら、1年生たちとダージリンのこと。そして、来年、聖グロはどんな風になるのだろうという想像。映画を観た後だと言うのに、映画についての感想を避けたのは、多分、何を言えばいいのかわからないからだろう。映画好きで、邦画洋画を問わずにいろんなジャンルの映画を観るグリーンなら、あの程度のラブシーンはきつくないのかも知れないが、感動したはずなのに、印象に残っているのは、ラブシーンばかりなので、何を語り合えばいいのか、言葉が浮かばない。特に、一緒に泡にまみれたバスタブで愛を語り合う所は良かった。

 何というか、羨ましいなと思ってしまった。

「アッサム様?」
「………え?何?」
「どうしました?ぼんやりして」
「していた?」
「していました。ダージリン様のことを考えているような顔でした」

 グリーンのこれは冗談なのだろうけれど、それに反応してしまってムッとすると図星と言うことになってしまう。でももう、ムッとした後。

「ちょっと、グリーン。思っても声に出さないで」
「シナモンはどこにいても、誰といても気を使うわね。ご苦労様」
 シナモンは苦言を呈しながらも目は笑っている。2人揃って弄ってくるなんて酷い。氷の入った水を飲んで誤魔化すものなら、ほらねって言われるのはわかる。だから、きつくグリーンを睨み付けた。

「グリーン」
「………はい、笑っていません」
「そう?」
「はい」
「じゃぁいいわ」

 自分のティポッドが空になってしまったので、残っているシナモンのものを分けてもらい、のどを潤した。ジワリと広がったのはダージリンの香り。

「………歴代、隊長より副隊長の方が怖いというのは、聖グロの伝統ですよね」
「どちらかと言えば、歴代の隊長が変わりものばかりなのよ」
「それは確かに」

 グリーンの呟きに、すぐさま反応したアッサムは、唇を尖らせる彼女に向けてニッコリと微笑む。シナモンはいつも通りに、まぁまぁと笑いながらせっかくだから買い物に行こうと、フロアガイドを広げて空気を適当にかき混ぜた。

「そう言えば、この建物の中に、手作り石鹸のお店がありませんでしたっけ?」
「あぁ、バニラたちが話していたお店ね」

 アッサムの手に収まらずにグリーンが奪ったフロアガイド。何か、行きたいお店があるらしく、目が左右を往復している。

「手作り石鹸?」

「えぇ。凄くいい匂いがして、お肌もすべすべになるらしいですよ。バニラがお姉さまから貰ったものだそうですが、おススメだって話してくれて。そのお店が東京に1店舗と、横浜にもできたそうです。記憶では、このショッピングモールだったと思います」
 グリーンはその石鹸でお肌をすべすべにして、どうしたいのだろうか。そんな疑問が湧いたけれど、それを聞いたら、質問に質問で返してきてアッサムがムッとするという事態を呼ぶ気がしたので、黙っておいた。シナモンもわりと乗り気な様子なので、興味があるのだろう。いい匂いと言うのがどういうものなのか、アッサムも気になる。

 と言うか、石鹸と言われると、どうしてもさっきの映画の……一緒にお風呂に入るあたりのシーンを思い出してしまうのは、アッサムだけだろうか。きっと、変な意識をし過ぎているのだ。

 そう言えば、あんな風にお風呂に2人で入ったことはない。
 そもそも、キスだって許していない。


「アッサム様、行ってみます?」
「そ、そうね。バニラがおススメというのなら」

 飲み干してしまったダージリンティ。一口残しておけばよかったけれど、空のカップを傾けてしまったのだ。飲んでいるフリをして喉を鳴らして見せておいた。


甘い誘い ①

「………はめられたわね」

 
 絨毯敷きの廊下を複数の人が近づいてくる。

 ドタドタ。
 バタバタ。

 その、とても不快で鈍い音がダージリンの部屋の前で止まった。


『ダージリン様』
『ダージリン様~~!!あっそびっましょ~!』
『いざ、出発ですわ!!!』


 横浜港には定刻通り入港することができ、関係学部より、すべて異常なしという報告を受けてから30分。アッサムを誘って横浜に出ようかしら、と思っていたのだけれど、あっさりと振られてしまった。今日は、シナモンとグリーンと3人で出掛ける約束をしているとか。それに合流をさせてくれてもいいのに、2人が気をつかってしまうから来ないでと言われ、頷くしかなかった。

代わりに、楽しい相手をよこしますって言われた時に、すぐに気づけばよかったのだ。


“暴走シスターズだけは、ごめん”と。


「ごきげんよう、暴走シスターズさん」


 致し方ない。横浜に降りる時は、後輩の面倒をアッサム1人に押し付けていることも多く、たまには同級生たちとのんびり過ごしたいと言うことなのだろう。後輩が傍にいると、何かといろんなことに注意を払い、気が休まらないのは確かだ。別行動をすればするで、何かしでかさないだろうか、という心配を抱かなければならない。そう言うことの全てを、たまにはダージリンがやれと。

「豪快シスターズですわ、ダージリン様」
「あの………そもそも、そういう名前を付けていることが嫌なんですけれど」
「諦めろ、ペコ。お笑いトリオとか、3馬鹿トリオとか、始末書シスターズとか、いろんな学部で勝手に呼ばれているんだから。自分たちで言うしかもう、道はない」
「いや……どうして私がその中に入っているんです?」
「それはまぁ、突っ込み役は必要だからじゃないの?」

 腕を組んだルクリリは、自分がボケだと思っているのだろうが、ふんぞり返って言うべきセリフかどうか、判断ができていないようだ。ボケ役としては適任である。


「それで、みなさんはここに何しに来られたのかしら?」

 ペコが頬を膨らませているのを見ても、何も笑えるところがない。可愛そうに、と思いながら、この2人への突っ込みをお願いする、と言う結論は変わらないのだ。


「ダージリン様。横浜に出ましょう!」
「そうですわ。それで、美味しいランチを食べて、ショッピングを楽しみますわ!」
「当然、ランチはごちそうしてくださいますよね?」

 キラキラ真っ直ぐ、眩しくて、出来ることなら遮ってしまいたい。
 それができないと知られてしまっているのが、ちょっと残念。

「…………アッサムは、いつもあなたたちにランチを奢っていたの?」
「「はいっ!」」
「あら、そう」
「2人とも………アッサム様から、ダージリン様には秘密って言われていませんでした?」


 甘やかせるなといつも言っている。それでもダージリンの目が届かない間は、甘々に甘ったるい蜜をじゃぶじゃぶかけているようだ。その優しさや甘さの半分でもいいから、ダージリンにもわけてもらいたい。


「いいわ、聞かなかったことにしておくわ。では、ランチをごちそうしてさしあげる代わりに、今日1日、私を楽しませなさい」


 …
 ……
 ………
 …………


「………だから、アッサム様の方がいいって言ったのに」
「ルクリリが、もっともっと前から約束を取りつけないからですわ」
「いまさら言うな!」


 目の前で文句を言うとは、なかなかの態度。そう言う度胸があると言うのは、評価するべきところだろう。聖グロではまれに見る変わった逸材ではあるが、この2人をリストアップしたのはアッサムだ。あの子も目を付けた以上、自分が世話を焼かなければならないと言うことは、十分にわかっている。いつもため息ばかりだ。


「で、どうするの?私を楽しませるのなら、横浜に行ってさしあげるわ」


「絶対、ランチごちそうしてくださいよ!」
「もちろん」
「3時のお茶もでございますでしょうか?」
「えぇ、当然よ」
「………私は、何事もなく平穏がいいです」
「それは、ペコにかかっているわね」


 高いお店を選ぼう、なんてローズヒップと、肩を組み歩き出す可愛らしいお馬鹿さん。
 ダージリンは財布と携帯を鞄に入れて、ペコの頭を撫で前の二人を追いかけた。


「ダージリン様にあのトリオを押し付けたんですか?」
「あの人1人でトリオの相手をすることも、あんまりなかったでしょうから。振り回されるのも、たまにはいいことだと思って」
 グリーンの運転するMINIは、横浜で一番大きなショッピングモールの駐車場の螺旋をゆっくりと回っていた。屋上に駐車させて、映画を観た後ランチをして、少しだけショッピングをする計画だ。
「どっちが振り回されるか、と言う問題にもなりますね」
 日ごろ、マチルダⅡ部隊でルクリリに振り回されているシナモンではあるけれど、ダージリンともそれなりに付き合いの長い彼女。人を振り回す才能だけで言えば、ダージリンも相当なものだということは、嫌と言うほど知っているはずだ。
「いいのよ、それも込み。ペコがいるんだから、大丈夫でしょう」
 ネットで予約しておいた映画は、ベタベタにべったりラブストーリーだ。18歳以上ではないが、15歳以上の規制がかかる程度には、ラブシーンがあるらしい。観たいが1人で観に行くには何となく恥ずかしい。でも、ダージリンと観に行くのはもっと恥ずかしい。悩んだ結果、映画好きのシナモンとグリーンを道連れにしたというわけ。ポップコーンや飲み物なんて目もくれず、真っ直ぐに劇場のシートに腰を下ろし、カップル席なんかの男女の後頭部を眺めた。




「ダージリン様、ちょっと、どちらに行くつもりです?」
「この、催し会場というところでやっている、ヴェニスの仮面の展示と言うのが素敵だわと思って」
 大きなショッピングモールに入ると、ダージリン様は案内を眺めた後、目をきらりと光らせた。真っ直ぐにエレベーターへと進まれるものだから、みんなでどこをウロウロしようか、って些細なやり取りの楽しみなんて、お嬢様には不要と言うことなのだろう。
「仮面、ですか?」
「面白そうでしょう?」
「……はぁ」
「面白い仮面があれば、買って差し上げるわ」
「いや、要らないです」
 ピンポンと鳴ったエレベーター。優雅なお嬢様は微笑んで乗られたので、ルクリリは慌てて、ローズヒップのセーターを引っ張って乗り込んだ。ペコは最初から、クレームを言うことなんて諦めているのだろう。当たり前のようにダージリン様の隣にいる。
「何ですの、ルクリリ」
「仮面だよ」
「ライダー?」
「………変身して、誰と戦うつもり?」

 子連れのファミリーと、カップルたち。1つ1つの階に止まり、人がドンドン入ってくるから、ダージリン様の前に立ちはだかり、触れさせるものかとガードした。たぶん、無駄なことなんだけど。なんとなく。
「さて、行くわよ」
「はい」
 従順なペコはスタスタとダージリン様についていく。とてもご機嫌よろしく、1つ1つを見て回って歩かれるので、仕方がないなと諦めがついた。何というか、誘ったのはこっちだし、明確に何をするということもなかった。ルクリリ達が行きたいところに連れて行ったあと、嫌味に近い文句を言われるのなら、取りあえず、お好きなようにしていただいた方がいい。
「………まさか、アッサム様は押し付けた?」
「まぁ、私は何となくそう思っていましたけれど」
「なんで言わないんだ、ペコ」
「2人とも、ダージリン様と遊べるって嬉しそうだったので」
 とはいっても、横浜に降りる時はダージリン様に付き添うことも多いペコなのだ。要領はえているのだろう。

 言われるがままに動いた方がいい、と。


Your color

「亜美ちゃん、ごめんね。待たせちゃった?」
「待ち合わせよりも、5分も早いわよ」
「でも、亜美ちゃんはそれよりもさらに、10分早く来る人だから」
 
 手提げのバッグが太腿に当たる音と、ローヒールのリズム。待ち人の長い脚が真っ直ぐに亜美へと向かっている。それでも、声を掛けられるまで振り向いたりはしない。彼女に、名前を呼ばれたいという想い。


「ごめんね、チケットまで買ってもらって」
「ううん、ネット予約の方がいい席が取れるし」
「そういうのに私が疎いから、でしょう?」
「……私の方が慣れているから、と言うことにしましょう」

 つい最近、スマートフォンに無理やり変えさせられたレイちゃんは、それでも、頑としてネットを使うことはしない。用事はもっぱら電話。連絡関係も基本的には一方通行。既読は着くけれど、返信はない。機械音痴を言い訳にして、便利な機能を覚えようともしない。その必要にかられるほど、寂しさを誰かと繋がることで紛らわしたいと言う人ではないのだ。

「推理物は、美奈もまこちゃんも爆睡だものね」
「あの2人は、昨日、アニメの映画に行ったらしいわ」
「………あぁ、いいんじゃない?“らしく”て」
 その“らしさ”に救われていることも多いから、ずっと親友であり、仲間を続けているのだ。レイちゃんは、美奈子ちゃんもまこちゃんのことも、うさぎちゃんのことも、そして亜美のことですら、親友であると想ってくれている。


 その優しさが痛くて、でも、この輪の中にいたくて、ずっと、繋がっていたい。


「レイちゃんにしては珍しい色ね、その服」
 冬の始まり、ブランドのコートの中は深い緑のVネックセーター。細いネックレス。映画館でコートを脱いだ時に、“らしくない”色を見てしまって、言わなければいいのにと思ったのは口に出してしまった後。
「あぁ、そうかしら?まぁ、たまにはね、赤や黒ばっかり持っていてもね」
「白い服も多いじゃない」
「そういう、白黒赤みたいな、考えてない感じばかりって思われないようにって」
「…………その色、似合ってるわ」



 きっと、レイちゃんの服じゃない。



 見慣れたブランドのコート。見慣れたデニム。レイちゃんはきっと、こういう時なら、やっぱり、赤いセーターを選ぶだろう。あるいは、コートの色に近い色のセーターを。亜美の知っているレイちゃんは、亜美がずっと見てきたレイちゃんは、そう言う色の使い方を好むことは知っている。

 知ってしまっていることが、嬉しいと感じていたのは、もう、何年も前のこと。


「ありがとう。亜美ちゃんも、水色のコートが似合ってる。私には絶対着こなせないわ。髪の色とか、持っている服の色とかでは合わせられないし。青系って難しいものね」
「そうかしら?でもそうね、レイちゃんは黒い髪で、長さもあるし。青系なら、海に近い緑がいいかもしれないわね」


 例えば、ネプチューングリーンとかなら。


 その一言を言えば、これから始まる映画の内容は、すべてヒトカケラも記憶されずに、2時間の気まずさと、苦痛に耐えるものになってしまう。


 お互いにそれは避けるべきだと言うことは、わかってる。


 たった一つだけ、わかり合えていること。
 
 好きと言わないし、好きと言わせない。
 ずっと、親友の地位を脅かしたりはしない。

「自分に似合う色って、必ずしも好きな色とは限らないわね」

 レイちゃんは亜美を拒絶したりしない。

「どっちが先かよね。似合うから好きなのか、好きだから似合うと思うのか」

 だけど、誰よりも心から愛している人がいる。

 ただ、その人が亜美ではない。
 それだけのこと。


「…………………赤も黒も、似合わない」

 みちるさんには
 海王みちるには

 赤も黒も似合わない。

 似合わないって思っている。


「亜美ちゃん、赤は似合うわよ。ワンポイントとかで、マフラーとか、ブレスレットとか」
「そう?じゃぁ、今度、いいものがあったら買ってみるわね」
「えぇ」


 薄闇の中、色さえどうでもよくなる場所に来ているのに。
 それでもレイちゃんは、あの人の持っている服を着てくる。


 きっと、着せられたのだろう。そう思っている方が楽だ。

 そう思っていれば、ずっと親友でいられる。


 字幕を追いかけながら、会いたい口実に映画を選んでよかったとため息を吐いた。


 長い間、彼女の服を見つめずに済むのだから。
 
 想い、想われているという色を見ずに済むのだから。

 おかげでまた、明日からも、ずっと親友でいられるのだから。



 みちるさん“らしい”ことをするものね。
 本当、あの人らしいと思う。

 それに気が付いてしまうのもまた、亜美“らしい”。


 

nick
緋彩の瞳

リリーが愛する人 ⑥

「…………愛菜」
 


 独占欲など邪魔なだけなのだと、リリーと付き合うことを決めた時に自分に言い聞かせた。本気で想われていることはわかっていたし、それは信じているし、今もそのことを疑うことをしない。リリーは自分からナンパしないと言うのも、嘘じゃないだろう。リリーは可愛い子に可愛いと言うのはただの挨拶だと思っている。自分からベッドに誘ったことなどないと、へらへら笑っている、その台詞も嘘じゃないと思う。知らない女の子と一晩遊ぶ時は、大体酔っているか、相手が酔っているか、あるいは懇願されたか。ただの遊び以上はないのもわかっているし、携帯の情報を知りたがる人と遊ぶこともしないと言うのも、本当だと思う。だから、それはそれでいいのだと、自分に言い聞かせていた。


 許すことで、傍にいれる。
 許すことで、リリーは愛菜の元に帰ってくる。

 愛菜はずっと、そう思って来た。

 リリーのことがわからないから傍にいるのではない。
 本当は、リリーのことをわかっている。
 愛菜がわからないのは、愛菜自身なのだ。



「愛菜?どうして泣くの?」
「……………私、きっと幸せ…じゃないと…思います」
「そう」
「リリーが、誰か知らない女の人を抱くことを認めている限りは、私、幸せじゃないです」
「………そう」

 指で掬われる涙はたぶん、幸せじゃないと認めたくはない抵抗なのだ。
 この5年間、呆れたため息を吐いてきたけれど、1人の夜に泣いたこともなかった。
 こうやって、抱きしめられている時に、苦しいと思いたくなどないのに。

「でも………私が本当は嫌だと言えば、リリーは私とはいてくださらない」
「どうして?」
「だって、リリーはリリーです。私はあなたが好きなことを縛る権利はないし、それはたぶん誰にもない。あなたを縛りつけてもいい法律を、私が主張できることでもありません」


 唇の温もりは、こめかみに落ちる涙を拭うように降ってくる。リリーは愛菜を抱きしめて、そっとそっと頭を撫でてくれた。リリーは誰にでも優しい。誰にでも微笑んで手を振って、誰にでも勘違いをさせる。誰からも好かれる。そう言うリリーは嫌いじゃない。


「愛菜が私といて、幸せじゃないのなら、私は傍にいない方がいいの?」
「…………いてください」
「愛菜以外の女を抱かないで、と言えばいいのに」
「でも、それは」
「私は、愛菜に縛られたくないって思っていないわ。愛菜が勝手にそう思っているから、その方が愛菜は楽なことなのだろうって思っていたわ。愛菜が私を見逃している方が、私に落ち度がある方が楽でいられるのなら、その方がいいって」


 愛していると言っておきながら
 大好きだと言っておきながら

 リリーはとてもズルい女だ。

「愛菜は、私が好きなのでしょう?」

 いつも、冗談で聞いてくる。
 だから、本気で答えたことなどない。


「好きにさせたのは、リリーです」
「だったら、私を縛ればいいのに」
「…………好きになった時に、それは駄目だと思いました」
「行き過ぎた生真面目ね。それとも、逃げる道を作っておきたかったの?」


 唇はいつでも嘘を吐くけれど、キスから伝わる熱は、互いが恋しいと言うことを告げている。リリーの長い琥珀の髪を握りしめて、涙で息が苦しくても、その唇を求めた。


「………愛菜、私が好き?」
「好きです」
「酔っぱらって目が覚めたら、全然知らない子のマンションで寝てしまっている私は?」
「そう言うリリーは嫌いです」
「そっか………そっか、嫌いなのね。普通はそうよね」
「人間として、最低です」
「そうね」
「私は………リリーが好きです。でも、リリーのそういうだらしないところは、本当に嫌いです」
「うーん。嫌われたくないわね」
「もう、二度と、私以外を抱かないでください。私だけを抱いてください」

 しがみつくように足を絡めて、傍にいてと身体で乞うた。
 片手すら繋がない程度でいいと、思いながら過ごしてきた5年間。
 そう思うようにしていた5年間。
 いつでも、離れてもいいと思っていた。
 いつでも、別れられる理由を、リリーに押し付けていた。
 モテる人と付き合う価値を、自分に見いだせなかった。
 この、気まぐれで適当な人の真っ直ぐな愛を知っていて、だからたぶん、怖いと思っていた。


「それ、愛していると同じ意味でしょう?」
「…………そうですね」
「他の女を抱かなければ、愛菜は幸せになれる?」
「……はい」
「そっか。じゃぁ、どれだけ酔っても、ちゃんと迎えに来てね」
「………自力で帰れる程度で、お酒をやめてください」
「あら、また制限が増えた」
「お酒については、前から言っています」
「そうだった?」

 唇をついばんで小さく笑うリリーは、本当にもう、遊ばないのか……怪しい。それでも何だか、調子の良いことを言われても、嫌な想いじゃないのはたぶん、ずっと言わずにいた言葉をぶつけたことで、何かすっきりしたせいかも知れない。

「リリー」
「なぁに?」
「…………リリー」
「なぁに、愛菜」
「明日、ずっと、一緒にいてください」
「珍しいこと言うわね。いつも、デートに誘っても嫌がっていたのに」
「…………だって、外で女の子をナンパするでしょう?」
「ナンパなんて、したことないわ」
「………そう言うことにしておきます」

 何だか、どうしようもない人だと思うのはこれからもずっと、変わりそうにない。でも、リリーは、約束を破る人ではないと信じている。指輪を一度も外したりしないし、必ず自分には恋人がいると言うことを、誰にでも公言している。愛菜に愛していると言うし、遊びの子にそんなことを言わないと言うのは、わかる。


「愛菜が明日、幸せな日曜日を過ごすために、私は愛菜の傍にいればいいのね」
「………はい」
「一日、ずっとずっとセックスする?」
「夜ご飯が質素になりますが」
「嫌って言わないの?」
「……………嫌では、ないので」
「愛菜、何?何か悪いもの食べた?素直すぎて、ときめいちゃう」
「リリーがズルいんです」
「そう?涙なんて見せない子なのに。モテすぎて悪かったわ」

 他にもっとまともな謝罪の言葉はたくさんあるのに。

 これだからリリーは。

「…………リリー」
「なぁに」
「リリーが好きです」
「知っているわ。優等生で生真面目な愛菜ちゃんは、リリーが凄く好き」
「………はい」
「幸せ?」
「………たぶん」
「え?たぶん?」
「だって、これからもリリーが女の子と遊ばない保証はないわけですし」

 身体を愛撫する両手は、きつく肌に赤く痕が付いてしまいそうなほど力強い。信じろ、と言いたいのだろう。


「愛菜、酔ったら電話するから」
「…………迎えに行きます」
「そうして」
「………はい」


 だから、お酒をやめるとか、飲みに誘われても断るとか、なぜ言えないんだろうか。言えばもうそれは、リリーはリリーではなくなると言うことなのだろう。わかってしまうのが残念なところだ。


「クロムゥエルの修繕が、7月末には終わりますので、お姉さま方も初戦から観にいらしてくださいね」
「当たり前でしょう?寄付は足りているの?困ったことがあれば、相談に乗るわよ」
 久しぶりにダージリンとアッサムが横浜に戻ってきた7月初旬。全国大会の抽選も終わり、ダージリンたちの最後の夏が始まった。聖那は2人からとてもあからさまに寄付をお願いされて、妹からも電話がかかってきていた。拒否をする理由もなく、小切手を手渡すために、麗奈と愛菜と揃って、待ち合わせたのはホテルの喫茶店。愛菜は、ルクリリお姉さまに後輩に会うことを言わずに来たらしい。
「愛菜、収支報告書を見ずに言うのね。珍しい」
 麗奈は相変わらず、アッサムにしか微笑みを投げかけない。もうそれはどうでもいいけれど、アッサムは絶対に、収支報告書を正しく作っていないと言った笑みをしているのが、気になる。
「勝てば文句を言わないわよ。どんなことにいくら使おうと、2人の自由。それで負けたら、それだけのことよ。OG会が文句の電話をしても、2人が責任を負えばいいことだし」
「………ルクリリお姉さまは、文句なんて言わないと思うけれど」
 麗奈はアッサムの髪を撫でたあと、アイスティーのストローをかき混ぜた。麗奈の持ってきた小切手の金額は、アッサムに言われるまま書いたらしい。
「負けたら、慰めてあげるって、笑顔で学生艦に乗り込むと思うわ」
「そうでしょうね。聖那が止めて」
「優勝すれば問題ないんだから、2人が頑張ればいいだけよ」

 ダージリンもアッサムも、眉をひそめて見つめてくる。聖那はにっこりと笑ってごまかすことしかできない。

「そう言えば、ルクリリお姉さまはお元気ですか?愛菜さま達と同じ大学ですわよね?」
「あぁ、とても元気よ」
「そうですか。OG会に寄付のお願いをしたいと思いまして。一応、メールはしておりますが」
「伝えておくわ」
 夏の暑さを避けて、ホテルの喫茶店を選んだけれど、少し寒いくらい冷房が効いている。カーディガンを羽織りなおした聖那は、温かい紅茶を注文し、日差しのキツそうな窓の外を眺めた。

「あ、失礼」
 愛菜たちも2杯目は温かいものにしようと、メニューを手にしているとアッサムの携帯電話が鳴った。少し眉をひそめて立ち上がり、どうしても出なければならないと判断した様子で話を始める。

「どうしたの、ペコ。……ごめんなさい、言っている意味が……誰に?……どこで?落ち着いて。それで、どこへ?………え?場所を?」


 ペコ、と言うのは後輩だろう。前の聖グロの船で会った、小さくてかわいい子。とてもしっかりしていた子だったと思う。
「ダージリン」
「どうしたの、アッサム」
「あの、ルクリリとローズヒップが、OGに捕まったそうです。腕を掴まれてグイグイと。ペコがどうすればいいのか、と……泣き声で。取りあえず、こっちに来るように言いました」
 ものすごく困った顔で戻ってきたアッサムは、ダージリンにそう告げた後、愛菜の顔を見た。いつでもこの3人が揃えば、ダージリンもアッサムも愛菜を頼るのだ。
「……………OG?」
 愛菜は、嫌な予感と言いたげに、そしてそれが嘘であって欲しいと言いたげに呟く。

「はい、ルクリリお姉さまだそうです」

 後輩の腕を掴んで拉致するなんて、OGの中ではルクリリお姉さましかしないだろう。
 

「………なぜ、あの人は横浜にいるの?」
「さぁね、それは後。今は保護が最優先でしょう?」
 麗奈は自分の携帯電話を取り出して、通話を繋いだ後に愛菜に投げよこした。自分で掛けたらいいのに。本当、ダメな元隊長。


「ダージリン。ルクリリ達は何かやらかしたんですか?」
「いえ、私は何も聞いていないわ。偶然お会いしただけじゃないの?ペコは何を動揺しているのかしらね」
「……さぁ。迷子にならないようにGPSは付けていますし、けっして外で悪さはしていないはずですが」

 ダージリンもアッサムも、ルクリリお姉さまの本性を知らないから、後輩が何かやらかしたと思っているのだろう。可愛そうに。そう言う心配じゃなくて、別の心配をした方がいい。


「アッサム、後輩にGPSを付けているのなら、どこにいるのかわかる?」
「はい」
「調べなさい」
「はい」

 愛菜は麗奈からの携帯が繋がる前に切った。位置を特定して、直接蹴りにでも行ってくれるのだろうか。

「あ、ペコだわ」
 可愛い小柄な女の子が、制服姿のままホテルに小走りでやってきた。立ち上がり迎え入れたアッサムの腕に抱き付いている。
「ダージリン様、アッサム様。ごめんなさい、また、私たち、勝手な行動をしてしまって」
「どうしたの?OGのお姉さまが、どこかへ遊びに行こうって誘ってくださったの?」
「その、お茶をしようって誘っていただいて。でも、今回の下船は、迷子事件のこともあって、書類に提出した行動以外のことはしてはいけないので、と、お断りをしたのですが……」

 そんなの、ルクリリお姉さまには何の効果もないし、笑いながら、腕を掴んで歩き出したに違いない。二つの腕がふさがり、唯一、このペコちゃんだけが難を逃れて、ダージリンたちに助けを求めることができた、と言うことらしい。

「そう。でも、OGのお姉さまにお誘いされたのなら、仕方がないわね」
「ごめんなさい、アッサム様、ダージリン様」
「いいわ。大丈夫よ、ペコ。別に罰を与えたりしないから」
 アッサムに頭を撫でられて、しょげているペコちゃん。あぁ、こんな可愛い後輩を困らせるとは、本当にとんでもないOGなんだから。相変わらずのお方だ。


「あ………犯罪者がこっちに出頭してきた」
 GPSをたどっている画面をアッサムと見つめていると、麗奈が呟いた。入り口の回転扉から、青い制服が2人と、モデルみたいなのが1人。がっちりと腕を捕まえている。
「見つけたわ、ペコちゃん………と、可愛いダージリンとアッサム。あと……なんで、愛菜たちがここにいるの?」
 とても楽しそうに、満面の笑みで入ってきたルクリリお姉さまは、両サイドに捕まえた後輩の困った笑みを何とも思っておられないのだろう。全員が固まったままだ。


「…………ルクリリお姉さま、その両手に捕まえた後輩たち、ナンパしましたの?」
「ナンパなんて生まれてこのかた、一度もしたことなんてないわ」

 愛菜の静かな怒り。それを察したのか、ダージリンはアッサムとペコちゃんを守るように、そっと腕を取ってその場から後ずさりしていった。愛菜が怒るとどうなるかと言うのは、多少は知っているのだろう。でも、なぜ怒るのかは知らないはず。

「左様ですか」
「後輩が歩いていたら、声を掛けるのがOGでしょう」
「………腕を引っ張っているように見えるのは、気のせいでしょうか?」
「声を掛けたら、当然、お茶をごちそうしないとだめでしょう?そう思って、美味しいお茶が飲める場所と考えて、取りあえずここにしようと思ったら、あなたたちがいるんだもの。ペコちゃんは逃げちゃうし」


 こういう時、いつも愛菜は取りあえず、呆れたため息を吐くだけなのだけど。
 今日は怒り心頭のようだ。と言うか、ここ最近、2人の関係がちょっと変わったように見えるのは気のせいじゃないと思う。何が、と言うのはわからないけれど、確実に、何かが前と違う。例えば、こんなに人がいるところで、堂々とぶちぎれているとか。


「リリー。3秒以内に後輩の腕を放しなさい」
「………はい」

 人前で、ルクリリお姉さまをリリーなんて呼ぶとは。そんな風に普段、呼んでいるんだって思うと、微笑ましいと言うかなんというか。愛菜は愛菜で、結構ルクリリお姉さまが好きなんだなって言うのが、にじみ出ている。


「あと、横浜から出てください」
「なぜ?」
「そもそも、なぜ横浜に?」
「愛菜が横浜に行くって、聖那と電話をしていたから。そう言えば、聖グロの学生艦が港にいる日だわと思って、アッサムお姉さまから預かった寄付金を持ってきたのよ」
「嘘くさい」
「私、愛菜に嘘なんて一度も吐いたことないわ」
「…………アッサムお姉さまからの小切手は」
「鞄の中」
「それを出して、お帰り下さい」
「酷いわ」
「帰ってください」
「帰る途中に、可愛い女の子にナンパされたら、愛菜のせいよ?」
「ホイホイついていけば、リリーのせいですね」
「ねぇ、せっかくみんながいるのなら、みんなで楽しくお茶をすればいいじゃない?」


 10秒くらいの沈黙。
 たぶん、それが無難な解決方法だってみんな思っている。愛菜以外は。


「さ、賛成です!ルクリリお姉さまと、是非、お茶をしたいです!」

 沈黙の中、それに耐えられなくなって手をあげたのは、同じティーネームのルクリリだった。

「あら、流石のルクリリ。いいティーネームを持っているだけあるわ。と言うことで、広いテーブルに移動よ」

 折角放された腕を再度、がっちりと掴まれた1年生たちは、乾いた笑いを浮かべるだけで、出来る限り誰とも目を合わせないで、この場を乗り切ろうとしている。あの子はたぶん、次の隊長だろう。何というか、機転が利く子だ。

「あの、聖那さま」
「ん?何、ダージリン」

 ルクリリお姉さまを睨み付ける愛菜の目は、仕方がないと言いたげで、それでも本気の拒絶ではない。1年生を自分の両サイドに座らせて、ニコニコ楽しそうな笑み。これだけの目がある以上、余計なことができないと言うのは、わかっておられるはずだ。ましてや、この1年生たちなら、ルクリリお姉さまにほれ込んでしまうと言うこともなさそうだ。

「…………いえ。あの、愛菜さまとルクリリお姉さまは、もしかして」
「ノーコメント」
「…………そうですか」

 ダージリンは何か勘が働いたらしく、ペコとアッサムに端っこに座るようにと指示をして、聖那にひっそりと聞いてきた。本当に、勘の良い子だ。

「愛菜、幸せそうに見える?」
「えぇ、とても」
「そう?」
「はい。その、何となくですが」
「………そう」


 監視するためにルクリリお姉さまの真正面に腰を下ろした愛菜は、いつになくガミガミと、後輩をいじる“リリー”に突っかかっていく。とても楽しそうだ。

 ついこの前までは、呆れたため息ばかりだったと言うのに。
 諦めるということが愚かなことだと、やっと愛菜は気が付いたのだろうか。
 
 調教しなければいけないと、やっと気が付いたのだろうか。

 2人は、ブルー・マウンテンのコーヒーを注文して、おいしそうにブラックで飲んでいた。




リリーが愛する人 ⑤

「………愛菜、聖グロの生徒たちが私を見ても“キャー”って言わなかったんだけど」


 何だか不服そうな顔をしたリリーが戻ってきた。校内を散歩すると言っていたのは、生徒を探すためだろうとは思っていたが、どうやら誰も手を振り返したりしなかったらしい。学生艦の遅延で迷惑をかけたお姉さまたちが来ている、と、生徒は全員知っているはずだ。どんなミーハーであろうとも、キャーなどと言えないだろう。ダージリンが許すはずもない。

「もう、ルクリリお姉さまの時代は終わりました」
「おかしいわね。何だか腹が立つわ。折角、小切手持ってきてあげたのに」

 さっき、機嫌よくコーヒーを飲んでいるときに出しておけば、ダージリンが満面の笑みを返してくれたはずだ。そんなプンプンした顔でそう言うことを言うと、せっかく高く評価をしたダージリンが、この馬鹿に疑念を抱きかねない。と言うか、どっちがいいのかわからない。

「ルクリリお姉さまはお美しい方ですから。うちの生徒たちは緊張しているのでしょう」
「あら、ダージリン。可愛い顔して年上の扱いが上手いわね。ところで見送りには、1年生はいないの?」
 お迎えは勢ぞろいだったのに、見送りはダージリンとアッサムだけだ。どこに隠したのだろう。聖那が妹たちに、逃げろとでも言ったのだろうか。
「幹部候補生の3人には、正門でお見送りするように、立たせてあります。お好きになさってくださいませ」
「つまりそれは、持って帰ってもいいということ?」

 なぜ、そう言う解釈をされるのだろう。冗談に本気で突っ込むのも体力の無駄。聖那も麗奈も、もう、飽きたと言わんばかりだ。

「生憎、彼女たちには下船の許可を出しておりませんので」
「なるほどね」

 リリーは綺麗な真っ白い左手で、ダージリンの頭を撫でた。じっと見上げたまま、余裕のダージリンは動かない。アッサムの周辺だけ温度が上がっている………ような気もしないことはない。
「この髪型、愛菜に考えてもらったでしょう?」
「よくご存じで」
「まぁね。とても似合っているわ」
「ありがとうございます」
「あなたはいいわね、その瞳の色。そうやって微笑みながら睨み付ける瞳。愛菜が1年生の時と、そっくりだわ」
「私は、愛菜さまに育てていただいたので」
「それはよかった。麗奈も聖那も人を育てる能力がないから。特に麗奈。隊長にしてしまったことを、凄く後悔してるわ」


 あんたが言うな。


 どうして麗奈も聖那も、声に出して言わないのだろう。


「ルクリリお姉さま。これ以上口説いても、ダージリンには無駄です。小切手を置いて、もう船から降りますわよ」
 ふくらはぎを蹴飛ばしてやろうかと思いながら、ぐっと我慢して、出来る限り穏やかな口調を保った。自分で自分を褒めたい。
「………仕方ないわね。でもいいわ。可愛い後輩たちとお茶もできたことだし。聖グロは変わらず平和だと言うことも、この目で確認できたし」

 お姉さまは小切手を取り出して、ダージリンに見せつけた後に、1年生に渡すからと告げて車に乗られた。慌てて運転席に聖那が座り、助手席に麗奈が座る。別に、そんなに慌てることもないのに。

「また、電話するわね」
「愛菜さま、わざわざありがとうございます」
 ダージリンはホッとした笑みを浮かべくれる。隣でムッとしているアッサムの肩に手を置いて、まぁまぁとなだめ、リリーの隣に座り、ダージリンにドアを閉めてもらった。


「可愛い子を見つけた」
 正門では、本当に1年生3人が整列して、見送りに来ている。聖那は仕方がないと言わんばかりにブレーキを踏んだ。いそいそと窓を開けて、アイドルみたいに手を振るリリー。まだ、キャーって言われることを諦めていないなんて。でも、残念ながら硬い表情のまま、一礼されてしまう。

「ルクリリ」
「はい」
「私と同じティーネームね」
「は、はい!」
「さっきは怖がらせてごめんね。ちょっとだけ、3年生の反応をみたかっただけよ」
「私たちがご迷惑をおかけしましたので、殴られても致し方ありません」

 体育会系のように、はきはきと物を言うルクリリは、真っ直ぐにリリーを見つめていて、その大きな瞳はとても綺麗。目の色だけは、その真剣さだけは、ダージリンと同じものだ。

「あら?………ちょっと聖那、ドアが開かないんだけど」
「学生の貞操を守らなければなりませんので」

 リリーがドアをガチャガチャしているのは、どうやら運転席でロックして、出たくても出られないと言う事情があるらしい。聖那もたまには役に立つようだ。愛菜は心の中で拍手を送った。


「まぁいいわ。……ルクリリ、この小切手は、そこのローズヒップが病院まで連れて行って差し上げたと言う、ご婦人から頂いた物よ。OG会の幹事宛にわざわざ、お手紙付きで送ってくださったの。処罰などしないで欲しい、と。私がわざわざここまで来たのは、これを渡すためよ」


 それは初耳。


 そんなものを隠し持っていたなんて。何というか秘密兵器を出して、惚れさせるつもりだろうか。まさか小道具として用意した、なんて言うことはないだろうし。ズルい人だ。さっきダージリンにチラリと見せた小切手は、リリーの名義じゃないなんて。

「その、えっと、このたびは、ご迷惑をおかけしまして……」
 しどろもどろになりながらも、深く頭を下げる、1年生のまだまだ初々しい感じ。満足そうなリリーがどんな笑顔なのかはわからないが、きっとすごく楽しいに違いない。
「私たちは確かに、あちこちに謝罪に出向いて迷惑だったわ。でも、誰かの役に立つための行為だったのならば、仕方のなかったことでしょう。困ったご婦人がいるのに、放っておくような後輩の方が、よほど恥さらしですもの」

 ここぞと言う時に、カッコイイことを言うお姉さまを演じているような気もするけれど。というか、それはダージリンに言えばよかったことじゃないだろうか。本当、ズルい人だなと思う。もう、1年生たちがおメメキラキラ、尊敬しています、みたいな目でリリーを見つめている。

 これが欲しかったんだろうな、って。愛菜の溜息と麗奈の溜息が重なった。


「ありがとうございます、お姉さまがた」
「じゃぁね。次は、私と楽しくお茶をしましょう」
「はい!!」

 絶対、ウインク飛ばしている。その、後頭部を叩きたい衝動を何とか抑えながら、聖那に合図をしてゆっくりとアクセルを踏ませた。



「あ~、可愛かった。みた?あのキラキラした眼差し。初々しい高校生のあぁいう目っていいわね」
「…………小切手は、本当にそのご婦人からのものですの?」
「当たり前でしょう?何よ、その汚いものを見る目は」
「………ダージリンに言えばよかったのにっていう目です」
「あの子に?それは駄目。それじゃぁ、1年生たちが私の顔と名前を憶えてくれないわ」

 リリーと言う存在そのもの、一体どこまでが真面目で、どこからが冗談で、どこからが真実なのか。
 なんとなくわかっているけれど、何となくわかっているのは、たぶん、自分だけしかいないのだろうと思うと腹立たしい。


「………左様ですか」


 もう、何もかもがどうしようもないのだ。リリーはやっぱり、よくわからない人。

 なんでこんな人と付き合っているの?言いたそうな瞳と、バックミラー越しに重なった。聖那も麗奈も、たぶん、心から理解できないと思っているだろう。愛菜だってわからない。


 わからないから、傍にいるのだ。


「聖グロの制服ってやっぱり可愛いわね」
「………ルクリリお姉さま、大学を卒業したら、もう聖グロの学生艦に家を買えばよろしいんじゃないですか?」
「名案だわ、愛菜。それ、最高に名案!」
 学校のすぐ傍に一軒家を立てないと。そんなことを言う瞳は、いつも通りの適当発言をする時の色と同じ。真面目に突っ込んだりしないで、放っておくのがいいのだ。
「横浜で美味しい中華でも食べて帰りましょう。おごってあげるから。可愛いチャイナ服のお店、知ってるのよ」
 そこは、美味しいお店じゃないんですね。なんてもう、愛菜も聖那も麗奈も、突っ込んだりしない。



「愛菜」
 先にシャワーを浴びて、ベッドに潜っていた。リリーは寝る前の一服を終えたあと、当たり前のように愛菜の隣に寝転がってくる。
「リリー、今日は随分ご機嫌がよろしかったですね」
「だって、楽しかったもの。いい子たちね。愛菜が育てただけあるわ」

 小切手の送り主を隠していたこと、問い詰めてもよかったけれど、もう終わったことだしメンドウだと思って言葉を飲み込んだ。さっき、ダージリンからお礼の電話が来て、OG会にそう言う手紙が来たのなら、言って欲しかったと言われた。知っていたら、あんな風に厳戒態勢で挑まなかったのに、と。この女好きには厳戒態勢が正解だったのだ。愛菜自身も知らなくてよかったと思う。

「………リリー」
「なぁに?」
「明日は、どこかに女の子を捕まえにでも行くのですか?」
 日曜日になれば、どこかに消えることもある。愛菜が暇でも、朝からルンルンと着替えて、遊びに行ってしまう。それをどこへ行くの?とか誰と会うの?と聞いたことはない。聞けば、素直に答えてくれるだろう。だからこそ、確認を取りたくはなかった。そうやって、わかっていても知らない方がいいこともあると、やり過ごしていた。
「いいえ?何か、明日しないといけないことでもあった?」
「………いいえ」
 当たり前のように乳房に触れ、身体に乗りかかってくる。シャラシャラと流れる髪が愛菜の視界を奪う。その暗闇に落ちると、いつも、何か、いろんなことを考える回廊を遮断してしまう癖がある。今だけは、目の前の人のことを受け入れておこう、と。
「愛菜は明日、何か用事を入れているの?」
「別に。部屋を掃除して、買い物に出て、ゆっくり時間をかけられるような夕食を作ろうかな、と」
「とてもいい日曜日になりそうね」
「そうですね」
 頬に触れる唇の熱は、肌に吸い付いて、ゆっくりと首筋をなぞる。その背中をきつく抱きしめた。

「…………リリーは……」
「ん?」
「リリーは、明日、何か用事を入れていますの?」
「入れてないわよ」
「そうですか」

 噛むように鎖骨に触れる唇。爪を立てるように背中を抱きしめて、吐息を飲み込んだ。こうやってリリーに抱かれている間は、リリーが求めてくる間は、求めてなど来ない明日を虚しいと感じる必要はないのだ。それは本当に、明日になってからでいいのだ。


「愛菜」
「何ですか?」
 シャツを脱がしにかかる手に逆らわずに腰をあげて、腕をあげる。晒した乳房に縋るように顔を押し付けたリリーの冷たい髪が、素肌に当たってヒリヒリと痛みを覚えた。
「………麗奈たちは、私たちのことを知っているのでしょう?」
「言った覚えはありませんが、多分知っています」
「麗奈に聞かれたわ。愛菜は幸せですか、って」
 自分の体温で温められているネックレスは、リリーに身も心も捧げたと言う証でもない。欲しいと思ったものでもないが、外す理由も見つからないから、ずっと身に付けたまま。リリーが自分だけのものであると言う証でもない。外すなと言われても、外したくなれば外す日が来るだろう。そう思いながらも、結局、一日も外したことがなかった。
「………麗奈から心配されるなんて」
「あの2人は、凄く愛菜を大切にしているわね」
「………まぁ、長い付き合いですし」
「照れてる?」
「別に」
 互いに言葉で確認をすることなどしなくても、麗奈と聖那は当たり前のように愛菜の近くにいる。戦車道では、当たり前のように背中を預けてきた仲間なのだ。互いに助け合いながら、共に成長をしてきた。そこまで、心配されているとまでは思わなかったけれど。
「麗奈には、愛菜が幸せかどうか、私にはわからないと言ったわ」
「そうですか」
「愛菜は幸せなの?」
「………どういう意味での幸せですか?」
 舌で乳房をなぞりながら、見上げてくる瞳。真っ直ぐで、腹立たしいくらい綺麗。まるで、嘘など一度も付いたことがないような、そう言う瞳の色だから、余計に腹立たしい。

「恋や愛や、あるいは性的欲求を満たされているか、と言う意味での幸せかしら?」



 幸せって、何………


 思わず、声に出しそうになって飲み込んでしまった。


「………………質問をしながら、手を動かさないでください」
「だって、気持ちいいことをしておいたら、“幸せです”って言うんじゃないかと思って」
 ショーツの上から指先を押し付けてくる、その手を両足で挟んだ。ただでさえ鈍くなる思考回廊だと言うのに、簡単に誘導尋問をされそうで。別に不幸ですと言うつもりはないが、誤魔化されている気がして、そう言うのは嫌なのだ。


「それで、愛菜は幸せ?」
「………………リリーは、私を幸せにしていると?」
「私は愛菜を愛していることが幸せ。愛菜を愛して、愛菜をずっと好きでいて、愛菜を抱く。愛菜のいる部屋に帰って、愛菜の手料理を食べて、愛菜の匂いに抱かれて。それが幸せ。でも、愛菜は自分で幸せになる権利があるわ」
「それは……まぁ、そうですけれど」
「愛菜は何も言わないもの。愛菜は絶対に言わない。私にどうして欲しい、と言うことを言わない。愛菜が私に言うことは、何かを『しないでください』と言うことだけ。後輩に手を出さなで。煙草を吸わないで。愛菜の知り合いには手を出さないで。付き合っていることは誰にも言わないで。禁止事項ばかりね」

 言わせているのはリリーだと言うのに。すべて、言わなくてもわかってください、と言うことばかりなのに。愛菜は温もりを、それでも身体から引き離すことが出来なかった。リリーが言いたいことはわかっている。

「…………リリーを……リリーを縛るようなことはしません」
「そうね。あなたは、私に他の女の子と遊ばないで、と一言も言わないわね」
「………はい」
「いつになったら言うのかしら、って思って待っていたら、あっという間に5年よ?」
「…………そうですか」


 でもそれも、『しないでください』という禁止事項なのだ。それが一つ増えるだけで、それが本当の愛菜の希いなのかと言われると、それが受け入れられたら、愛菜は幸せなのかと言われると、それは違うような気がする。


「愛菜」
「はい」
「私は、愛菜だけが好きよ。愛菜だけを愛しているわ」
「……はい」

 嘘じゃないから嫌なのだ。
 それと女の子のところで寝て帰ってくることは、リリーの中では別の話だから。

「愛菜は私のことが好きなくせに、心のすべてで好きにならない言い訳を作るために、私が遊ぶことを見逃しているの?」
「……………わかりません」
「愛菜は幸せ?」
「…………不幸だと思っていません」
「誤魔化さない」


 愛菜が思う幸せとは何だろう。
 リリーは愛していると言葉に出して、必ず愛菜の元に帰ってくる。
 遊んだら、遊んだことを隠すこともせず、それでも愛菜に好きだと言う。

 愛菜は、それを不幸なことだと思わないでいる。
 縛りつけたりしないのだと。
 彼女のその生き方を、受け入れるべきなのだと。
 縛るほどの価値など、自分にはないのだから、と。
 理解することを望まれている。……はず、だと。


リリーが愛する人 ④

コーヒーが飲みたいだなんて。リリーは後輩たちを試して、どう対応するのかをただ、楽しんでいるだけなのだろう。それでも、ダージリンたちは受けて立つつもりなのだろうか。一体どうするつもりなのだろう。生憎用意していないと詫びて、ルクリリの茶葉で紅茶を淹れるのだろうか。

「少々、お待ちくださいませ」

 ダージリンに即されて席に着くと、アッサムとシナモン、ペコが姿を消した。お茶を用意しに行ったのだろう。

「この部屋も変わらないわね。そろそろ、肖像画の絵を私に変えてもいいんじゃないかしら?」
「紅茶がマズくなりますでしょう。それとも、開かずの間にしたいんですの?」
 暖炉の上に飾られているのは、創立者の肖像画だ。何も立派な功績など残していない、ただの女好きのリリーの肖像画なんて、誰が飾りたいと思うのだろう。

「お待たせいたしました」

 台車を引いた1年生とシナモンが、テキパキと紅茶とお茶菓子を並べて行く。リリーの前には黒々とした液体の入ったコーヒーカップが置かれた。
「あら、本当にコーヒーが来たわ」
「ブルー・マウンテンの豆を、先ほどミルで挽きました」
「そう。私もここにいた頃は、お気に入りのミルで豆を挽いていたのよ。紅茶が好きじゃなくて」
「そうでしたか」
 学生艦に乗り込んできたくせに、紅茶なんて飲みたくないと駄々をこねて後輩を困らせるつもりでいたのだろうか。とにかく、気を利かせたアッサムの勝利だ。譲ったミルが役に立ったようだ。元はリリーのものだけど。シナモンとオレンジペコは紅茶を配り終えて、一礼して去って行った。謝罪はダージリンとアッサムだけで対応するつもりなのだろう。賢明な判断だ。
「コーヒーがマズくなるわ。そんな緊張をしなくても、別に怒ったりしないわ。笑顔で楽しくお茶をしましょう」
 大好きなブルマンを目の前に出されたからか、リリーはとても機嫌よく微笑みを向ける。アッサムとダージリンは、それでも神経をとがらせたまま、何を言われても後輩を守ると言った気配を消そうとはしない。

「麗奈、この子たちのこの殺意のある目つきを何とかしなさい」
「ルクリリお姉さまがいなくなれば、消えると思いますけれど」
「何て失礼な子。私は別に文句を言うつもりなんてないわよ。終わったことをネチネチと言う性格ではないの。何でもあとくされない方がいいのよ。ねぇ、愛菜?」
「…………そうですね」

 学生艦をうろつきたいというだけのために、ここまで来たのは本当だろう。大義名分ができたから、むしろラッキーと思っているかもしれない。終わったことをネチネチ言わないと言うのは、リリーの良いところでもある。だから、とっかえひっかえに女と遊ぶことができるのかも知れない。


 今更ながら、どうして5年も一緒にいるのだろうか。


「きちんと謝罪をしなければ、私たちも気が気ではありませんの」
 ダージリンが真っ直ぐにリリーを見つめるから。そんな真面目な気持ちになる必要もないのに。こんないい加減な人相手に、と心の中で呟いた。
「ダージリンがここで謝罪をしても、私や麗奈たちが謝罪に走り回った時間は戻らないわ」
「………はい」
「ローズヒップは停学処分もなければ、転籍処分もなく、せいぜい下船禁止や草むしりくらいの罰しか与えていないのでしょう?」
「はい」

 リリーはブルマンの香りを楽しみ、そして一口飲んで満足そうに頷いた。よく、愛菜の部屋であんな顔をして飲んでいたのを思い出す。コーヒーは、人に淹れてもらうものが一番おいしいのだと。愛菜だけが、好みの濃さをよく知ってくれている、と。いつも言っていたから覚えているのか、それが嬉しいと思ったから覚えているのか。

「それがダージリンの判断ならば、特に私から何かを言うこともないわね」
「………はい」
「まぁ、船の遅延なんて前代未聞の失態ではあるし。そうね、……あなたが卒業したら、OG会の幹部に立候補しなさい。それで今回の件はチャラよ」
「わかりました」

 それは、ダージリンにとって好都合のような気がする。自分が面倒を見た後輩たちが活躍しているタイミングで幹事をするなんて、何でももみ消すことができるとなると、ダージリンもアッサムも嬉しいに違いない。

「どうしたの、愛菜。私のことが好きなの?」
 この人、馬鹿なのか優しいのかわからない。そう思って見つめていると、にっこりと笑顔が返ってきた。
「………随分、寛大ですわね」
「だって、2人とも可愛いもの。可愛い子に“こら!”って怒るのは趣味じゃないわ」
「左様ですか」

 ダージリンもアッサムも、本当にそれでいいのだろうかと、伺いを立てるように愛菜を見つめてくる。きちんとした報告書を作っているらしいが、リリーはたぶん、読まないだろう。
愛菜が受け取って、ダージリンを慰めてあげるしかない。

 まるで喫茶店にいるように足を組み、背を椅子に預けて、美味しそうにコーヒーを飲むリリー。複雑そうな顔で見つめ合うダージリンとアッサム。

「2人とも、ルクリリお姉さまがこうおっしゃっているのだから、もう、遅延の件は終わりよ。折角だから、お茶を楽しみましょう」
 そもそも来たくなかった麗奈は、冷え始めた紅茶を飲み、隣に座っているアッサムの頭を撫でた。
「いいわね、麗奈。私もさせて」
「絶対にダメです」

 リリーは、どこにいても何をしていても、リリーだ。どんなにカッコいいことを言っても、結局は可愛い子のためのポーズにしか見えない。自ら損を演じているのなら、もう、放っておくしかないだろう。心配していたダージリンたちの貞操の危機も、まったく激怒している様子が見えないのなら、守ることもできそうだし。
「頭を撫でるくらい、いいじゃない」
 リリーを睨み付けている麗奈の視線。それすら楽しそうだ。可愛そうに、ダージリンもアッサムも、紅茶に手を付けられないまま。この人のこれは、いつものことなのだけれど。そんなことを知らないダージリンとアッサムは、ブルマンがカップからなくなるまで、緊張のオーラを消すことはなかった。

「あの子たちは、とてもガードが固いわね」
「本能的に、危機を察知しているだけですわ」
「ねぇ、学生が全然見えないんだけど」
「非常事態宣言でも出して、ルクリリお姉さまから身を守るようにでもしているんじゃないですか?」
「あら、聖那。じゃぁ、聖那で満たそうかしら」
「あらやだ、ごめんですわ」
 紅茶の園を出たリリーは、せっかくだから散歩をしたいなんて言い出して、聖那の首根っこを捕まえて歩き出す。イヤイヤながらも麗奈が2人を追いかけて行くのを見送った。放っておいた方がいい。傍にいると、苛立ちで拳が飛ぶかもしれない。

「………愛菜さま、本当に謝罪はあれでよろしいんですの?」
「あの人がいいと言っているのなら、いいんじゃない?OG会は幹部の判断が総意とされるから」
 上のお姉さま方には、厳重注意をして怒鳴ってきたとか適当な嘘を言って、それで終わらせるだろう。資金提供も今の金額を維持する方針を変えることもないはずだ。
「そうですか。思った以上にお優しい方でしたわね」
「メンドウなだけでしょう。あの人、外面がいいのが取り柄で、それ以外は何もないから」

 良いところを見せて欲しいものだ、と思ったけれど。リリーの良いところは十分に発揮していたように見える。可愛い女の子には優しいという、そう言う良いところ。

「そうでしょうか?ルクリリお姉さまは、あんな失態を犯した後輩を、笑って許してくださいましたわ。身代わりに勝手に手をあげたルクリリに対しても、怯えていたローズヒップに対しても、とても、寛大でいてくださいました」
「………買いかぶりすぎよ、ダージリン」
 ずらりと並んだ可愛い子たちの前で、誰かに手をあげるなんて言うことはない。と言うか、どんなことがあろうとも、女の子に手をあげるなんて、それはリリーではないのだ。そのあたり、まったく気にしなかったので、冗談でどこかに触るんじゃないかと少しだけハラハラしていたが、思いのほか本気にしたアッサムと麗奈の行動を見て、愛菜が止めればよかったと反省した。あの場で、安心してその冗談をさらりと受け流したのは、愛菜だけだったようだ。

「ルクリリお姉さまはOGにしては珍しいほど、お優しい方ですわね」
「………ダージリン、人を見る目がないわ」
「そうでしょうか?」
「気を付けなさい、そう思わせるのも手よ」

 愛菜はダージリンの肩を叩いて言い聞かせたが、眉をひそめて見つめ返してくる。すっかり、騙されているのではないだろうか。


「ルクリリお姉さま、いつまでもそうやって調子に乗ったままだと、いつか指輪の彼女に捨てられますわよ」
 学校の中を歩き回っても、休日のせいで制服の生徒は見当たらなかった。ルクリリお姉さまはつまらなさそうにしながらも、久しぶりだからと、戦車倉庫へと歩みを進めていく。
「大丈夫よ。だって私が愛しているのは、たった1人だけだもの。じゃなきゃ指輪を嵌めたりしないわ」
「………そのことはその彼女に、伝わっていますの?」
「どうかしら?でも、私の帰る場所は1人しかいないの」
 それがどうして、愛菜なのだろう。1年の頃から生真面目で、優等生で、わりと固い人だった愛菜を、どうやって口説き落としたのだろう。思い出してみようとしても、ルクリリお姉さまが誰かの目がある場所で、愛菜を可愛がったり愛菜を口説いたり、冗談で頭を撫でるなんて言う姿を、一度も見たことがない。調子よく誰かの頭を撫でる姿は嫌と言うほど見てきたが、制服姿の愛菜にルクリリお姉さまが触れている場に、遭遇した覚えがない。ルクリリお姉さまの適当な言動に、愛菜が切れるところなら嫌ほど見てきたが……。もしかしたら、それだけずっと前から本気だとでもいうのだろうか。
「ルクリリお姉さまの彼女は私たちにとっても、大切な友人です。あまり、悩ませるようなことを続けるのなら、私たちは本気で軽蔑します」
 もうすでに、わりと軽蔑した視線しか送らない麗奈が、珍しくきちんとルクリリお姉さまに面と向かって告げた。アッサムやほかの後輩に手を出そうとするのを目の当たりにしたから、放置できないとでも思ったのだろう。と言うか、そう言うカッコいいことは、もっともっと早い段階で言えばいいのに。

「あの子が悩んでいるかどうかなんて、知らないわよ。私は彼女を愛している、それだけよ」

 愛菜は何も2人に語ってなどくれないのに。

 呆れたため息を繰り返すだけで。呆れた小言を呟くだけで。でもそれは、ルクリリお姉さまが目の前にいるときだけだ。友人として、愛菜が1人で、何かに思い悩んでいるということを、感じたことはない。普段、愛菜がルクリリお姉さまと付き合っていると言うことなど、感じないくらい、愛菜は特定の誰かがいると言う様子を身にまとってなどいないのだ。
 愛菜の相手が、ルクリリお姉さまだと言うことに気が付いたのは、大学に入ってから。ルクリリお姉さまが指輪を付け出した頃、愛菜が同じブランドのネックレスを付けるようになった。毎日、ずっと同じものを。
「本当に愛しているのなら、真っ直ぐにその人だけを見つめたらどうですか?」
「言ったでしょう?私が本気で口説いたのは、この子が初めてで、最後よ。真っ直ぐ見つめるのも、この指輪の彼女だけ」

 愛と言うものについて、ただ、聖那と価値観が違うだけなのだろうか。ルクリリお姉さまの余裕がある微笑みは腹立たしいと思っているはずなのに、それでも愛菜を愛していると言う、その言葉だけは本物のように思えた。ルクリリお姉さまが愛菜を選ぶのは自由だけれど、それでも愛菜もまた、この女好きの遊び人と別れない道を選んでいるのだ。生真面目で、優等生で、曲がったことが嫌いなはずの愛菜には、同じように生真面目に愛菜だけを見つめる人の方が、絶対にいいはずなのに。


「ルクリリお姉さま。…………愛菜は幸せですか?」

 麗奈は少しだけごくりと喉を鳴らして、それからきっといくつかの想いを語る言葉の中から、もっとも最適だと想えるものを選んだようだ。他人に無関心で、必要以上の交友関係がない麗奈にとって、愛菜は大切な親友と呼べる人。高校生の頃はいつもガミガミ言われていたし、仕事を丸投げしていた。今も何かと世話を焼いてくれる人だけれど、それでも、麗奈と愛菜は、ちゃんと親愛の関係を築いている。もちろん、聖那も。

 ずっと幸せでいて欲しいと願う。幸せな恋をしていて欲しいと願う。

「愛菜?さぁ。愛菜のことを私に聞くのは筋違い。それは本人に聞きなさい」

 相変わらず、愛想の良い微笑みでいらっしゃる。聖那も麗奈も大真面目な顔をしているけれど、それがお気に召さないのか、ルクリリお姉さまは2人の腕を掴んで、久しぶりにチャーチルにでも乗りに行こうなんて、声をあげて足取り軽く歩かれた。

 もしかすると愛菜は、聖那たちが考えているほど不幸じゃないかもしれない。

 ルクリリお姉さまは、ハッキリと愛菜の親友に向かって“彼女を愛している”と言い切ったのだ。そんな言葉を使うなんて、ズルいなって思うけれど。

「あの…………チャーチルの倉庫はそちらじゃありません、ルクリリお姉さま」
「だって、こっちから女の子の匂いがするんだもの」

 倉庫の奥、ずっと向こう。青い制服姿がちらりと見えたのを見逃さなかったルクリリお姉さまは、スキップする勢いで止めようとする2人にお構いなく、真っ直ぐ突撃するのだった。

 しんみりと、少しルクリリお姉さまを見直した1分くらいを返して欲しい。

リリーが愛する人 ③

「……あの、私たちが船を下りて、謝罪に向かうつもりなのですが」
『OG会の幹事のお姉さまが、どうしても学生艦に行きたいと言って譲らないの。致し方がないわ。紅茶の園で適当にお茶をして、出来る限り早く引っ張って帰るようにするから』
「わかりました」
『よろしくね』

 横浜港に戻ってきた学生艦。連隊で責任を感じているのか、戦車道1年生は全員降りることなく、せっせと朝から街の掃除のボランティアに出て行った。それに付き合う形で、2年生の戦車道の生徒、更には整備科の1,2年生も掃除に出て行ってしまった。アッサムの教育がいいのだろう。誰か1人を見捨てたりしない、彼女たちはローズヒップがしでかしたことを、自分のことのように受け止めて、そして、罪を共に背負っている。

「アッサム、3人を呼び戻して。あと、バニラとクランベリー、2年生の3人も。シナモンとグリーンもよ」
「わかりました。お姉さまたち、やはり乗り込んでこられますのね」
「幹事のお姉さまの希望らしいわ」
「輸入船の御会社に出向いていただいたそうですし、嫌だとも言えませんわね」

 今年はルクリリお姉さまが幹事をされている。ダージリンが1年生の頃、何度か突撃してこられたことがある。生徒たちは悲鳴をあげて、寄ってたかって写真を撮って、とてつもない人気だった。麗奈さまは不愛想で、そう言うことに笑顔で応じない人だったが、その真逆のような、サービス精神旺盛なお方。悲鳴をあげる子の頭を撫でて、手を握りしめていたのを覚えている。

「陸地での厄介ごとは、ルクリリお姉さまが処理をしてくださったそうよ。丁寧に頭を下げて、機嫌を損ねることなくお帰りいただきましょう」
「はい」
 アッサムや後輩たちの手を握るようなことをしたら、ダージリンはどう対応すればいいのだろうか。とはいえ、後輩たちも喜ぶかもしれないし、お互いにそれで場が和むのであれば、心配するほどのことでもない。むしろ、身構える態度を見せずに、愛敬を振り撒いて楽しんで帰っていただいた方が、今後の資金提供のことを考えると………。いや、こちらは謝罪する側なのだ。下手に利用などするべきではない。

「ダージリン、どうされました?」
「いえ………あなたは気を付けなさい、アッサム」
「何のことです?」
「何でもないわ」

 取り越し苦労にならなければいいのだけれど。


「聖那、もっとスピードを出して」
「お言葉ですが、学生艦の中の制限速度は30キロですわ」
「可愛い子たちが待っているのよ」
「恐怖に震えながら待っているんですわ」
 後部座席から背もたれを蹴られた聖那は、それでもスピードを上げずに久しぶりの学生艦の道路を走っていた。チラホラと、学生服の子たちが道路の清掃をしている姿が見える。ボランティア活動中なのだろう。あるいは、ダージリンがわざと命令して、ポーズとして見せているのかも知れない。
「制服の青が眩しいわね。みんな可愛い」
「お姉さまは、何をしにここまで来られましたの?」
「可愛い子を愛でに来たわ」
「左様ですか」
 同じく後部座席に座っている愛菜は、とても冷たくあしらっている。止められる自信がないから、と言われてはいるが、何だかんだと言いながら、ルクリリお姉さまだって、キチンと線を引いて遊びを楽しまれる人だと信じている。たぶん、信じていないのは愛菜だけだ。信じてもらえないような行動を取る方が悪いので、擁護するつもりはない。
「ルクリリお姉さま、学生に手を出したら、流石に私も軽蔑しますし、直ぐにアッサムお姉さまに通報いたしますので」
「麗奈、あなたは元から私を軽蔑しているでしょう?」
「そうですね」
「じゃぁ、何の問題もないわね」
 いつの時代も、隊長同士は仲が悪いものだと言うのは知っているが、麗奈はそもそも上級生の誰とも仲がいい訳じゃない。仲良くしてくれとは思わないが、後輩たちの前ではいがみ合わないでいてもらえたら助かる。

「あら、お出迎えだわ」

 学校の門をくぐり抜け、真っ直ぐに紅茶の園がある場所へ車を走らせると、ダージリンを筆頭に、ずらりと生徒が並んで待っていた。

「番号の付いたシールを胸に張っていてくれたらいいのに」

 並んでいる生徒の中に、妹が見えた。妹の幼馴染の子もいる。あぁ、本当に手を出さないでくれるだろうか。信じている心が揺らいでしまう。
「ルクリリお姉さま。あなたはOG会の幹事としてここに来たんです。仕事をしてください」
 愛菜は念を押すように、とても静かな声でそう告げた後、一番に車を出た。それに続いて降りると、一列になった少女たちが、一斉に深々と頭を下げる姿。

「本来なら、こちらから出向いて謝罪をするべきところ、わざわざお越しいただきまして」
「いいのよ。久しぶりに学校の様子を見ておきたいと思ってね」

 早速、満面の笑みを浮かべたルクリリお姉さま。おおよそ、その笑みだけで多くの若い子は頬を赤く染めるのだけれど、誰ひとり、引きつって怖がっている表情を緩めることがない。遊びに来たわけじゃないと言うことを、十分認識しているのだろう。
「そうですか。今回のトラブルにつきまして、報告をさせていただきますので、ティーラウンジへどうぞ」
 ダージリンは淡々と告げて、手を紅茶の園へと向けた。そう広くはない場所だから、お迎えのメンバーとはここで切り離すのだろう。とても懸命なことだ。
「待ちなさい。先に用事を済ませたいわ。問題を起こした子はどの子?」
 ルクリリお姉さまは、ダージリンたちが問題児を紹介するつもりがないと言うことを読んでいるのだろう、後輩たちを追い払おうとするダージリンの視線を制した。


「は、はい!私です!」


 手をあげたのは、聖那が知っている“ローズヒップ”ではない子だ。確か、ルクリリ。目の前の人と同じティーネームの1年生。当の本人である、“ローズヒップ”は、びくびくしながら、アッサムの背中に隠れていた。これは、何か打ち合わせをしているのだろうか。


「なかなか、可愛い子ね。凄く頭が良さそうに見えるけれど、あなたが本当に横浜で迷子になったの?」
「はい。ご迷惑をおかけいたしました」
「そう。じゃぁ、私の休日を潰した責任は取ってね」
「はい」
 一体、何をされるおつもりかしら、と見守っていると、右手が勢いを付けるように上がるから、ぎょっとした。女は愛でるものっていう主義のお方なのに、何を考えておられるのだろう。よほど、その時間に遊んでいた女が惜しかったとでもいうのだろうか。

「そう言う誠意が欲しいのでしたら、責任者である私を叩いてください」

 右手が上がると同時に、アッサムが盾になるようにルクリリの前に立ちはだかった。そうなると、麗奈も黙っていられるはずがない。

「お姉さま、アッサムに手をあげたら警察を呼びます」

 麗奈は、いっつもそう。

 本当にギリギリになるまで何も動こうとしない。だから、ダージリンに殺意のある目で睨み付けられるのだ。

「ただ、右手を上げただけよ?私と“ルクリリちゃん”のスキンシップを邪魔しないでくれるかしら?」

 名乗り出た1年生が“ルクリリ”だと言うことは、分かっているようだ。分かっていて、なお、その度胸を試そうとしたのなら本当に最低。愛菜はもう、赤の他人のフリをしている。  
それにしても、肝の座った1年生だ。じっとルクリリお姉さまを見上げたまま、ひるむ様子もなかった。

「さて、では楽しく“コーヒー”を飲みましょう。謝罪も報告書もいらないから、色々と面白い話を聞かせてちょうだい」

 お姉さまは、取りあえずあげた右手で麗奈の肩をポンポンと叩いた後、すぐ目の前のアッサムの髪をあいさつ代わりに撫でて、一足先にティーラウンジへと歩み出した。

「お姉さま」
 ダージリン、アッサム、シナモンが後に続き、追いかける生徒は身体の小さなオレンジペコだけだ。怯えた顔で妹が聖那の腕にしがみ付いてきた。目が、ルクリリお姉さまが怖いと訴えてきている。どんなに満面の笑顔でも、仲間がトラブルを起こしたことで学校に来たのだから、気持ちがいいことではないだろう。
「久しぶり」
「お姉さま、ダージリン様たちは大丈夫ですか?」
「命までは取らないわよ」
「でも………」
「あらやだ、大丈夫よ。あなたたちは安全地帯にいなさい」
 大丈夫、と言いながら妹たちは逃げろと言っているのは何か矛盾しているとは思うが、血の繋がった妹の方がずっと大事なのだ。麗奈の気持ちもわからないわけではない。いざとなったら、愛菜が何とかするはず。


たぶん。



リリーが愛する人 ②

「……………ルクリリお姉さまが怒るわね」
「本当に学生艦に乗り込んでも、私は止められないわよ」


 聖グロの、1年生になったばかりの子が、陸地で行方不明になったと連絡を受けて、鉄道各社の駅に保護の依頼をするようにとグリーンに指示しながら、愛菜はげんなりとため息を吐いた。どうして今年の幹事があの人なのだろう。票を投じたのは、やりたくない麗奈やアッサムお姉さま。チャーチル会から幹事を選ぶと言う習慣もいい加減、やめてもらいたいものだ。当然歴代の隊長がなるのが自然な流れになるし、そうなると、おおよそまともな人というのは限られてくる。連続は2期までなので、残り物から選ばざるを得ないとなると、選ぶ余地がほとんどない。麗奈はアッサムお姉さまとタッグを組んで、いろんな人間を説得して、リリーに投票したそうだ。


「麗奈、たまには役に立ちなさいよ」
「ルクリリお姉さまの幉を引いているのは、愛菜でしょう?」
「私じゃないわよ。アッサムお姉さまよ」

 とはいえ、アッサムお姉さまはとても潔癖で生真面目すぎるほど生真面目なお方。リリーと真反対だったので、高校の頃から仲がいいとは言い難いのだ。割と、鼻つまみ者みたいにリリーを扱っておられた。何度か、本当に除菌スプレーをリリーに掛けていたのを目撃したことがある。正常の行為かも知れないが、群を抜いて人気の高かったリリーを隊長にせざるを得なかったのは、不幸なことだといえる。


「あのお方、今、ロンドンよ」
「……そうだったわ」


 アッサムもダージリンも、後輩への罰は与えないでくれと言わんばかりに、1年生たちの前に立ちはだかっているものだから。それはそれで、立派になったものだとホッとするが、OG会はOG会で、今回のことを無視はしないだろう。聖グロの戦車道の名を傷つけ、横浜の鉄道会社や、輸入船の入港を遅らせたことも合わせて、聖グロの学生艦としてのペナルティが教育委員会から課せられる可能性もある。となれば、自分たちの経歴に傷がついたと言って、OG会も怒るだろう。私立校でもある聖グロは、卒業生からの膨大な寄付があるから、見栄を張って優雅に微笑んでいられるのだ。聖グロ出身と言うのは、それだけで箔が付くから、代々皆、名を汚す行動は出来ずにいた。もちろん、後輩たちはこれから通る道なのだから、失態を犯すことができない。お金も出すし口も出す。それが聖グロのOGだ。一番やかましいのが戦車道のOG。

「…………さっきから、ずっと携帯電話が鳴りっぱなしなのよ」

 慌てて電車で横浜へと戻る後輩たちを見送った後、ずっとポケットで鳴り続ける携帯電話を取り出した。見たくもない「ルクリリお姉さま」という名前。

「あらやだ、ルクリリお姉さまじゃない?」
「………聖那、あなた電話に出て」
「嫌」
「クルセイダーの子でしょう?」

 耳を塞いで逃げた聖那に、腕を組んだまま動く気のない麗奈。上も下も、みんな愛菜を困らせる。本当に、このやりきれない思いをどこで解消しろと言うんだろう。


「………ルクリリお姉さま」
『愛菜、女の子たちが私の携帯を鳴らしまくりだわ。今日の私ってモテキ?』
「………そうですわね」
『戦車道のお姉さま方がうるさいんだけど、キスして黙らせる方法がいいかしら?それとも抱いておく?』
「………そうですわね」
『何事なの?問題を起こした子は何人?』
「さぁ、5人くらいでしょうか」
『全員、裸にリボンを付けて私の前に連れてきなさい』

 この人、怒っているのか楽しんでいるのか、OG会の仕事をする気があるのか。みすみすダージリンを差し出すわけにはいかないだろう。本当に、キスくらいしそうだし。そうなれば、アッサムは殴りかかるかもしれない。アッサムを怒らせたら、麗奈も困り果てるだろう。

「もう、迷子は今、学生艦に向かっておりますわ。ダージリンからも関係各所に謝罪をいれさせますし、お姉さまは輸入船の御会社に謝罪に出向いてくださいませんこと?」
『ご褒美は何をもらえるの?』
「ご冗談を。ルクリリお姉さまのお仕事です。問題が起こった時に対処するのが幹事ですわ」
『幹事になったら、可愛い子からモテまくりって言っていたのに、学生艦に乗せてくれない上に、謝るのが仕事?話が違うわ』
 誰から聞いた話なのだろうか。ちらりと麗奈を見て見る。相変わらず視線を合わせようとしない。どうせ、アッサムお姉さまや麗奈にうまいこと言われたに違いない。リリーは自分から面倒事を引き受ける性格ではないが、辞退もしなかった裏には、甘い汁を吸えると騙す悪い奴らがいたと言うことだ。麗奈はさっさと聖那と電車に乗ろうとしている。自分たちの可愛い後輩が、リリーに何をされてもいいとでも言うのだろうか。


「5つも下の子に手を出したら、犯罪ですわよ?」
『あら、合意があれば問題ないわ』
 合意してくれる相手だと思っているあたり、幸せな脳みそでいらっしゃる。
「軽口は結構ですわ。とにかく、御会社に出向いてくださいませ。私たちは鉄道会社に謝罪に向かいます」
『向かっている間に、状況の簡単な説明をメールに入れておいて。意味も分からず謝罪するこっちの身にもなりなさい』
「わかっておりますわ」

 どうせ、お姉さまは暇な時間をどこぞの女の子と遊んでおられたに違いない。邪魔をされて不機嫌なだけだ。謝罪に行かなければいかないで、もっと上のお姉さまたちがリリーの携帯電話を鳴らすのだ。年上のお姉さまには手を出さない、むしろ苦手なリリーは、謝罪に出向く以外、道はない。


「愛菜、ルクリリお姉さまは?」
「謝罪に出向いてくれるみたい」
「そう。私たちは取りあえず回れるだけ、各駅に行きましょうか」
「………仕方ないわね」

 3人でバラバラになり、取りあえず協力を依頼した駅の1つ1つに出向いた。その合間を縫って、リリーの携帯に迷子事件の簡単な経緯を報告する。絵文字で怒っているものが送られてきたけれど、ちゃんとスーツに着替え直して、東京にある輸入船の会社に出向いてくれるそうだ。後が怖い。


謝罪行脚が終わった頃、おそらく学生艦内の謝罪行脚が終わった様子のダージリンから、疲れ切った声の電話がかかってきた。
『本当に、ご迷惑をおかけしました』
「まったくだわ」
『……OG会のお姉さま方は?』
「まだ、話しをしていないわ。幹事は何とか説得しておくわ。資金が止められることはないと思う。試合に出てもらわないとそれはそれでOGとして困るもの。だから、ちゃんと結果を出しなさい」
『もちろんですわ』
「アッサムは?」
『部屋で休ませています。ローズヒップを溺愛しているものですから、かなり気が動転していたみたいですわ』
 本気で後輩の頬を叩く、あのアッサムの姿。心配で心配で仕方なかったのだろう。無事に学生艦に戻れて、ホッとして気が抜けてしまったに違いない。
「可愛そうに。アッサムも気苦労の絶えない子ね」
『改めて、お姉さま方にも謝りに行きますわ』
「そうね。麗奈もアッサムのことが心配みたいだから、また戻ってきたときに会いに行くわね」
『幹事のお姉さまにも、直接謝罪をしないといけません』
「あぁ……えっと、そうね」
『取り急ぎ、メールで報告をさせていただきますが、報告書を作成して、準備が整い次第、横浜に謝罪に戻ります』
「………わかったわ。幹事のお姉さまには私から伝えておくわ」
『お願いいたします』 
 しなくていい、とは言い切れずに、愛菜は電話を切った。麗奈はアッサムに電話をしても出ないと言っていたが、ダージリンの言い方だと、多分、寝込んでしまっているのだろう。

「どうする?ダージリンはルクリリお姉さまに謝りたいそうよ」
「当たり前のことよ。土下座じゃない?」
 麗奈は自分には関係ないと言わんばかりだが、ダージリンはおそらくアッサムを連れてくるだろう。ダージリンもヘタレなところがあるし、アッサムはダージリンを1人で行かせないだろうし。そうなれば、アッサムを守るには、麗奈もその場に行く必要がある。クルセイダー部隊の失態なのだから、クルセイダー会のOGである聖那だって無視はできないはずだ。

「………仕方ないわ。覚悟を決めて、ルクリリお姉さまとダージリンたちを会わせましょう」
「ダージリンの初めてが、アッサムじゃないなんてかわいそう」
「聖那、………笑えない」
 麗奈が腕を組んで、割と本気な声で呟く。愛菜もそんなまさか、って言ってあげたいところだけれど、それは本当に、リリーの激怒の具合に寄るだろうし、ダージリン、あるいはアッサムがリリーの好みかどうかにもよる、としか言いようがなかった。
「そうなったら全力で止めてね、愛菜」
「出来る限りは頑張るけれど、無理そうなら、聖那が犠牲になったら?」
「嫌よ」
「元は、クルセイダー部隊の子の失態なんだから」
「私、麗奈以外の女とは寝ないし、他の女と遊ぶ人って嫌なの」

 愛菜は別に、それを許しているわけでもない。というか、そういう問題じゃない。
 もう、色々と突っ込みたいところだけれど、この後、部屋に帰ってからリリーの相手をしなければならないのだ。体力を残しておきたい。


「似合う?」
「…………えぇ、まぁ」
 大学指定のスーツを着たリリーは、愛菜よりも遅くに帰ってきた。22時を回っているのだ、きっと、あちらで謝罪ついでに食事でも行って来たのだろう。若い大学生が謝りに来て、会社のおじさんたちも気を悪くはしないだろうし。
「父親よりも年上のおじさまたちと飲んでも、全然美味しくないわね」
「お疲れ様です」
「疲れたわ。どうせなら、女子校の学生艦の遅延だったらよかったのに。ヘリを飛ばして謝りに行ってあげたわ」
 お酒の匂いをスーツに付けたままだ。ジャケットを脱いで愛菜に放り投げてくるのを受け取り、そのままスカートも蹴散らしたから、拾い上げた。パンストもガードルも、脱いだまま廊下に放置。摘まんでネットに入れて洗濯籠に放り込んだ。
「愛菜、煙草をどこに隠したの?」
「キッチンの引き出しです」
「キッチンに入るなって言うくせに、そんなところに入れて」
「はいはい」

 愛菜はシャツとズボンを渡し、窓を開けてから、灰皿と煙草をテーブルに置いた。20歳の誕生日にがぶがぶとお酒を飲み始め、ヘビーではないが、煙草を吸われている。曰く、女と酒と煙草はセット物、だそう。愛菜の賃貸マンションなのだから、吸わないでくれと言うことは伝えてあるが、何かしら、不機嫌を背負ってきたときは、こうやって吸うことを許可してしまう。灰皿も愛菜が買った。

「入港の遅延では、特に損害請求するつもりはないそうよ」
「そうですか」
「世界的にも名のある会社だもの。学生艦相手に、そんなことは出来ないでしょうね」
 謝罪に来たのがOGの大学生で、しかも、見た目だけだとモデルと言われても納得の美人なのだから、相手も鼻の下をのばして、許さざるを得なかっただろう。
「1本だけにしてくださいね」
 高そうなライターで火を付けて、勢いよく白い煙が吐き出される。愛菜はグラスにミネラルウオーターを入れて、テーブルに置いた。
「可愛い後輩ちゃんたちに、どんなお詫びをしてもらおうかしらね」
「軽口叩いてないで、幹事らしくしてください」
「可愛い子にしおらしく謝られると、強く言えないわよね」
「………役立たず」
「スーツ着て謝りに行ったのよ?役に立ってきたじゃない」
 幹事なんだから、当たり前。とは言わなかった。はいはいって、流しておいた方がいい。





「………リリー」





 煙草を3口だけ吸ってもみ消したリリーの白いシャツ。愛菜は腕にしがみ付いて顔をその肩に押し当てた。

「あら、珍しい」
「ダージリンもアッサムも、本当によくできた後輩ですから、あの子たちには手を出さないでください」
「しおらしい声をして甘えてきたと思えば。言いたいことはそれなの?」

 愛菜の知らない女を、リリーが抱くのはリリーの自由だ。リリーの両手を縛る価値を、自分に見いだせない。だけど、聖グロの後輩はやめて欲しい。聖グロの子だけは、絶対に手を出さないで欲しい。それだけが愛菜の願いだ。

「本当に、あの子たちは私の大切な、可愛がってきた後輩ですの」
「私に謝罪に行かせるくらい、大事にしているみたいね」
「えぇ」
「愛菜が高3の時は、全然、会いに来てくれなかったわね。あの頃はおかげで、モテまくりだった」
 学生艦にいた愛菜と、東京の大学に通うリリーとでは、本当に会う回数は少なかった。あの頃、それはそれで、適当な遊び相手が沢山いたに違いないし、愛菜は愛菜でダージリンたちの面倒を見ることで忙しかった。あの時、自然消滅してもいいかなと思っていたが、リリーは待っていてくれたのだ。同じ大学に入ることを知った時、とてもうれしそうに電話をくれたから、温度差が申し訳ないと感じたのを覚えている。
「今もでしょう?」
「言い寄ってくる可愛い子は、お断りしないだけよ」
 煙草の匂いの残る左手で愛菜を抱き寄せたリリー。その膝の上に乗り、食事を取り忘れて疲れた身体を押し付けた。背中を抱く手は当たり前のようにシャツの中に侵入してきて、当然の様にブラのホックを外してくる。

「リリーに言い寄ってくる可愛い子は、一体何を目的に?」
「抱いてもらいたいんじゃないの?彼氏がいる子なんかもいるし」
「………指輪、はめたままなのでしょう?」
「そうよ。愛しい恋人がいるって言うと、7割くらいの子は何もせずに勝手にいなくなるかしら。2割は奪ってやるなんて言うのよね。だから残り1割を抱くわけよ」
 
リリーは自称「自分からナンパをしない」し「自分からはベッドに誘うこともない」。それを信じるとか信じないとか、そう言うことで悩むのは、もう随分昔にやめたこと。放っておけばいい。リリーのすべてを欲しいなんて思わないのだから。第一、恋人になってくれと愛菜がお願いしたことは一度もないのだ。勝手に恋人気取りをして、勝手に愛菜にまとわりつくようになったのはリリーの方。

本当は、愛菜が知らないだけで、女が何人もいて、愛菜はそのローテーションの中の1人かもしれない。そんなことを、1人の夜にふと思うことがある。


「………リリーは、聖那と麗奈のことはどれくらいご存じですの?」
「あの2人?目が好き好きっていうビームを出しているわ」
「えぇ、まぁ」
「相当前から、色々あるでしょう?聖那が麗奈にほれ込んでいるみたいだし」
「えぇ。本当、あそこはとても一途ですわ」
「そう」
「後輩たちも、それぞれ想い人がちゃんといて、純愛を貫いていますの」
「そうなの………まるで私たちみたいね」
 煙草の匂いを付けた手で、愛菜の乳房を包み込みながら、相変わらず調子の良いことを言うんだから。
「リリーだけが小汚いです」
「小汚いって、いい方酷いわね」
「失礼。とっても、汚らわしいで……」

 口紅が薄くなった唇が、同じように口紅が取れてしまっている愛菜の唇を覆う。煙草の残り香に、眉をひそめて。だけど、押し返せずに受け止めた。

「で?その汚らわしい人としか、キスしないのは誰?」
「………私が、リリーだけとしかキスしたことがないとでも?」
「愛菜がそう言う性格だと言うことは、重々承知しているもの。じゃなきゃ、本気で口説き落としたりしないわよ。もう5年の付き合いよ?」

 自分にとって都合がいい女が欲しいのならば、リリーは特定の誰か1人を傍に置いたりしないだろう。高校の2年間は、ほとんど毎日のように、愛菜の部屋に突撃してきては、歯の浮くセリフで口説き、ご飯を作らせて、一晩中手を握られていた。可愛い子は聖グロにも沢山いて、告白も頻繁に受けている割には、リリーは気持ち悪いくらい、毎日愛菜の部屋にやって来て、好き好きと言って来ていた。お互いに、誰にも言わないという約束の元、気が付いたら、リリーといて5年になる。

 愛菜はリリーしか知らない。リリーに教えられた通りのセックスしか知らないし、リリーの唇以外と触れ合いたい欲はない。女が好き、とか、男が好きとか、多分そう言う感情を抱こうと思えないのは、リリーが傍にいるせいだ。

 必ず、愛菜の元に帰ってきてしまうから。

 リリーが初めてじゃなければ、もっと普通の感覚でごく普通の恋愛ができたのかも知れない。そんなことを想っても、もう遅いのだ。好きと言われ、押し付けられ、受け入れるよりも早く、リリーの素性なんてわかっていた。

「…………リリー、お風呂に入って、煙草の匂いを洗い流してきてください」
「その後、ベッドで遊ぶ?」
「そうですね」

 胸の谷間に顔を埋めて、愛菜の服に押し付ける煙草の匂い。両手で拳を作り、そのこめかみを抑え込んだ。





リリーが愛する人 ①

“リリー”こと、ルクリリお姉さまは、“オレンジペコ”の前では、必ずブラックコーヒーを飲まれるお方だった。バニラにいつもマズい紅茶を淹れるんじゃないと言う割に、ただ、お姉さまは紅茶そのものが、お好きではなかったから、更にマズく淹れるバニラの紅茶を、本当に嫌そうにしておられた。

 オレンジペコは聖グロの寮ではずっとミルを隠し持っていて、3年生になった時、隠れコーヒー党のアッサムにそれを譲った。今も多分、アッサムは使っているだろう。



「愛菜、おはよう」

 …
 ……
 ………



「………リリー、スッキリさっぱり、どこでお風呂に入って来られましたの?」
「さぁ?暗闇の中、タクシーで向かった女の子のマンション。場所は酔っていたからわからないわ。あ、でも、うちの大学の子じゃないらしいわよ」
「………左様ですか」

 煙草とお酒の匂いをプンプンさせて、夜中に勝手に作られた合鍵で入って来られるよりは、朝にシャワーを浴びましたと言う感じの方が、同じ不快でも……違うような気がしないような。

「あ~い~な~。今日は講義が昼からだから、今からベッドで遊びましょう」

 すでに服を着替え終わって、朝からの講義を受けるためにお弁当を作っている最中だと、見てわかるだろうに。エプロンもしているし、菜箸を握りしめたままの姿の、何を見ているのだろう。

「あいにく、私は1限目から講義がありますのよ」
「さぼりなさいな」
「嫌です」
「名前も知らない可愛い子で遊んだ手を、綺麗にするのはあなたの仕事でしょう?」
「汚らわしい手で、触らないでくださいませ」

 菜箸で目を突いてやろうかと言う気持ちを押し殺して、オーラだけは見せつけたものの、遠慮なく後ろから抱き付いて胸をわしづかみするリリー。真っ白ですべすべした左の薬指には、無理やりに買わされた指輪が嵌めてある。愛菜は同じものを持っていないが、同じブランドのネックレスを強引に付けさせられていた。別にお揃いでもないから、それだけで何か怪しまれるものではない、はず。

「愛菜~~、いい匂い。お弁当、私の分も作っておいて」
「お昼から講義なのでしょう?」
「だから、ここで食べてから行くわ」
「………でしたら、作る時間が減りますので離れてください」
「あと10回揉んでから」

 1,2,3,4とイチイチ声を出して胸をエプロンの上から揉んでくる。焦げくさいだし巻き卵のフライパンから、熱し過ぎた煙が薄く立ち上る。火を消して10を待つと、そっと離れたその身体に、渾身の肘鉄を与えた。


「ぐっ………痛いじゃない」
「邪魔です。キッチンに入らないでくださいと、何十回も言いましたわ。料理中にも抱き付くなと言いましたし、朝の貴重な時間を奪うなとも言いましたわ」

 大学生になってすぐ、賃貸マンションを探すのに勝手についてきて、勝手に決めて、当たり前のように勝手に合鍵を作られた。よそで遊ぶ日以外は、多分これは一緒に住んでいるようなもの。認めたくはないんだけど。

「あぁもうそれは、ほら、全部が愛の告白よね。私も愛菜を愛しているわ」




 海に、漬物石を巻き付けて沈めてやりたい。




「邪魔です」
「はいはい。もぅ、素直に私のことを好きと言えばいいのに。愛菜ったら」
 お弁当箱に入れる前のプチトマトを口に入れながら、リリーはひらひらと左手を振って、ようやくキッチンから出て行った。どうせ、服を脱いで、下着一枚で二度寝に突入に違いない。イチイチ反応したら、調子に乗ってまとわりつくのは目に見えてわかる。愛菜は服を1枚1枚脱いで床に落とすリリーを想像しながら、そのまま放置しておこうと決めて、お弁当におかずを詰めていった。

 …………プチトマトが1つ少ないのは、リリーの分を減らそう。


「愛菜、お疲れ」
「聖那。麗奈は?」
「もう来るって」

 3人それぞれ、違う学部を専攻しているため、聖那と麗奈とは、カフェテリアで待ち合わせをして、ランチを取る。たまにはお弁当を食べさせろと駄々をこねた聖那のために、今日はお弁当を4つも作った。昼からの講義を2つ受けたら戦車道の訓練がある。

「明日、ホテルのお店は予約したの?」
「麗奈がフレンチのお店をね。アッサムとは久しぶりに会うみたいよ」
「そう。でも、私たちもずいぶん長い間、顔を見ていないわね」
 
 定期的に、アッサムやダージリンからはOG会に向けて一斉メールが入る。他校との練習試合や、嘘くさい寄付金の収支報告書、新入生の戦車振り分けが終わったことや、数名のティーネームが決まったことなど。個人的なメールも時々入ってくる。グリーンやアッサムから、困った新入生がいて、胃が痛いと言うメールが来たり、ダージリンから、寄付金というタイトルのメールが来て、開いたら、金額だけが入っていたりしたこともある。あれは、学生艦に寄り付かないことへの、寂しいと言うアピールに違いない。


「アッサムたち、ちゃんと3年生らしくしているかしらね?」
「うーん。あの子たちは、本当に大人の階段を昇らないのよね」
「……久しぶりに会うんだから、あの子たちが機嫌を損ねるようなことを言わないでね」

 お弁当の包みを広げると、プチトマトがない。間違えてリリーのものを持ってきたようだ。それ以外は同じだから別にいいけれど、何だか腹が立つ。


「あ、ルクリリお姉さまと麗奈だわ」
 春の暖かな正午。
 外からの柔らかい光が差し込むカフェテリアの窓側に座っていた愛菜と聖那は、入り口付近でキャー!なんていう悲鳴が聞こえたので、それに反応して眉をひそめた。
「………2人が並ぶって、気持ち悪い」
「ホントよね。麗奈の嫌そうな顔ったらないわ。まぁ、笑顔なんて無理でしょうけれど」
 それはリリーに捕まった麗奈が悪い。真っ直ぐに2人揃ってこちらに来ようとするものだから、迷惑極まりない。リリーなんてお呼びじゃないのに。と言うか、昼は家で食べると言うのは、嘘だったのだろうか。


「ごきげんよう、聖那」
「ルクリリお姉さま、ランチをご一緒なんて珍しいですわね」
「可愛い聖那の顔を見たくてね」
「あらやだ、嘘っぽい」

 
 待って。当たり前のようにお弁当箱を出して来る気?と思って、一瞬ドキッとしたけれど、携帯電話だけをテーブルに置いたリリーは、コーヒーを買ってくると、すぐに席を離れて行った。

「ルクリリお姉さまは、もう食事を済まされているみたいよ。家で早めに食べて、暇だから学校に出てきたって」
 麗奈は迷惑そうなため息を漏らした後、お弁当をよこせと手を差し出してくる。愛菜は持ってきたお弁当箱を渡して、報酬として売店で売っているお茶を受け取った。
「…………暇を私たちで潰したいだけなのね」
 コーヒーを買うだけなのに、元聖グロっぽい女の子たちがリリーを取り囲んでいる。見慣れた光景と言えばそうなんだけど、何と言うか、女の子に囲まれて本当に楽しそう。この女子大は人数も多いから、聖グロ時代と違って、いろんな顔ぶれを楽しむことができる。リリーにはパラダイスだろう。その気になれば、昨日の夜のように他所の学校の女の子とも遊べるわけだし。

「愛菜、青筋立っているけれど?」
「何?」
「何でもない………相変わらず、大変ねぇ」
「何が?」
「………別に~。ね、麗奈?」
「そうね」

 気づかれていることはわかっているけれど、リリーのことを2人に話したいと思えない。愚痴をひとつ言えば、3つ4つ、10,20、100位なら出てきそうだ。だったら別れたらいいのに、なんて言われることはわかっているし、そう言う問題でもない気もするし。そもそも、どうして付き合っているの?という問いに何と答えればいいのかもわからない。とにかく何というか、誰にも知られたくはないのだ。誰にも知られたくないと思っているのは、リリーだって同じに違いない。その割に、見せびらかすための指輪をしているのが不思議だ。遊び相手の部屋でも、外すことはないからね、なんてヘラヘラしているけれど、もう本当に、好きにしてくれたらいい。知ったことではない。


「あら、3人お揃いのお弁当なの?」
「今日は、愛菜の手作りが食べたいって言うお願いをしていたんです」
「へぇ、いいわね。私も食べたい」
「ダメです」
「じゃぁ、一口食べさせて」
「もっとダメです」


 聖那の広げたお弁当箱に手を伸ばそうとするリリーは、食べてきたくせに、調子の良いことばかり。麗奈はそっぽ抜いて、お弁当を隠すように食べている。

「そう言えば、この前、聖グロからのメールで、1年生にティーネームを付けたって連絡があったけれど、あなたたちは具体的に聞いたの?」
 焦げただし巻き卵を1つ奪われた愛菜は、その手からお箸で奪い返して、椅子を蹴飛ばした。何で隣に座ってくるのだろうか。キャーキャー言っている子たちから、何か恵んでもらえばいいのに、というか、食べてきたくせに。
「私たちも、何人かティーネームを付けたということだけしか」
 聖那は、自分の妹にバニラを付けたことを黙ったまま。気を遣って、わざわざ妹にティーネームを付けたんじゃないかって、ちょっとムッとしていたようだけど、満更でもないそうだ。アッサムからの情報では、かなりのスピード狂がいるらしく、その子にバニラと付けるかどうか、悩んだらしい。でも、顔が『バニラ』ではなかったそうだ。
「うーん、横浜に来た時にでも、突撃して新入生の顔でも見に行こうかしら」

 ちょうど、今横浜に来ている。忘れておられるのだろう。

「そんな、ただの迷惑行為をしに行かないでくださいませ、ルクリリお姉さま」
「あら、愛菜。迷惑だなんて。私はちゃんと小切手を持って行くわよ?しかも私、今年のOG会の幹事なんだから、行かなきゃダメでしょう?」

 キャーキャー叫ばれたいだけかもしれないけれど、果たして今年の新入生が何年も前に卒業したルクリリお姉さまという人物を知っているかどうか。麗奈や愛菜のことだって知らない可能性も高いのに。とはいえ、知らないなら知らないで、3連続準優勝という功績を自慢げに語りながら、ウブな高校1年生の頭を撫でまわしていくに違いない。

「………愛菜、顔が怖い」
 前に座っている聖那は、ご愁傷さまと呟いて、憐れみをくれたけれど。この人に幹事を押し付けた麗奈は自分には無関係と言わんばかりに、ずっとそっぽ向いたまま。
「今の隊長は、去年と同じでダージリンだったわね。副隊長がフランス人形っぽい子」
「アッサムです」
「そうそう。あの子たち、本当に可愛い顔しているわよね。食べちゃいたいくらい」
 一瞬にして殺意が沸き上がった麗奈は、ジロリとリリーを睨み付けて、それから愛菜を睨み付けた。こっちを睨まれても、この人の適当な戯れを止める方法なんて知らないのに。
「………アッサムに少しでも触れたら、犯罪者として突き出しますわ、ルクリリお姉さま」
「麗奈、どうしたの?」
「アッサムは、私の妹分です」
「ダージリンならいいの?」

 いいわけがない。

「ダージリンは、私が育て上げた大事な後輩です。聖グロの学生艦にナンパ目的で行くのはおやめください」
 寄付なら郵送で小切手を送るか、口座に送金をすればいい話だ。ダージリンやアッサムから、度々、口座に寄付をくださいっていう定形メールが届いているのだから、今更、そんなの知らないとは言わさない。
「愛菜、私は生まれてこの方、ナンパなんてしたことないわ。言い寄ってくる子をお断りしないだけで」
「左様ですか」
「必死になって、口説いた女はこの人だけだわ」
「左様ですか」

“この人”と言って、左の薬指の指輪を見せつけてくるけれど、そう言うのを聖那と麗奈がいる前で堂々とするんだから。ご卒業の日に、聖グロの船から背中を押して海に落とさなかった愛菜の甘さがあだとなっているんだなと思わずにいられない。

「ルクリリお姉さま、その指輪の彼女が可哀相。きっとその人は、一途にルクリリお姉さまのことがお好きでしょうに」
 聖那はちらりと愛菜を見た後、割と真面目な顔でリリーを見つめた。
「そうよ。一途に好かれているし、一途に好きよ」
「………麗奈、ルクリリお姉さまって日本語不自由なの?」
「そうね。昔から、理解力がちょっと悪いもの」

 聖那は、心の底から同情している視線を愛菜に投げてくるけれど、指輪は買わされたのだ。ちょっとついてきてと言われて、お店に入って、勝手に選んだお姉さまは、支払いを愛菜にさせた。その場でブチ切れて張り手をくらわしたら、交換と言って欲しくもないネックレスをプレゼントされて、絶対に外すなと言われたのだ。どこに一途だとか、誠実さが存在しているのだろうか。

愛菜が聖グロの戦車道1年生の頃から、リリーはずっとちょっかいを出してきていた。2年生で副隊長だったリリーには周りと同じ程度には憧れていたし、同じマチルダⅡ部隊で部隊長をされていらしたから、教わることも多く、戦車道の訓練中はいつも傍についていた。でもそれは、決して恋をしているから、なんて言うものではなく、あくまでも尊敬だった。何が彼女を誤解させたのか、今でも理解できないけれど、聖那と麗奈が何かおかしいと言うことを見て見ぬふりをしていた頃から、愛菜は愛菜で、部屋に突撃に来られるリリーのことが周りにバレてしまわないか、気が気ではなかった。夕食時に来ては、ご飯を作るように言われていた。1,2年の頃は、ほとんど彼女のために作っていたように思う。ばれないように、リリーに食べさせた後、愛菜は聖那たちと食堂でご飯を食べていた。
 あの時、大人気のルクリリ様は、どこで夕食を食べておられるのだろう、っていろんな人が想像していた。愛菜が1年生の頃は、決して仲がいいとは言えない、アッサムお姉さまの部屋でイチャイチャしながら食べていると噂がたっていたし、2年の頃は、曜日ごとに決まったお店で、誰かと会っているに違いない、なんて言われていた。住民の若い女の人と付き合っていたりして、とか、港ごとに女がいるとか、聖グロの女の子が集まれば、みんな、リリーの噂で持ちきりだった。噂の中には聖那も麗奈も入っていたし、愛菜も入っていたことがある。戦車道関係の女の子は、取りあえず候補には上がって、いつの間にか消える。そんな感じだった。


「愛菜、今日はどこかデートにでも行く?」
「誰が誰とです?」
「リリーが愛菜と」
 ダージリンたちと横浜でランチをする約束の日の朝、昨日脱ぎっぱなしのまま廊下に点々としている服を蹴飛ばして、愛菜はさっさと服を着替えていた。ダージリンから1時間程早めに会いたいと連絡があったので、少しばかり急いでいた。ハイヤーを呼ぶよりも、電車の方が早くつくだろう。頭の中で最寄り駅までの時間を考えながら、髪をひとつに束ねて、丁寧にお化粧をする。
「今日は、後輩たちに会うんです」
「あぁ、ダージリンたちね。じゃぁ、私も付いていこうかしら」
「ご冗談を。お呼びじゃありませんわ」
「あら、私はOG会の幹事なんだから、お呼びしなさい」
「そう言うのじゃなくて、ダージリンもアッサムも、私たちに甘えたいんです」
「あら、なおさら大歓迎」
 この馬鹿、全然わかってない。鏡越しに睨み付けてみる。いいからずっと放置している服を拾って、洗濯機に入れて、ついでに洗濯機を回してもらえないだろうかと言うアピール。無言でいると理解したのか、足で昨日脱いだ服を拾いながら、下着1枚のままのリリーは傍の洗濯機の中に放り投げた。
「邪魔です、リリー」
「置いて行こうとしているんだから、この手が愛菜のおっぱいを忘れないようにしないと」
 夜、散々撫でまわしたくせに。懲りないというか、これがリリーなのだ。首輪を付けずにダージリンたちと会わせたくないし、と言うか、会わせる必要などない。服の上から胸を揉む両手。アイライナーで右手の甲に、バカと書いてやった。それでも、胸から手をどける気配もないし、あと10回で終わらせろと言えば、満足げに、ぴったりと身体をくっつけてくるから。これはたぶん、予定の電車には乗れないだろう。

 
 もう、家を出る前から、いや、リリーが勝手に住み着いているというところから、いや、聖グロに入ってから、愛菜にはメンドクサイ人間が寄り付く。というか、聖グロで戦車道をやっている人間は、基本的にはメンドクサイ人間なのだ。上も下も、みんな。



とばっちり! END

「あらあら。まったく、ルクリリは仕方がない子ねぇ」




 10秒くらいしてから、耳に吹きかけられた声は、幻聴でなければならない人物の声だった。全身の血が凍っていくのが手に取るようにわかる。今、顔をあげると、凍死するだろう。


「ダージリン、ノックをして入ってきてください」
「あら、隊長室に隊長である私がノックをする必要はある?」
「それはそうですが。丁度いいですわ、ルクリリが目薬を1人でさせないので、困っていたんです」
「そのようね。廊下まで聞こえていてよ」



 ジーザス!
 神様、助けてください!!!!

「いえ、だ、ダージリン様!それはその、冗談でしてっ」

 殺される。

 本能的に静かで冷たい殺意を感じ取ったルクリリは、とにかく勢いを付けて顔をあげた。見下ろしてくるアッサム様とソファーの後ろから覗き込んでいるダージリン様の、2大スターの共演。麗しい微笑みが並んでいる。


「ひぃ………」
「あら、ダージリンの顔がそんなに怖いの?」
「アッサム、可愛い後輩がこんなに瞼を腫らしているのよ。ここは隊長である私が目薬をさして差し上げましょう。あなたは身体を押さえておきなさい」



 そんなっ!!!


 パクパクと口を動かすけれど、してやったりのアッサム様と、とにかく怖いとしか言いようがないダージリン様の微笑み。


 あぁ、怖い。怖い。なんてひどい仕打ちなんだ。


「キャー!殺される!」
「面白い、ルクリリの弱点を見つけたわ」
「笑っている場合じゃありません。ダージリン、そんな遠い距離から落とさないでください。ルクリリが怖がるじゃないですか」
「あら、せっかくだもの。楽しみましょう」
「わ~~!!目に刺さる!」
「目薬なんだもの、“刺す”のが当たり前でしょう?」
「ダージリン様が暴力振るう!」
「何て失礼な。ちょっと、アッサム。目が閉じないように押さえてなさい」
「はい」



「ぎゃ~~!しみる~~~~!!!!」




「………楽しそうですね」



 暴れに暴れ、死闘を続け、酷い仕打ちを受けた後、直ぐ近くでペコの声が聞こえたような気がした。


「み、見ていたのなら……何で助けないの?」
「いえ、だって3人とも、わりと楽しんでいらしたので」
「冗談じゃない………」


 頭上から、はぁはぁと疲れたため息が振ってくる。目薬の攻防は、2対1で負けた。本当にもう、目薬が怖いのか、ダージリン様が怖いのか、途中からわからなくなって、染みるのは痛かったけれど、精神のダメージの方が半端なかった。


「ルクリリ、いつまでアッサムの膝枕でいるおつもり?」
「………アッサム様、目薬さしたんだから、ご褒美のほっぺにちゅーをください」
「ノエルのハンバーガーで手を打ちなさい」
「ほら、ルクリリ。もう離れて」
 アッサム様はルクリリを起こそうとするけれど、もうぐったりして起き上がりたくもないし、ダージリン様の気配は、まだまだ殺意が篭っておられるし。
「酷いです。お2人でよってたかって、1年生を虐めて」

 涙なのか、失敗して飛び散った目薬なのか、よくわからない水分が顔にいっぱいついている。

 きっと涙だ。涙と言うことにしておこう。

「ルクリリ、いい加減起きたらどうですか?そろそろ、ローズヒップが来る頃なので、事態がとてもややこしいことになりますよ」
「あぁ、それはとてもメンドウだわ。ルクリリ、ダージリン様にほっぺにちゅーされたくなかったら、起きなさい」
 でこピンされて、流石にそれはもう、別の意味で起き上がれなくなってしまいそうなことを言われて、渋々と腰に力を入れた。

「…………はぁい」
「あら、ルクリリ。私からのキスが欲しいの?」

 霞んで見える、ダージリン様の腹立たしいくらいの美しい微笑み。
 ルクリリは手の甲で頬の水分を擦って、ブンブンと首を振った。

「どうして目薬ごときで、こんなひどい目に合わなきゃいけないんですか?」
「…………それは、あなたが自分でさせないからでしょう?」
「ルクリリにも、苦手なものがあるなんてね。たかが、目薬ごときで」


 ダージリン様は、ペコにお茶を淹れてとお願いをして、乱れたセーターの形を整えながら、隊長席にぐったりと腰を落とされた。暴れまくった自覚はあるが、暴れさせたのはお2人だ。アッサム様も髪を手櫛で整えていらっしゃる。

 あぁ、すっかり治った頃にお仕置きされそう。

 でも、恐怖心を煽ったのはお2人だし。


「もぅ、治りが遅くても、目薬なんて嫌です」
「寝る前には、ペコにでもやってもらいなさい。それが嫌なら、自分で何とかすることね」
「……うぅ、鬼。ほっぺにちゅーもしてくださらないし、2人揃って押さえつけてくるし、もう、今日は踏んだり蹴ったりですよ」
「はいはい、子供じゃないんだから」


 暴れてぐちゃぐちゃになった三つ編みが解かれてしまっていたのを、アッサム様が手際よく編み直してくださったので、ちょっと拗ねた気分は持ちこたえた。


「アッサム」
「何でしょう?」
「………いい加減、あなたも甘やかせるのはおやめなさい」


 ペコがお茶を配りながら、まぁまぁって宥めている。アッサム様のメンドクサイと言いたげなため息が、ルクリリの三つ編みの毛先を揺らした。でも、今日のルクリリは被害者なのに。


「アッサム様~~~~ダージリン様~~~~!!!参上ですわ~~~!」 


 いよいよ、メンドウなのが入ってきた。体力を使いきったアッサム様もダージリン様も、ついでにルクリリも、もう、やかましいローズヒップの相手をする元気はない。


「ごきげんようですわ!!あら?みなさん、どうされましたの?」
「………あなた、廊下を全速力で来たの?」
「もっちろんですわ。アッサム様にいち早くお会いしたくて、超特急でしたわ!!!」
「………そう。体力を残しておきなさい。夜、ルクリリの目薬は、あなたがさすように」
「めぐすり?何のことですの??」



 …………勘弁して欲しい。



 どんなことがあっても、絶対に、目薬を1人でさせるようにしないと。
 後で、ネットで上手に目薬をさす方法を検索しないと。



「ローズヒップ、あなたの親友のルクリリのため、隊長命令よ。彼女を助けてあげなさい」
「よくわかりませんが、はいですわ!」

 すました顔で紅茶を飲まれるダージリン様。

 この、瞼の腫れが移ってしまえばいいのに。
 心の中で思いながら、小さな呪いをかけた。
 
 隣のアッサム様のやれやれなため息。





 完治したら、どんなお仕置きが待っているのだろうか。




とばっちり! ②

「あら、カッコイイわよ、ルクリリ」
「………えっと、ご迷惑をおかけします」
 真っ赤に腫れた瞼がカッコ悪いから、眼帯を付けさせてくれとお医者さんに頼んだのに。必要ないし、かえって治癒を遅らせるなんて言われて、思い通りにならなかった。目薬をもらい、教室に戻り授業を受け、ランチタイム。いつもの幹部席に向かうと、飛び切りのダージリン様の笑顔があった。何が、カッコイイんだか。まぁ、つまりはお大事にと言う意味なのだろうけれど。

「痛そうね」
「痛いですね」
「何か、悪いことをしたの?」
「私はいつも、良い子です」
「あら、嘘を吐くから罰が当たったのね」

 ダージリン様は余裕の笑みだ。心配なんてされている様子の欠片もない。ルクリリは逃げるようにアッサム様の隣に腰を下ろして、腫れたまぶたをアッサム様に見せつけた。

「アッサム様~~」
「あら、可愛そうに。すぐに治るの?」
「腫れが引くまでは5日くらいかかるらしいです。目薬を1日3回、2種類だそうで」
「そう。擦っちゃだめよ。顔を洗う時も気を付けなさい」
「はいっ」

 頭をヨシヨシと撫でてもらい、ルクリリはどや顔でダージリン様を見返してみたけれど、それがどうしたと言わんばかりにとても余裕で笑っていらっしゃる。後輩の頭を撫でるなんて、アッサム様の日常生活では特別なことではないのだ。舌打ちしそうになるのを飲み込んで、馬鹿にしている様子のペコの脚を蹴飛ばした。


訓練を高みから見物した後、訓練報告書を作成して隊長室に向かうと、アッサム様が1人で、ソファーに座っていらした。キャンディ様にチェックを受けて、誤字脱字を直した書類を提出して、すぐそのお隣に腰を下ろす。特に言葉を発しなかったアッサム様は、ほとんど無意識に、儀式のようにルクリリの頭を撫でてくださった。
「あ、忘れてた。目薬をささないと」
「あなた、痛いって思っているのに忘れるのね」
「いや~、習慣にないことだと、つい」
 病院では、大きなスポイトが真っ直ぐにルクリリの目を突き刺して来ようとするものだから、最大限の声をあげて抗議をしたが、薬は遠慮なく左目に注がれていった。人生で目薬なんてさしたことがなかったから、まさか、病院であんな恐怖を植え付けられるなんて思ってもみなかった。1人で行ってよかった。誰かに見られようものならば、向こう1週間はネタにされていたに違いない。
「決められたとおりに、目薬をさしなさい。早く治したいでしょう?」
「はい」

 ポケットに入れておいた目薬を取り出してみる。

「どうしたの?」
「いえ、こういうのって、どうやって目に入れるものですか?」
「………嘘。わからないの?」
「人生で必要としてこなかったものですし」

 コマーシャルで見てきたでしょう?と呆れた声で言われて、あぁ、さわやかなイケメンが楽しそうな笑みでやっているあれだ、とすぐに理解した。笑いながら、嬉しそうだったけれど。病院でのスポイト攻撃は、あれは悪意さえ感じたが、自分でやると楽しいものなのだろうか。

「どうしたの?」
「えっと……どうすればいいのか、さっぱりです」
「自分の目に薬を入れるだけよ。1滴だけ、ちょっと力を入れたら勝手に入ってくるわよ」
「うぅ……」

 呆れた声で言われるから、小学生でもできることなのだろうなって言うのは理解できる。蓋を開けて握りしめていると、力を入れすぎだと怒られた。目薬に力加減なんて必要なのか。

「う、うぅ…うおりゃ~!」
「……何で掛け声がいるの?」
 3本の指でつまむようにして目薬をコマーシャルっぽくさそうと思ったけれど、あのでかいスポイトの恐怖がよみがえって、身体はソファーの背に打ち付けられた。頬に液体が飛んでくる。

「アッサム様、私には向いてません!!」
「向いているとか向いていないとか、そう言う問題じゃありません」
 コツンと頭を叩かれて、アッサム様はご自身の膝をポンポンと叩いておられる。
「ここに頭を乗せなさい」
「それは、かえって恐怖心を煽る気がします」
「あなたが自分でさせないからでしょう?」
「そんな、垂直に薬を落とすとでも?!」
「それ以外、方法がある?」
 膝枕は大歓迎だけれど、無理やりに目薬をさすだなんて、それはとてもとても嫌だ。ルクリリはちゃっかり膝枕されながら、仰向けになってみたものの、奪われた目薬を、ブロックしようと目を瞑った。
「こら、開けなさい!」
「だって、怖いじゃないですか!」
「あなた、一体何歳なの?」
「培養育ちのたったの16歳です」
「もう、いい歳じゃない。ダージリン様に言いつけますよ?」
「くっ………アッサム様、卑怯です!」

 憐れむように笑うダージリン様の姿が、きつく閉じた瞼の裏に現れてくる。
 渋々と恐る恐る薄く瞼を開いてみた。ぼんやりと現れる、透明の容器。

「うぅ……」
「ほら、もう、ちゃんと開けなさい」
「ご褒美くれないと嫌です!」
「子供じゃないでしょ」
「子供じゃないですけれど、病人です」
「まったく……普段、健康な人が病気になると、こんなにメンドウなのね」

 アッサム様の目薬を持つ手を両手で押さえつけて、ルクリリは、ご褒美くれないと嫌ですともう一度言った。

「じゃぁ、治ったら、ノエルのハンバーガーを奢ってあげるわ」
「安っぽすぎます!」
「あなた、この前、ホワイトローズのモンブランを食べたでしょう?」
「食べ物で釣るなんて、子供じゃないですか」
「今、ダダを捏ねているのは、子供以下でしょう?」

 目薬をさそうとするアッサム様の右手と、ブロックしようとするルクリリの両手。押し合いはいつまでも決着がつきそうにない。

「目薬させたら、アッサム様がほっぺにちゅーしてくださるのなら、我慢します」
「なぜ、そんなサービスをしてあげないとダメなの?」
「サービスじゃなくて、ご褒美です」
「目薬ささないと、治りが遅くなるでしょ?訓練に参加できないままでいいの?」
「それは嫌です」
「だったら、潔くさされてしまいなさい」
「こ、殺す気ですか?!」

 アッサム様はルクリリの脇をくすぐって、一瞬力が抜けたのを狙い、チャンスと言わんばかりに目のすぐ傍に薬を近づけてくるものだから、何のこれしき!と顔を背けた。


「こらっ!手こずらせないで」
「ご褒美に、ほっぺにちゅーしてください!」



 OKが出るまで、ぜったいにアッサム様のお腹に埋めた顔をあげてやらないんだから。
 ルクリリは“仕方がないわね”と言う一言が耳に吹きかけられるのを、じっと待つポーズを取った。


とばっちり! ①

「………目が痛い」


 3人部屋にある、3つの目覚まし時計が一斉に鳴った。腕を伸ばす程度では止められない場所に置いてある、高性能の目覚まし時計。止めるには立ち上がり、5歩は歩かないといけない。この方法にしているおかげで、幸い、無遅刻でいられる。



「おはようございます」
「うぃーっす」
「ごきげんようでございました」
「バカローズヒップ。終わってないし、月曜日なんだから始まりだっつーの」

 ほぼ同時に勉強部屋兼リビングに集う、見飽きた顔ぶれ。目覚めはとてもいいくせに、ローズヒップはまだ、名残惜しい日曜日との決別が済んでいないようだ。


「ルクリリ、どうしたんですか、その目?」
「……なんか、痛いんだけど」

 目覚ましの音と同時に襲った、左目のズキズキした痛み。目と言うか、瞼が痛い。擦りたいような、擦りたくないような、経験したことのない痛みだった。


「誰に殴られたんですの?」
 なぜ、寝ている間に殴られなければならないんだ。殴るとしたら、ローズヒップしかいないだろう。そもそも、ローズヒップは先に爆睡していたし、殴られたら流石に気づくだろう。
「聖グロで、殴られるような悪さをした覚えはないわ」
「それじゃぁ、外で悪さをしたみたいに聞こえますけれど」
 ペコは鏡のある洗面台に向かって、ルクリリの背を押した。


「うわ~、腫れてるじゃん。そりゃ、痛いわけだ」
「取りあえず、病院行ってきたらどうですか?」
「うーん。でも、1週間とかで自然治癒するかも知れないし」
「それは、お医者様が判断することです」


 洗面所を使う順番を先に譲ってくれたペコは、さっさと着替えて、とっとと眼科に行ってこいとルクリリを急かしてきた。聖グロの学生艦で生活をして半年。未だ、どこの病院にもかかったことがない。小学生の頃も中学生の頃も、風邪も怪我もしない、健康だけが取り柄みたいなものだった。まさか、幼稚園児の時のおたふく風邪以来の病院が、眼科とは。


「あ~ぁ。まぁいいや。眼帯でも付けて帰って、アッサム様に可愛がってもらおうっと」
「ルクリリ、あざといですわ」


 制服に着替えながら、下着姿でウロウロするローズヒップが鏡にチラチラと映りこんでくる。どうせまた、タイツがないとか言い出すんだろうな。

「タイツが走って逃げましたわ~~」
「昨日、シャツと一緒に丸めて引き出しに入れていたじゃないですか」

 あれほど、畳んで別々の棚に分けて入れろと言ってるのに、洗ったものを全部同じところに突っ込むからそうなるんだ。だったらもう、洗濯籠に入れっぱなしにしておいた方がずっとわかりやすいのに。相変わらず部屋中を朝からドタバタする、いつも通りの1日の始まり。



「あ~ぁ。眼科ってどこだっけかなぁ~」


 ルクリリは三つ編みを作りながら、まだ寝間着のままだった。


「あら、ルクリリが?」
「病院に行ってから、登校するそうです」
「あらまぁ、珍しいこともあるものね」


 朝、ルクリリから電話が入り、瞼が腫れているので病院へ行くと報告が来た。どの程度のものなのかがわからないが、声はハキハキと元気だったので、さほど重病と言うこともないだろう。


「どうしました、ダージリン」
「いえ、秋なのに雪でも降るのかしらって」
 教室の窓から外をわざとらしく眺めながら、ダージリンは露ほどにもルクリリを心配している様子を見せようとしない。彼女なりの、気遣いと思いたいけれど、きっと本当に心配などしていないだろう。それはある意味信頼があるということ。ダージリンは、ルクリリのことを溺愛している。あまり態度に出さないけれど。

「ダージリンもルクリリも、病院と縁がありませんからね」
「あら、健康に気を付けるのも隊長としての務めよ」
「なんとかは風邪を引かないと言うあれですか?」
「あら、それは知らないことわざですわね」
「ダージリンにも、知らないことわざがありますの?」

 別にダージリンが馬鹿とは思っていないが、ウイルスも住み着く身体を選んでいるに違いない。なんていうことを言えば機嫌を損ねてしまうから、とにかく午後の訓練にルクリリは参加させないようにと話を切り上げた。


鈍い彼女

ダージリンティーを一口飲んだ。

 ちょっとだけ苦くて、淡く広がる。


 恋の味。






 1年生3人とグリーンを連れて、ダージリンは船舶科との会合に出掛けた。ルクリリに経験を積ませるためと、おそらく帰りに今日から始まる、1人2つまでの『ホワイトローズ』の限定モンブランを買うために必要な人数を揃えたかったのだろう。どうしても、整備科との予算ミーティングが終わらなかったアッサムを置いて、機嫌よく出て行った彼女の両腕にぶら下がっているであろう1年生たち。船舶科との大切な会合よりも、モンブランのことで頭がいっぱいに違いない。



「………静かね」


 クルセイダー修繕費の予算一覧を手に隊長室に入ると、開かれたカーテンの向こうにある色づき始めた桜の葉先が視界に入った。黒革の、とても女性が座るには似合いそうにない隊長椅子は存在感があるはずなのに、座るべき人がいないと、それはアッサムの注目を浴びることができないでいる。
 3枚の予算書類を机の上に置いて、代わりに束になっている訓練報告書を手に取った。その隊長机ではなく、部屋の中央にあるテーブルに置いて、静かな部屋の電気コンロのスイッチを入れる。お湯を沸かして、お茶を飲む準備をした。

 硝子ケースに丁寧に並べられているティーカップ。小さな青い薔薇をちりばめているダージリン愛用のティーカップと、赤い薔薇の色違いのアッサムのティーカップ。一度、赤いものを手に取り、思いなおして青い薔薇の柄のティーカップを選び、お湯で温めた。

 いつもより丁寧にダージリンティーを淹れて、テーブルに置く。誰もいない隊長室であろうとも、どんなことがあっても隊長席にダージリン以外が座ることなどない。座りたいなどと思ったこともない。

 広い部屋の中、青い薔薇のティーカップに注がれた紅の色。


 手に取ったティーカップ。
 喉の奥に伝わるダージリンの香りは、チクリと胸に罪を届けようとする。


「………これって、間接キスですわね」


 わかっているけれど。



 だから、このティーカップを選んだのだけれど。



 唇に触れる、その場所。毎日のように、このティーカップでおいしそうに紅茶を飲む、ダージリンの姿。時々、ちらりと盗み見るたびに視線がぶつかり、投げかける恋の想いを吸い込む力に抵抗できずにいる。


「味が良く、わからないわ」


 喉の奥に流れ込むのは、彼女への恋情。
 吐き出さずに飲み込むばかりの、自分の感情になど、味はなく、どちらかというと苦くて、ただ、不快なだけ。

 それでも、苦くて、嫌なものだと言うことを想い知らされている方が良いのだ。
 いつか、吐き出したいと言う感情がちゃんと芽生えれば。

 そんな日が来るのなら。





「ただいま、アッサム」
「………あら、ダージリン。あの子たちは?」

 隊長室に戻ると、アッサムがテーブルに報告書を広げていた。整備科との打ち合わせが終わり、待っていてくれたのだろう。モンブランを2つ入れた紙の箱を見せると、お茶を淹れると立ち上がろうとするので、それを目で制した。

 

「モンブランを手に、キャンディ達の元に行ったわ。ここでは狭いから、みんなでラウンジに行くそうよ」
「そうですか」
「モンブランには、アッサムティーがいいわね」

 どうやら、一度お茶を飲んだのだろう。硝子ケースから取り出したティーポットは、お湯で洗われたのか、温かさが残っている。


「そうですね」
「さっきは何を飲んだの?」
「えっと、ダージリンを」
「…………そう」

 温かさの残る青い薔薇のティーカップと、ひんやりと冷たい赤い薔薇のティーカップ。


 間違えた、なんて言うことはないだろう。大したことと思わずに、使ったのだろうか。

 間接キスだって、わかっていて。
 いや、そんなことすら大して気にも留めなかったに違いない。

 そんなことに敏感になるのは、ダージリンだけだ。
 過剰に反応すると、うっかり余計な一言を告げてしまいかねない。


 ミルクを注ぎ、その上から濃い目にしたアッサムティーを注いだ。
 匂いも色も味も、ダージリンにはただ苦くて、胸にチクチク何かが刺さるような痛みが身体を包むもの。

 美味しいと、感じられない理由は知っている。


「どうぞ」
「え?あの、私のは、こちらではありませんが?」

 モンブランをお皿に載せて、フォークを添えて待っていた、その目の前にティーカップを置くと、袖が触れるほどの距離に腰を下ろした。


「あら、だって、さっきはそれを使っていたのでしょう?」
「えっ?」
「あら、違うの?」
「あ、いえ、あの……その………申し訳ございません、間違えていた、ようですわ」
「気にしないで」
「……………はい」



 アッサムがいつも使っている、ティーカップに触れた唇。

 気にしないで、と言ったのはダージリンなのに。
 気にしないフリを必死にしようとしているのも、ダージリン。

 味など、わかるはずがない。
 わかるのは、何か胸が苦しくて、痛いと思うことくらい。


「あの……ダージリン」
「何かしら?」
「…………いえ、何も」



 震える右手、わずかに音を立てて、ティーカップをソーサーに置く。
 手が出ないモンブランが、2つ。

 とても、胃が受け付けようとしない。

 それでも、何事もないフリをしなければ。




「…………ごめんなさい、勝手にティーカップを使って」
「気にしないわ」
「…………間接キス……ですよ」
「別に、直接でも構いませんことよ」


 
 ほら、だから余計な一言を言ってしまわないようにと、あれほど自分に言い聞かせていたと言うのに。


「……そう、ですわね。では、それはまた、その、後日ということで」
「いつでもどうぞ」


 本気を冗談と捉えて笑ってくれるのであれば。


 安心の溜息と、寂しいため息が入り混じるだけだ。


 アッサムが鈍すぎるから、助かっているような、困っているような。




「ダージリン、相当鈍いですわね」


 そっぽ向きながら、青い薔薇のティーカップを唇に押し当てるから。




「………お互いさまだわ」




 何だか理不尽な想いがして、ダージリンも反対側にそっぽ向いた。



 アッサムティーを一口飲んだ。

 ちょっとだけ苦くて、淡く広がる。

 やっぱり、恋の味がする。



恋文 END

『大好きなあなたへ』


 封筒に書かれている自分の書いた文字。開けられた痕がある。


「…………読まれてしまったのかしらね」


 よりによって、それは。嵩森穂菜美と書いてあるから、1年生の頃の、一番舞い上がっている頃に書いた手紙だ。おそらく、手紙の中には今とは違って、アッサムの名前をかなりたくさん書き込まれていて、好きだ好きだと書き踊っているはずだろう。隊長職を任されることになった頃から、辛さが増す思いがして名前そのものを書くことをやめたが、それまではずっと、アッサムの名前や差出人の、自分の名前を書いていた。


 腰が砕けたように、ぺたんとしゃがみ込んでしまう。
 笑って、「読んでしまったのなら忘れてちょうだい」などと言う、そんな余裕の演技ができるほどの正気でいられるだろうか。

 それはもう、無理なのだ。


 あぁ、それでも。
 何かが終わったのだと。
 目じりに感じる雫は、微かに鼻につく煙の匂いのせいだと、心の中で言い訳をした。

 声をあげて泣くという慟哭が襲わないのは、たぶん、事態に対応しきれていないせいだ。
 震える身体は、寒さのせい。
 喉が痛いのは乾燥のせい。
 立っていられないのは、きっと空腹のせい。
 頬を伝う涙は、自らの失態のせい。


「………何」

 中には覚えのない桜色の便箋が見えた。真新しい紙。アッサムから、気持ち悪いなんていうコメントが書かれたものでも入っているのかしら、と。本当にそう思った。





DEAR 大好きなあなた




 私も、ずっとあなたのことが好きでした。


 ずっと、ずっと、今も、あなただけが好きです。
                           嵩山保奈美より




1年生の4月頃に書き殴ったラブレターの返事が、とても綺麗な文字で書かれてある。
 桜色の便箋を抱きしめて、そのまま倒れるように絨毯に寝転がった。


 震える身体はもう、驚きのあまり、自分の意思でどうすることもできずにいて。


「アッサム、アッサム…アッサム…………あなたが好きよ、アッサム」



 ただ、その名前を、この想いを、初めて知った言葉のように何度も声に出すことだけしかできなくて。




「アッサム、……私もあなたが好き。ずっと、好きよ」




 何度でも、零れ落ちる言葉。
 書き殴って、呟くことすらできなかった言葉。
 ずっと、囁きたかった言葉。
 その耳元で、さりげなさを装って、何度も綴ろうとした言葉。




 あなたが好き。






 隙間から小さな音を立てて、風を引きこんだ。開かれる、古い扉。

 足音が近づいて、ピタリと止まる。



「ダージリン。もしまだ、燃やしていないものがあるのなら、すべて私にください。全部に返事を書きますから」


 布が擦れる音。
 髪がサラサラと鳴る音。
 床に身体を寝かせて、ダージリンを包む恋。


 アッサム。


 大好きなあなたへと、その書き出しで、何度手紙を書いたことか。



「………アッサムは、いつもパソコンでしょう?手書きじゃなきゃ嫌だわ」
「パソコンで打って、メールで転送しようと思います」
「それはもっと嫌」
「では、どうしたらいいですか?」
「声に出して、返事を頂戴」



 その髪を掴み、縋りついた。
 嗚咽するダージリンの身体を包む、恋の温かさ。





「私はあなたが大好きです、ダージリン」


「………私も、あなたが大好きよ」






 大好きなあなたへ

 明日も手紙を書いて、隣の部屋へ届けるわ。
 そして、ゆっくりと声に出して、読み上げるの。


 アッサム、あなたが好きだと。
                      



恋文 ⑤

 DEAR 大好きなあなた

 今日、あなたにもティーネームが授けられましたね。とてもうれしく思います。同じ名前だったので、互いに気を遣い合い、それでも、名字で呼ぶことが何だか他人行儀な気がして、早くお互いにティーネームがつけばいいと思っていました。アッサムと言う響き、とてもよく似合っていると思います。


アッサム。


 これから毎日、私はあなたのことをそう呼ぶのでしょう。今は同じ車両に乗る夢は叶わないですが、必ず、私はあなたに追いついて、チャーチルの車長として、聖グロの戦車道の隊長として、立派に務めを果たせるよう、毎日必死に訓練を重ねます。

 アッサム、とても可愛らしい響きです。私をダージリンと呼んでくれる声に、やっと私もちゃんと応えることができるのですね。

 アッサム、今日、この素晴らしい始まりを、あなたの傍で迎えることができて、とても幸せです。

 

 大好きなアッサム。
 これから、私が世界中で最も多く、あなたのこのティーネームを呼ぶことができるのですね。

 この喜びを伝えることができれば、どれだけ幸せでしょう。
 届けられない愚かさに嘆きながら、私は私をどうすべきか悩んでいます。

 
 アッサム。
 あなたが好きだと、そのわずか5秒ほどの痛みに耐える強さが私にあれば。




焼却する施設なんて校内にあるはずもなく、唯一火気の使える場所と言えば、紅茶の園のティーラウンジにある暖炉だけだった。
 ダージリンは授業には出ず、一本だけの薪の傍に真っ白い手紙の山を作り、マッチで火をつけた。



 パチパチと音を立てて、恋は黒く焼かれて消えていく。それでも、恋は燃えカスになってでも、ダージリンの心の中にはあり続けてしまうのだ。


 初めて出せない手紙を書いたのは、いつだっただろうか。
 まだ、彼女のことを高山さんと呼んでいた頃だった。


 ずっと、彼女を追いかけていた。中学生の頃から、顔も名前もずっと心に焼き付けて、聖グロに来るに違いないと、どんなことがあっても、彼女と同じ戦車に乗るんだと、その想いだけで聖グロに来た。思えば、本当にひと目で好きになっていたのだろう。中学時代だって、言葉を交わした記憶などない。想像だけで心を満たして、現実を知れば嫌いになってしまうかもしれない、と思いながらも、それでも、隣に座る彼女にのめり込んでいった。

 どうしようもなく、ただ、好きだと言えばいいのに。その二文字が喉を通りそうになく、眠れない深夜、真っ白な便箋に、ラブレターを書いてみた。書いて、次の日になって読み返したりすれば、その恥ずかしさで冷静さを取り戻すかもしれない、と。


 並ぶ好き好きと綴られた言葉。読み返したときの、あの恥ずかしさは今も忘れない。今だってそうだ。想いが昂ると手紙を書き、次の日に読み直し、うんざりしては、段ボールに落としていく。

 らしくない、と自分でも思うほど、アッサムのことを、嵩山保奈美のことを、好きだった。
 腕がいいという評判の通り、すぐさまチャーチルに乗りこんだアッサム。年功序列の壁に邪魔をされて、マチルダⅡに乗っていたダージリン。ずっと、1年生の頃はチャーチルを守ることに全力を注いでいた。それだけが楽しかった。彼女を守る。どんなことをしてでも、守ると。




 あの頃から、ずっと自分に問いかけている。


 私は、私をどうしたいのだろうか。



 ずっと、答えを見つけられず、いや、向き合うことができず、そろそろ3年生の2学期が終わってしまう。
 彼女とこの学生艦で過ごすことができるのは、あと3カ月。


 毎日、繰り返して自分に問うて、そして永遠に見つかりそうにないのなら。


 この自己満足の渡せない手紙を、まず捨て去らなければならない。


 捨てることで、何かを手に入れることができればいいと。


「アッサム」

 ただ、名前を囁くだけでも、こんなにも喉の奥が痛いのだ。
 手紙を差し出す腕は、もげてしまうに違いない。

 だから。そう。そんな言い訳を並べて、文字にした恋を黒く燃やす。

 炎を絶やすことがないように、1つ1つ放り投げて行く真っ白い手紙。読み返してしまえば、いたたまれなくなってしまうだろう。燃やすことで昇華されて行くものでもないが、それでも、燃やさざるを得ないのだ。この箱を抱きしめたまま卒業をしたら、今度は捨てられなくなってしまうに違いない。

 未練だけを置いて飛び立てず、引きずられ、歩くこともままならない未来など、それは欲しい世界の色ではない。



 ぼんやりと、重い感情を捨てるように炎に投げ入れていると、扉の隙間から、真っ白い何かがさしこまれるのが見えた。風の通る隙間。いつも、足元が寒いとみんなで文句を言っていた、あの隙間。


「…………アッサム?」


 この場所にダージリンがいると知っている人物。ここに立ち寄れる人物も限りがある。そして、アッサムだという直感は、間違いではないだろう。

 立ち上がって扉の傍に行くと、隙間から投げられていたのは、白い封筒。




「まさか………」

恋文 ④

「ダージリン?」
「あら、おはよう。……忘れ物?」
「いえ、その、どうしたんですか、その段ボール箱」

 あまりの寒さに肩を震わせて、忘れたことを思い出してマフラーを取りに寮へと戻る。階段を昇りきったところで、大きな段ボールを抱えて部屋から出てきたダージリンと対面した。卒業試合も終わり、3年生は戦車道の授業はほとんどない。今日は、ゆったりと通常授業を受けた後、明日のクリスマスパーティの準備に取り掛かる。みんながウキウキと足を数ミリ浮かせたような、そんな日がやってくる。


「ちょっとね、ゴミを捨てようと思って」
「ゴミ、ですか?何かため込んでいたんですか?」

 定期的にハウスクリーニングが来て、確か、いつも綺麗な部屋だったはず。資料を届けるなどで数回しか訪れたことはないが、壁を挟んだ隣同士。いつも想いを廻らせては、自分の部屋の壁紙を眺めているのだ。


「まぁね」
「お持ちしますよ」
「いいわ」
「足元が見えないと、階段で転げ落ちます。クリスマス前に怪我をされたら、周りが迷惑ですし」
「あら、私の身体を心配しているのか、どっちなの?」
「両方です」 
 蓋をテープで閉められていない段ボールの中に、一体どんなものが入っているのか。わざわざ自らの手で捨てなければならないものって何だろうか。例えば、ファンレターとかあるいはラブレターとか。つい今月頭に、アッサムもかなりの数の手紙をもらった。誕生日カードや後輩たちからの手紙、違う学部の、顔を知らない生徒たちから。捨てるに捨てられず、いまだに大きい箱の中に束ねたまま。だから、きっとダージリンも考えたうえで、そう言うものを捨てる行為に出たのかも知れない。せめて、自分の手で。勝手な想像だけど。

「いいわ、アッサム。ちょっと薪をするだけだから」
「暖炉で燃やすおつもりですか?」
「あら、そうね。それがいいかもしれないわね」

 とてもよく燃えるわ。


 そんなことを言いながら、階段を下りようとするから。
 慌ててその肩を引っ張って止めた。


「………何なの、アッサム」
「ですから、危ないと申しています」
「自分のことを自分で始末しているだけなのだけれど」
「せめて鞄くらいは、預けてください」


 強引にダージリンの脇に挟まれた学生鞄を引っ張ると、ダージリンが嫌がるように身体をよじって抵抗を示す。
「ダージリン、危ないですって」
「何度も同じことを言わせるの?」
「ですから、鞄だけ」
「大丈夫よ、重くないのだから……あっ」


 引っ張り合いをしていると、階段を踏み外しそうになったダージリン。アッサムは腰をぐっと掴み、抱き寄せるようにしてバランスを保とうとした。その反動に逆らって、両手から段ボールが落ちた。


「あっ」


 階段を転げ落ちて、開かれて勢いよく舞うのは、真っ白い封筒。


「ごめんなさい、ダージリン」


 すぐさま、落ちてゆく段ボールと中身を拾おうとした。



「触らないで!!後ろを向きなさい!!」


 だけど、それができなかった。





 今まで、聞いたことなど一度もない、強い命令口調。神様でさえ逆らうことが許されない、それは悲鳴に近いもの。

 アッサムが知ってはならない、何か。
 絶対に触れられたくもない、何かが入っていたに違いない。

「………はい」
「終わるまで、あなたはそこにいて」
「……お手伝いは」
「不要よ」

 絨毯敷きの階段、鈍い音を立てて降りて行く。アッサムは回れ右をして、俯いた。じっと、真っ白な封筒を拾う音に耳を澄ませて、それは一体、どこの誰から貰ったものなのか、尋ねたい心を喉の奥で押さえつけることに必死だった。
 一瞬だったけれど、それらがすべて同じデザインだったことは、ハッキリと見て取れた。切手はなかった。差出人の名前までは見えなかった。だけど、10や20では済まない。かなりの量だ。

 ずっと、同じ封筒を使い続けている。毎日、毎週、それが何年も続いていると言うことだろうか。

 ダージリンは、その返事を毎日しているのだろうか。


 そう言えば、思い出したことがある。いつだったか、横浜に2人だけで行こうと誘われた日のこと。朝から整備科と定期点検をしていたけれど、デートという単語に浮かれて陸に降りた。運転しながら、会話に困っては1年生たちのことばかりを話していたはず。
 途中、デパートの中にある文房具店に立ち寄ったダージリンは、万年筆やインク、そして、真っ白な封筒と便せんを買っていた。試合相手やOGのお姉さま方に手紙を書いていると、そんなことを言っていたはずだ。あの時と同じ封筒だっただろうか。振り返って、確かめることができない。



 もらう相手と同じものを、買いそろえているとしたら。
 切手がないと言うことは、差出人は学校の中にいる。


 考えたくなどない。
 だってそれは、ダージリンの自由なのだ。
 彼女が誰かに想われ、そしてその人を想っていることがあったとしても。
 それは応援すべきことであり、喜ばしいこと。

 アッサムが勝手に涙を流しながら、うずくまることではないのに。


「………アッサム?」
「は、はい」
「もういいわ。……どうしたの?」


 階段の一番上で、背を向けてうずくまる。その後ろ髪に掛かる声。アッサムは立ち上がり、頬を手のひらで擦った。

「いえ。すみません、ご迷惑をおかけして」
「いいわ。私はゴミを捨ててくるから、先に教室へ行ってて」
「…………はい」


 このまま、まっすぐ行けば自分の部屋。マフラーを取りに戻ろうとしていた部屋。ずっと、隣の部屋の彼女を想いながら、時々、気を紛らわすようにパソコンで想いを綴っては、保存せずに消し続けた日々。

 想い人がいるなどと、想像したことなどなかった。それは、心が拒否していた事だった。

 頬に触れたら、勝手に溢れる涙がべっとり手のひらを湿らせる。
 拭いながら、マフラーを取ってみたけれど、寒さなど感じていなかった。

 それでも、何もなかったようにしなければならないのなら。


 もっともっと、出会ってすぐにでも好きだと告げて、鼻で笑われ振られていればよかったのだ。

 勝手に傷ついて、勝手に泣いて。この身体は何がしたいのだろうか。アッサムは、アッサムをどうすればいいのだろうか。
 ただ、傍にいたい。そのために、告げないと決めた過去を悔やんだとしても、何になると言うのだろうか。

 頬をゴシゴシと擦った。何度も目じりを擦りながら、掴んだマフラーと鞄を手に、もう一度部屋を出る。教室に辿り着くまでの5分の間に、作り笑顔を取り戻さなければならない。


「あ……」

 階段を2歩降りてすぐ、1枚の真っ白い封筒が落ちている。拾いきれないで残った1枚なのだろう。枚数を把握されていなかったかもしれない。





『大好きなあなたへ』


 宛先の名前はなく、糊付けが剥がれかけている。差出人の名前は嵩森穂菜美となっていた。校内の誰かに、“ダージリン”としてではない、1人の少女として出そうとして、出せずにいたものだろうか。

 もしかして、あの沢山の手紙たちは、出されなかったものだというのだろうか。冷えた頬に指先で触れてみた。表面は冷たいけれど、熱い何かが心臓を急かす。



 濡れた指先で触れた部分に滲みが広がった。


 燃やしてしまうものなのだ。
 燃やしてしまうものなのだから。



 これで、恋を諦めようと。終わりにするためには仕方がないことだからと、言い訳を心の中で一杯並べて、剥がれかけている封筒を、濡れた指先でひっかいてみる。


 ダージリンの、嵩森穂菜美の心を殺めるような傷を付けて行く気分だ。


恋文 ③

「あら、アッサム」
「………ダージリン。珍しいですね、こんなところで」
「整備科の責任者ですから」
「つまり、気まぐれですか?」
「さぁ、どうかしら?」

 秋が深まり、少し木々も色づいている。祝日の早朝、チャーチルの定期点検に付き合い、整備科と共にチャーチルの走行テストをしていた。1つ1つチェック項目を確認していき、動作に問題がないことを確認する。マチルダⅡは全車がようやく1週間かけて終わったばかり。最後のチャーチルが予定を押して祝日に延びてしまったのだ。整備科たちだけに任せる訳にもいかず、アッサムは整備科と同じツナギに身を包み、点検に付き合っていた。

「お似合いね。私も着替えてこればよかったわ」
「ダージリンには似合わないと思いますが」
「あら、そう?」

 正規メンバーの隊員を点検要員に駆り出すと、負荷テストなどをしづらいと言われ、原則、隊員は定期点検中に戦車に近づくことはしないように、となっている。これは暗黙の了解と言う感じで、それだけ整備科への信頼も厚い。アッサムはずっと、1年生の頃からそのルールを破って参加していた。どうせなら、と、クルセイダーの操縦をしてドリフトを試みたこともある。もちろん、それもテスト項目に入っているからだ。何か悩み事でもあるのか、って整備科の同級生に心配された回数は10を超えていた。


「ダージリンが見守っていると、整備科の仕事がし辛くなります」
「あら、私の目があると悪さができないと?」
「悪いと言うか、負荷試験もありますし」
「そう……まぁ、いいわ。あなたは何時まで付き合うの?」

 早速、整備科たちは手を止めて、みんなその場で直立不動だ。憧れの隊長であるダージリン様なのだ。薄紅に染まった頬は恋の色と呼べる。

「何か、用事でも?」
「いえ……休日ですもの。港についている間に、陸に降りたくて」
「お供ですか」
「まぁ、そうね。デート、ともいうわ」


 アッサムは自分もまさか、同じような頬の色になっていないだろうかと、頬に手を当てた。



 冷たいと感じたのは、オイルの付いた手袋を付けていたことをすっかり忘れていたせいだろう。


「アッサム、ちょっとカッコイイわ。職人みたいよ」
「………顔を洗って、着替えてきます」

 慌てふためいた整備科の子がタオルを差し出してくれたけれど、簡単には落ちることのないものだ。ここにダージリンがいる以上、彼女たちも仕事を続けられない。どうしても、ここにいなければいけない理由はない。ダージリンの誘いなのだ。それを断りたいとも思わない。


「では、駐車場で待っているわ」
「わかりました」
「くれぐれも、他の人を連れてこないように」
「はぁ……何か、陸で買いたいものでも?」
「さぁ?」


 相変わらず、何をお考えなのかわからない笑みをひとつ。傍の整備科の子たちは、思わず手を振っている。いて欲しいような、いてもらっては困るような複雑な笑み。気持ちはわからないでもない。

 今日も、書く話題に事欠かさないだろう。




 DEAR 大好きなあなた

 肩が触れることもなく、同じ方向へ進む。その歩みはいつもと変わりませんでしたね。私はただ、心臓のペースに引き摺られて、早くなりそうになる左右の脚をコントロールすることばかり気に取られていました。途中、立ち寄ったケーキ屋さんで食べたマロンケーキ。そのお店のカードをこっそり持って帰ってきて、今日と言う日を忘れないように、作戦ノートにでも張り付けておこうかと思います。こうやって、毎日、あなたとの思い出を手紙に綴り、そして届けることなく、捨てることもできずに、ただ溜めて行くだけで、零れ落ちそうになる想いを何とかやり過ごそうとするのですが、初めて2人だけで何時間も過ごしてしまって、この身体は、いよいよ、この想いをもう、抱えきれなくなろうとしています。


 あなたが好きだと。



 どうしてこの唇は、そのわずか数秒の痛みに耐える道を選んでくれないのでしょうか。
 また、もう一度、あなたと2人で何時間も過ごしてみたいと願いながら。
 いえ、たとえその願いが叶ったとしても、あなたにはただ、何気ない1日を過ごしただけに過ぎないのでしょう。

 この想いが痛みに代わるのでしょうか。
 この想いがあなたを苦しめるかもしれない。そう思うと。


 いえ、あなたが同じ想いを持ちえないことが、私には………


 好きだという想いで満たされていたはずなのに。

 
 それだけでは満たされなくなる、この我儘な唇。
 
 
 私は、私を、どうしたいのでしょうか。
 





恋文 ②

「あら、アッサム」


 柔らかな秋の午後。夏の疲れを感じる木陰で整備科と情報処理部の子たちと、自動販売機のコーヒーを飲みながらおしゃべりしていると、ダージリンがゾロゾロと1年生たちを連れてやってきた。連れてというか、勝手について回っている様子。


「ダージリン。どうしましたか?」
「偶然通りかかっただけよ。そうだわ、アッサム。外に散歩にでもと思ったら、何だかたくさんついてきてしまったのだけれど、あなたも一緒に散歩しないかしら?」
「……それは、面倒を見て欲しいという意味ですか?」
「あら、そんな意図はありませんわ。楽しくお散歩しましょうと言う意味よ」

 ルクリリたち1年生をゾロゾロ10人程。歩いているだけで、勝手に磁石のように吸い付いてくるのだろう。ペコもローズヒップも、アッサムを見つけて、キラキラと獲物捕獲と言わんばかりに目を輝かせている。

「グリーンたちとコーヒーを飲んでいたところですが」
「あら、なおさらお口直しが必要ね。お散歩ついでに、美味しい紅茶を飲みに行くつもりだったのよ」
「………この人数で?」
「1人で散歩をするつもりではいたのよ?」

 そう言う割には、校門の外に出るには真逆のこの場所に、足を運んだのはなぜだろうか。くっついてきた人数が5人を超えた時点で、きっと道を変えてアッサムを探しに来たのだろう。面倒を半分引き取って欲しい、と。


「アッサム様もご一緒にお散歩ですわ~~!」
「はいはい、ローズヒップ。今、整備科とあなたのことを話していたところで……」
 クルセイダーに掛かる整備費用と、それをどうやって誤魔化すかを議題に、苦いコーヒーを味わっていたのだ。どうせなら、クルセイダー関係の1年生をここで離脱させるのも手かしら、と思ったが、ローズヒップは耳を塞ぐ振りをしているし、ルクリリは“まぁまぁ”と言いながら、アッサムの腕を引っ張って立たせようとする。

「こら、ちょっと」
「アッサム様もお散歩しましょうよ。せっかくダージリン様がここまで来たんですから」
「散歩に行けば、かえって疲れるわ」
「またまた~、可愛い後輩がこんなにも沢山いるんですよ~?ストレスも吹き飛びますって」
 髪に顔を埋めながら、ルクリリが小学生みたいな笑顔を向けてきた。よほど、午後からの訓練がなくなったことが嬉しいのだろう。昨日、ティーカップを割って始末書を書いた身分であるということも、なかったことにしているようだ。

「……まったく。公園でブランコにでも乗りたいの?」
「そんな、子供じゃあるまいし」
「子供の方がよっぽど可愛らしいわ」
「アッサム様、とは言いながらも私たちのこと可愛いって思ってくれているでしょう?」
「どうかしら?」

 ダージリンは、背中に抱き付いているローズヒップを甘やかすように、顎を指先でくすぐっている。喜ぶ犬を宥めている飼い主のようだ。

 とても機嫌がいいらしい。
 まだ、修繕費のリストを見ていないから、笑っていられるのだろう。


「いいわ、ルクリリ。付き合ってあげる」
「さすがです!」

 1秒でもその笑みの傍にいられるのなら、面倒事も喜んで引き受けてしまう。そんな自分がおかしい。飲み干せなかったコーヒーをそのまま置いて、片目をつぶってグリーンに詫びた。偽の修繕報告書については彼女に任せておくしかない。

「可愛い後輩のお願いの方が、アッサムには効くみたいね」
「ダージリンはわかっていて、引き連れてきたのでしょう?」
「あら、そんなことありませんわ」

 背中にしがみ付いて離れないローズヒップと言う大型犬。
 アッサムの背中にも離れないルクリリがいる。
 従順な子犬はじっと、見上げてくるだけ。

「………ただの散歩で済めばいいですけれど」

 どうせなら、1人の時に誘ってきてくだされば。
 飲み込んだ言葉が胸につかえて、痛みを覚えた。


  DEAR 大好きなあなた

 今日もあなたの笑顔を見られることができました。夏の香りが薄れようとする午後の日差しの中、のんびりと歩幅を合わせて歩く。その道が永遠に続けばいいと、そう思ってしまいます。それでも繰り返し動く歩みは、誰にも止められるはずもなく、出会いからもう2年以上が過ぎて行きましたね。
 過ぎ去っては二度と戻らない日々の中、あなたと2人だけで過ごす時間は、どれくらいあったでしょう。思い返してみても、あるようで、ほとんどなかったかもしれません。
 どれほどに傍にいても、あなたは少し遠い。いつも遠く何かを眺めているように見えてしまいます。でもそれは、そう思うことで、この胸の痛みを誤魔化したいだけなのでしょう。誤魔化しがきく程度ならば、まだ、ずっと想い続けても許されるのでしょうか。人は、恋と言う病で死なないという当たり前を、私が覆すわけにもいかないのでしょう。

 死ぬことができずとも、恋が消え、何事もなく、もっと、あなたの傍にいられるのなら。

 いえ、やはりそれでは、傍にいる意味すらも消えてしまいますね。この学校にいる意味すらも失われてしまうでしょう。
 
 毎日、あなたの顔を見るたびに、ただただ、好きと言う言葉を飲み込むのです。

 
 過剰摂取をして、毒にならなければよいのですが。



 


恋文 ①

「ローズヒップ」
『…………ひぃっ!!ごめんなさいですわ!もう、ドリフトしませんわ!』
「あら、ドリフトをしていたの?私はあなたの名前を呼んだだけよ?」


 少し低いダージリンの声。隊列の最後尾にいたはずのローズヒップ車が、方向転換のたびに勝手に速度を上げてドリフトをする。ばれていないと思っているのだろうか。エンジン音だけでわかるのに。3度までは見逃したものの、やはり、堪忍袋の緒が切れたようだ。アッサムは身体半分をハッチから出している、ダージリンの静かな怒りを背に感じながら、やれやれ、とため息を吐いた。見上げれば初夏の日差しと共に、鬼のような角の影も見えるかもしれない。訓練の後、隊長室で始まる説教を傍で聞かされるのは、もう慣れてしまっているけれど、何度反省文を書かせても、めげない性格が羨ましいとさえ思ってしまう。


『履帯の調子を確認していただけですわ!!』
「あらそうなの?昨日、新品に交換したばかりの履帯はドリフトした方が、より使いやすくなるのかしら?」
『うっ……えーっと、えーっと……土の状態によりますわね!』
「あらあら、そうなの?知らなかったわ」



 チャーチルの中に気まずい空気が流れて、ペコがいたたまれなくなって無線のヘッドフォンを耳から外した。助けてくれと言いたげな子犬のような視線が、アッサムに向かってくる。

 互いに、ただ、ため息を吐くだけだ。


「………あの馬鹿は」
「アッサム、あなたの指導はどうなっているのかしら?」
「申し訳ございません。訓練が終わり次第、首根っこ捕まえて隊長室に連れて行きますので」

 アッサムの教育担当は、聖グロの戦車道の隊員としての礼節やたしなみなどであり、戦車道そのものについては、すべてダージリンが背負っているはずなのだけれど、と言えるわけもない。世話を押し付け合っても、あるいはどれほど厳しい言葉を浴びせたとしても、素直に言うことを聞くのであれば、それはもう、クルセイダー部隊を率いるローズヒップではないかもしれない。

「申し訳ございません、ローズヒップが……」
「ペコ、あなたはいいのよ」
「はぁ……」

 ダージリンの優しい声も、眉をハの字にしたペコは受け止めきれないでいるようだ。

「困ったものね」
「ですが、ダージリンがあの子をクルセイダーの部隊長にしたのでしょう?」
「あら、反対しなかったアッサムに言われたくないわ」
「反対しましたよ、心の中で」
「あら?おかしいわね」

 わざとらしく、アッサムの黒いリボンのすぐそばまで近づいてくる。意地悪く、聞き耳を立てた仕草でもしているのだろう。わずかに感じる吐息。履帯のうるさい音に震える鼓膜は、いつも、ダージリンの吐息だけを聞き分けて、真っ直ぐにアッサムに届けてくれる。

 すぐ、そこにある唇。
 分かっているから、振り向くことなどできない。  


 心ではなく、本物の声が出てしまいそうになるから。


「…………あなたの心の声は、どうやら聞こえないみたいね」


 あなたが好きです。と。


 聞こえてしまうほど、彼女が繊細で敏感な人であれば。
 アッサムは何食わぬ顔をして、共にチャーチルに乗ることもできなくなるだろう。

「簡単に聞こえるような周波数ではありませんので」
「ペコにキャッチさせましょう」

 無線機で捕まえることができれば、戦車道全員にこの気持ちは全てさらされることになってしまう。いっそ、それも悪くないかもしれない。そうなってしまえば、背中はとても軽くなるだろう。開き直って、笑い話になるのならば、涙すら出る幕もない。

「……申し訳ございません、私がお2人の代わりに、ローズヒップの頭を殴っておきますので!」
「あら、ペコはアッサムの心をキャッチしてくれないの?残念だわ」
「ダージリン。軽口を言ってないで、そろそろ次の指示を」
 
 
 道は永遠に真っ直ぐ続いていないのだ。
 右でも左でもいいから、どちらでも方向を指示してもらわなければならない。


 どちらでもいい。
 正反対に走れば、道が消えてなくなっているとしても。

 届かぬ想いも。
 届けられない想いも。

「全車、隊列を組んだまま左へ」


 本当に、どちらでもいいだなんて欠片も思ってなどいないのに。




 DEAR 大好きなあなた

 届かぬ想いを毎日綴る、これはただの自己満足なのでしょう。
 この手紙が届くことはないからこそ、こうして、落ち着いて文字を綴ることができるのだと思います。
 あなたがとても大切にしている後輩たち。彼女たちを想う、その心根の優しさに触れるたびに、私はため息を吐くのです。このため息の色はどんな色なのでしょう。嫉妬?それとも、寂しさなのでしょうか。
こうして、文字を綴る静寂の波間に、自らの中にある答えと向き合わなければなりません。いえもう、呆れるほどの時間、向き合い続けているのです。
 本当は、十分にわかっていると言うのに、自らの心を誤魔化そうとする、そんな愚かな想いに引き摺られつつ。

 それでも、言葉になど出せぬ弱い私はまた、何食わぬ顔であなたと紅茶を飲みかわすのでしょうね。
                                  



ゆらぎ END

「シャワーを浴びて、気分を落ち着かせたらどう?」
「そうですわね。と言うか、少し出てきます」
「あら、どこへ?」
 着替えの制服や下着などを揃えて、なにやら鞄に詰め込んでいる。シャワーを浴びずにどこへ行くと言うのだろう。学生艦の中で家出でもするつもりなのかしら。
「スパに行って、すっきりさせますわ」
「あら、いいわね。私も行きたい」
 ジロリ、と睨まれたような気もしないでもないけれど、当たり散らすべき相手がダージリンではないと言うことを一応はわかっているのだろう。それでも、出来る限りわかりやすくため息を見せつけてくる。
「問題児が多すぎますわ」
「本当ね」



 …
 ………
 …………



「………まったくです」
 ほのかに残る紅茶の匂い。その髪を手に取って、唇を寄せる。すぐさま顔を押し返された。
「汚れている髪に触るなんて」
「気にしないわ」
「こっちが気にします。ダージリンも行くのなら、着替えを取りに行ってください」

 アッサムのプリプリしたお怒りは、もう少し続きそう。口調から十分な程に伝わる苛立ち。それでも、その声も嫌だと感じないのは、惚れた弱みだろうか。むしろ、そういう声のトーンも好きだって言ってしまいたくなる。言えば、口をきいてもらえないだろうから、言わないけれど。


 アッサムを助手席に座らせて、機嫌を取りながらスパに向かった。人の少ない時間、丁寧に髪を洗い、身体から紅茶の匂いを消したアッサムと、肩までお湯に浸かる。その頃にはお怒りも頂点から降下していて、気持ちよさそうに伸びをするほどだ。

「少し、怒りは治まった?」
「………えぇ、まぁ」
「そう?じゃぁ、どこかで美味しいものを食べて帰りましょう」
「そうですね」

 たっぷりの時間をかけてスパで怒りを身体から洗い流し、美味しい食事を取ればもう、何かに対してプリプリしていたことも、すっかり忘れてくれるだろう。と言うほど、アッサムの脳みそは単純明快ではないのだけれど、ダージリンが気を遣っているということをよくわかっているから、長引かせたりもしない。そのあたりは自惚れだけど、好かれているからだと想っている。アッサムのことはよくわかっている、……つもり。



「私は、コーヒーがいいのですが」
「………そう、私はいらないわ」
 アッサムの部屋で紅茶を飲みながら、イチャイチャしようと思っても、コーヒーの豆を挽き始めたので、その匂いに想像をかき消されてしまった。今日はもう、紅茶の匂いに飽き飽きしているのだろう。部屋は挽きたての豆の香りに包まれた。

「嫌でした?」
「いいわ。アッサムのお好きになさい。ここはあなたのお部屋よ」
 コーヒーカップに淹れられたコーヒーと、ダージリンのために淹れてくれたアッサムティー。香りはコーヒーの方が強い。それでも、隣にぴったりと身体をくっつけて座り、お互いに飲みたいものを飲んだ。アッサムの部屋にはテレビとオーディオはあるけれど、ダージリンがいるときにそれらが使われたこともないし、おそらく、ほとんどスイッチを入れられることもない。次の日の着替え以上の私物は、お互いの部屋に持ち込まないという、暗黙のルールはあるものの、自分の部屋にいるよりもはるかにこの部屋にいることの方が多いのだ。だから、アッサムがテレビを付ける暇などない。

「ねぇ、アッサム」
「何でしょう?」
「何か、お話しして」
「何をです?」
「私の耳元で何か、話してちょうだい」
「ですから、何をです?」
「何でもいいわ」


 言葉を交わさない時間を過ごすことは、苦ではない。互いに身体の一部をくっつけているものの、それぞれに本を読んだり、資料を読みふけったりして、互いの呼吸の音だけを心の寄る辺にして過ごしていることは多い。その空間は、とてつもなくダージリンを幸せにさせてくれる。


「何でもと言われましても、特に何も思いつきませんが」
「私のことを好きとか、私のこういうところがカッコイイとか、あるでしょう?」
「…………それを、黙って聞いていたいんですか?」
「えぇ」
「変わったご趣味ですわね」

 ぷいっとそっぽ向く頬は、コーヒーの湯気で赤く染まったものであるはずもない。そっと手の甲でさらりとした頬をなぞり、喉の奥に笑いを押し返す。

「あら、良い趣味だと思うわ」
「そうでしょうか?」
「それとも、私のことが嫌いとでも?」
「………本当、私の周りには問題児ばかりですわ」

 やれやれと吐かれたため息は、それはその気になってくれた合図かしら、と思いたいけれど、空のカップを置いて、アッサムはプイッとベッドにダイブしてしまった。

「ベッドの上で聞かせてくれるのかしら?」

 アッサムはよくわかっている。絶対に、ダージリンがめげないことを。

「何でも、と言うのでしたら、絵本でも読みましょうか?」
「あら、それも悪くないわね」


 打開案としては、悪くない。3匹の子豚なんて読まれたら、子豚の代わりに浮かぶメンツを想うと気が休まらないかもしれないが、流石にそれはないだろう。追いかけてベッドに腰を下ろし、アッサムの本棚を見上げてみる。どう考えても絵本なんて1冊もない。戦車道関係の資料や数学の問題集、歴史小説ばかり。
「持っているの、絵本?」
「検索すれば、出てきますよ」
「あぁ、それね」
 アッサムがいつも持ち歩いている電子書籍。サクサクと検索をして、何か読みたいものはあるかと聞かれたので、ピーターラビットがいいとリクエストした。

クッションを背にして、アッサムがくつろぐその足の間に身体を割り込ませて、洗い立ての髪をその胸に押し当ててみる。触れる体温が心地いい。こんな風に誰かに背を預けることはあまりない。無防備をさらせるのは、多分、これからもアッサムしかいないだろう。

「子供ですか、ダージリン」
「そうね」
「機嫌を取る立場が、いつの間にか入れ替わっていません?」
「細かいことは気にしないでちょうだい」


 ページをめくる紙の独特の、あのもどかしさなんていうものがない、あまりにもそっけないものには違いないけれど、そんなことを言えば、この電子書籍の角で頭を叩かれるのは想像に容易い。不満ではないと言っても、機嫌を損ねることくらいはわかっている。


「ねぇ、ほら。読んで」
「では、読みます」


 耳元で少し声のトーンを下げて、ゆっくりと文字を読み始めるアッサム。絵ではなく、その声の心地よさが身体を包み込んでゆく。時々思い出してはページをめくるように右の指先が端末をいじる。


 何も言わず、アッサムの声をじっと身体に染みわたらせる。


 怒っている声も、何事もなく普通に会話している声も、チャーチルの中での険しい声も、そして、こんな風にダージリンのために絵本を読む声も。すべてが心地いいと感じてしまうらしい。


「アッサム」
「はい?」
「あなた、α波を出しているのかしら?」
「……はい?」

 呼吸をするたびに、ダージリンの頭はかすかに動き、喉を通る空気が声になるすべてを感じながら、思わず目を閉じてしまいたくなった。ピーターラビットがどうなるか、なんていうことではなく、ただ、アッサムの声を聞くと言う目的だけしかなかったのだ。もう十分に満たされてしまっている。

「あなたの声は心地がいいのよ」
「………つまり、話の内容なんて興味がない、と」
「だって、何でもいいから話してと言って、困った顔を見せたのはアッサムでしょう?」
「…………うちの学生艦には、困った人しかいませんわね」
「あなたが悪いのよ、アッサム。心地の良い声を出すんだもの」



 肺を満たそうとする音。
 ドクドクと血液を送る心臓の音。
 時々揺れる、髪の流れる音。
 画面をタップする音。
 句読点があるたびに、小さくなる喉の音。
 そして、恋を囁くように読み聞かせる、その声。

 ダージリンの身体を穏やかな眠りに誘うような、アッサムのすべての音。


「怒鳴りましょうか?」
「無意味ね、だってあなたがローズヒップを叱る声ですら、私には心地がいいのよ」
「………本当、うちには問題児ばっかりですね」

 一応は読み終えていたタブレットを放り投げて、アッサムはダージリンの腰に腕を回した。華奢な身体。きっとそろそろ疲れてくるころ。それでもまだ、五感はアッサムを欲している。


「ローズヒップにも、そう思われているんでしょうか?」
「何を?」
「その……何度、怒鳴ってもめげないですし。全然、威力がないと思われているんでしょうか?」
「どうかしらね?あの子の場合は、無視される方がよっぽど堪えるでしょう。アッサムだってわかっているはずよ」
「それはまぁ、そうですが」
 ローズヒップもアッサムに怒られたところで、構ってもらっていると言うことは嬉しいと思っているはずだ。いつかは許してもらえると言う、絶対的な安心感のようなものが見えている。3日間の接近禁止の間、せいぜい寂しがって反省すれば御の字。4日目にはきっと、怒られたことなんて綺麗に忘れて、アッサムにしがみ付いているだろう。



 みんな、アッサムに引き寄せられているのかも知れない。



 声と、温度と、優しさに。



「アッサム、私の名前を呼んで」
「…………」
「アッサム」
「…………」
「アッサム?」

 見上げたら、不満げにとがらせている唇。まるでローズヒップのよう。声なんて、出してあげないという抗議のつもりだとしても、こんなにも身体が触れているのだ。そんなことは大したことではない。


「あら、アッサムは私に名前を呼ばれたい?」
「どうでしょうか?」
「いいわ。あなたにとっても安らぎは私なのね?」
「………問題児にも、程がありますわよ」
「あら、じゃぁ隣で眠るのは嫌かしら?」
「どうでしょうか?」


 まだまだ、眠るには早い時間。身体を回転させてアッサムに抱き付き、そっとクッションをその背から奪う。コーヒーのほのかな香りが残る唇。ダージリンと呼ぶ、甘い囁きを綴る唇。




「今度、ローズヒップが何かしでかしたら、徹底的に声を出さずに無視してみます」
「あの子、死ぬわよ?」
「反省のさせ方を変えなければ、何の成長にもつながりませんわ」
「それは、見るに耐えかねないかもしれないわね」
「………ダージリンが悪さをしたときも、そうしますわ」
「あらやだ、大変だわ」


 生命維持の源を断たれてしまえば、この学生艦は動かなくなってしまう。なんて脅しても、アッサムは知りませんとそっぽ向くだろう。

 そもそも、ダージリンはそこまで悪いことをしていないのに。


「良い子にしていてくださいね」
「当然よ」

 セーターの中に差し入れた右手の甲を抓られて、ダージリンは誤魔化す様にその身体にしがみ付いた。

「ダージリン!」
「………その怒った声、大好きよ」




 言うまでもなく、その後の1時間は口をきいてもらえなかった。




ゆらぎ ①

「あなたって言う子は、もぅ!何度同じことを言えばわかるの?!」


 正座したローズヒップが、シュンとした顔でアッサムの雷を受けている。とはいっても、身体がゴムでできているのか、雷を何度受けようとも、お叱りの1時間後にはヘラヘラ笑っているのがこの子の良いところ。もう、アッサムの激怒する声が本当は好きなのではないか、と疑ってしまうくらい。

「そんな反省しているフリをして見せても、無駄ですからね。あなたは今日から3日間、放課後は校内の落ち葉を掃いてなさい」

 唇を尖らせて、床を見つめて反省している姿を見せても、今日のアッサムはそんなかわいいアピールに動じない。紅茶を手にしたまま、はしたなく大笑いして、アッサムに盛大にカップごと、紅茶を飛ばしたのだ。退学にならないだけマシというもの。その様子を見ていて、なんとか笑いを堪えきった。少しでも笑ったら、同じように正座をさせられて、アッサムからの怒りの雷を受けていたことだろう。その場合、ダージリンの方が下手をすれば、雷は大きいかもしれない。

「でも、笑かしたのはルクリリですわ」
「ちょっと待て!笑いなんて取ってないって!」

 ローズヒップの半歩後ろ、自主的に正座をしているのは次期隊長のルクリリと、道連れにされているペコ。

「責任を人に押し付けるなんて、そう言う人は大嫌いだわ」
「アッサム様~~~お嫌いにならないで!!!」

 紅茶で濡れた髪に、染みたセーター。怒りをぶつけていないで、脱いで染み抜きをするとか、髪を洗いに行く方が先ではと言いたいところだけれど、まだ、教育的指導と言う雷は黒い雲を背負い、ゴロゴロと鳴っている。
 だから口を挟まず、その声を聞きながら、ダージリンはペースを乱すことなく、ただただ紅茶を味わっていた。

 アッサムのガミガミと怒る声。口調はキツイけれど、それでも全く嫌な気持ちにならない。怒られているのが自分ではないからなのだろうか。それとも、この風景が楽しいものだからだろうか。楽しいなんて言えば怒りの矛先は、やはりこちらにも来るだろう。

「アッサム様~~、何でもしますから、嫌いにならないでくださいませ~~」
「何でもするのなら、すぐに箒を持って掃除しに行きなさい」
「アッサム様~~~」

 正座からヨロヨロと立ち上がったローズヒップは、紅茶のしみ込んだ髪を気にしながら、プリプリしているアッサムに抱き付こうと両手を広げている。

「ルクリリ、止めて」
「あ、はいっ!」


「アッサム様ぁぁ~」


「こっちに来ないで!」
「うわぁぁ~!」


 ここからコントが始まるわね。心の中で拍手をしていると、想像通り、痺れた足のままのローズヒップとルクリリは、2人揃ってアッサムになだれ込んだ。ペコが“ジーザス”と言いたげに両手で目を隠しているすぐ傍、身体の小さな 3年生の先輩は、1年生2人に押しつぶされてゆく。


 わずかな埃が舞い、アッサムたちが床に倒れた鈍い音が絨毯に吸収されていった。

 最後の一口を飲み干して、心の中で幕が閉じるシーンを描いて小さく拍手している自分を想像する。


「アッサム、大丈夫?」
「アッサム様、ご無事ですか?」

 乗りかかってきた2人分の体重を支えきれず、見事に倒れ込んだアッサムの髪は濡れたまま床に広がっている。ペコがルクリリをどけて、ローズヒップを蹴飛ばして、アッサムに腕を伸ばした。

「…………ダージリン!優雅に紅茶を飲んでいる場合ですか?!」

 どこかで飛び火するかもしれない、とは思っていたけれど。倒れ込む後輩の責任まで持てないものなのだ。空になったティーカップを机に置いて、仕方がないと立ち上がった。

「ペコ、そちらの2人はお任せするわ。2人は3日間、アッサムに接近禁止。幹部席での食事も禁止、紅茶の園への入室も禁止。綺麗に落ち葉を掃いておいてね」
「了解です」


 ペコの目は、申し訳なさそうにアッサムの機嫌取りをよろしくと、見上げてきている。本当に子犬のようで愛らしくていい子だ。ルクリリがとばっちりだって喚いているけれど、連帯責任なのだから、文句を言う筋合いでもない。

「立てる?」
「まったく、ダージリンがもっと厳しく育てないから」
「1年生はアッサムに任せると言ったわ」
「それはそうですけれど!手に負えないことだってあります!」

 乱れた髪はまだ、紅茶の湿り気を残していて、セーターも同じように所々地図のように色が違っている。中のシャツまでシミができているかもしれない。そのことを口に出せば、心配する場所が違うってまた、お怒りで目が釣り上がるだろう。見てみたいものだけれど、接近禁止令がこっちにも出されかねない。それはダージリンの生命維持の観点において、回避すべきこと。

「だから、3日間は近づかせないわ」
「嫌ですわ~~~!」
「ちょっと黙ってください、ローズヒップ」

 団子状態の1年生を一瞥して、アッサムは乱れた髪を手櫛で梳く。スカートをパンパンと叩くと、怒りを背負ってティーラウンジを出て行こうとした。

「ペコ。じゃぁ、後はよろしくね」
「はい!」

 ダージリンはペコに手を振り、その濡れた髪を追いかけた。シャワーを浴びて服を着替える間の苛立ちに付き合ってあげないと。
 寮へと戻る途中、キャンディたちとすれ違ったが、みんなアッサムの紅茶に濡れた姿と怒りのオーラを見て、すぐに犯人を思いついたのだろう。知らんぷりしてなるべく視線を遠くへと逃がしていく。この様子の全部は、幕が上がってアンコールを見ている気分で、ダージリンには面白い。本当に、面白い。もちろんそんなことは口にしたりしない。


 それにしても、ローズヒップたちは羨ましい。こんな風に、アッサムをプリプリさせてしまうなんて。激怒する声を間近で聞けるなんて。


こいのいたみ

「すみません、先に失礼します」

 準決勝の前夜。戦車道隊員一同が食堂に集まり、栄養学部、家政科の協力の元、ふるまわれた食事。皆、緊張で何も喉を通らない様子の引きつった笑みだった。そんな中、『いつもと変わらない隊長』を演じきったダージリンの傍で、同じようにいつもと変わらない様子だったアッサム。

「わかったわ」

 半分ほど食事を残した副隊長は、丁寧に四つ角を整えてナプキンをたたんだ後、ダージリンの耳元で落ち着いた声で囁くと、椅子を引いて立ち上がった。誰よりも早く食堂を後にする。どこかに何か用事でもあるのだろうか。それが何なのか。あるいは誰かと会うのか。情報処理部も整備科も、一同が集まっているこの時間。黒いリボンの後姿が視界から消えてなくなるのを見守り、持っていたフォークをそっと置いた。





 それでも立ち上がらず、ペコが淹れてくれた紅茶をゆっくり飲み、後輩たちが食堂を後にするのを最後まで見送った。アッサムが先に出て行ってから随分と時間が経つ。隣の部屋をノックしてみたが、何の反応もしない。ガチャガチャとドアノブを鳴らしてみっともないことをせずに、昇ったばかりの階段を下りて、寮の周りを見渡してみた。陽が落ちて、ポツポツとある電灯が照らしているのは、石畳の凹凸だけだ。夏の始まり、ジワリと身体を包む湿気、どうやって海を渡り、腰を落ち着けたのかわからない虫の鳴き声。波の音の聞こえない、大きな学生艦の上。限られた場所の中、アッサムは、学生艦の中にいることだけは確かだ。

「………一体、どこへ行ったのかしら」


 寮生活を送る学生は、まだ、外出可能時間だ。だが、試合前日。偵察をさせないために、学校への出入り口は全て封鎖されて、監視カメラが作動している。それをかいくぐって出て行くなど、彼女はしないだろう。緊張を逃がすために散歩にでも行ってしまったのだろうか。

「まったく、こんなときまで1人で消えるのね」

 黒森峰との対決の前夜に、ダージリンを1人にさせるなんて。文句を言ってやらなければ。石畳を鳴らしながら、革靴の踵のリズムは彷徨うことなく、誘われるように戦車倉庫へと向かっていた。残り香も、髪の1本さえも落ちていないと言うのに、この方向にアッサムがいると信じている、その根拠など何もない。


 根拠があるとするのならば。
 それはただ、ダージリンが彼女を好きだから。


チャーチルの倉庫は扉が少しだけ開かれており、中から光が漏れていた。物音は聞こえてこない。アッサムはここで何をしているのだろうか。他の誰かと、などと考える無駄を排除して、身体が通るだけ扉を開き、黒森峰へと立ち向かう雄大な姿のチャーチルを見上げた。エンジンを入れていない戦車はただの鉄の塊。こんな大きな乗り物を、5人の女の子が動かし、砲撃をして、戦うだなんて。今更ながら不思議な伝統だ。
車長用ハッチが開かれている。いつもとは違い、手を付いてチャーチルによじ登り、覗き込んで見ると、直ぐ視界に入る、車長席に腰を下ろしている黒いリボン。紫かかった瞳が、ダージリンを見上げてきた。


「見つけたわ、アッサム」
「………ダージリン」

 いつもはダージリンが腰を下ろしている席に座っていたアッサムは、慌ててその場から離れようとするものだから。構わないと言おうとしたが、気まずそうに砲手席へとズレたアッサムを追いかけるように、スカートを抑えて狭いチャーチルの中に入った。


「すみません」
「何が?」
「………いえ。隊長の席に腰を下ろすなどして」
「そんなこと、気にしないわ」

 いつも見慣れた、定位置にある後姿。ブロンドの髪を束ねた黒いリボン。細い腕で砲塔を回し、身体をあちこちにぶつけながらも、いつもダージリンの指示に的確に対応し、歴代のチャーチルの砲手の中でも1人、撃破率が抜きんでている。もっと攻撃力の高い戦車に乗っていれば、アッサムは確実にノンナと肩を並べることができるだろう。どれだけ当てても当てても、チャーチルが倒せる相手には限りがある。その中でアッサムは、ここまで聖グロを引っ張って来てくれた。

「いつもの定位置ね。座りたかったのなら、替わりましょうか?」
「いえ、ダージリンがいるのなら、私はここが一番落ち着きますわ」
「そう」

 いつものように髪を指で掬ってみる。温かみも感じなければ、冷たいと感じることはない。それでもこの指先はその髪に触れたがる。昼には仄かな甘い香りがしたが、今はもう消えてしまっていた。


「3度目の黒森峰ね」
「………そうですね。去年と同じ、準決勝での対決です」
「2度、チャーチルはティーガーⅠに砲撃を跳ね返されたわ」
「はい」
「あなたは2度もあのティーガーⅠに接近して、砲撃をしたわね」
 ティーガーⅠに近づくことさえ、多くの学校はむずかしいのだ。ましてやフラッグ車自らが攻撃を仕掛けるなど。
「………撃破出来なければ、当たったところで意味などありません」


 もし、プラウダと同じレベルの重戦車だったのならば、聖グロは2連勝していただろう。いや、黒森峰を常勝校と言わせない程になっていたかも知れない。足りないのは、唯一、火力だけ。アッサムに最優秀砲手賞を取らせてあげられないのは、それはダージリンが悪いのだ。


「では、今年は撃破しましょう」
「………はい」


 腕を伸ばしても、触れることができるのはふわりとした、温度のないその髪だけ。互いに同じ方向で座り続ける限り、視界にはその髪と黒いリボンしか入らない。その肩が落ち込み、自らを責めていたとしても、その表情を見ることなど敵わない。


 そう言い訳をして、負けから視線を逸らしてきた。
 誰よりも、負ける瞬間を感じ、自らを静かに責める表情のすべてから。


「車長席の居心地はどうだったかしら?」
「………息苦しい席でした」
「あら、そうかしら?」
「えぇ。とても」


 制服姿という違和感を取り除けば、馴れた景色。感じる呼吸の音に合わせて、息を吸って、想いをその髪に吹きかけてみた。彼女の呼吸する肩の上下に合わせ、いつも砲撃の合図を取る。この場所は、この席から眺めるアッサムの後ろ姿は、ダージリンだけのもの。夏の戦いを、あと1度だけで終わらせられないのだ。アッサムにティーガーⅠを撃破させなければ、ダージリンの聖グロでの戦車道は終わることができない。


「緊張している?」
「いえ……それほど」
「あら、そうなの?」
「………えぇ。そう言うことにしておいてください」


 風も入らない、空調も効かない狭いチャーチルの中。じわりと胸の周りに感じる汗。指の間を流れて消えていくブロンドの髪。ゆっくりと薄闇の中、振り返ってくるアッサムの作られた笑み。その頬に触れたくても、腕は伸ばせない。


 伸ばせないのか、伸ばさないだけなのか。
 本当は、簡単に触れることができる距離なのに。


「ダージリン」
「なぁに?」
「あの…………いえ。暑いので、そろそろ出ませんか?」

 見上げてくる瞳は左右に揺れ、何かを隠すように喉が小さく鳴った。
飲み込んだ想いは、ダージリンに言えなかった言葉は、どんな思いなのだろうか。


「1人の時間を邪魔してしまったかしら?」
「いえ。私に用事があって探させてしまったのでしょうし」
「あぁ、いいのよ。ただ、アッサムの顔を見たかっただけだから。目的は達したわ」


 言葉にして、それは『とても好き』と同じ意味のようなものだと思い当たり、車内の温度を自分があげてしまったかのような錯覚に陥った。慌てて立ち上がり、先にチャーチルの外へと這い上がって間をあけた。その10秒後にアッサムも外に出てくる。

 とても自然に、2人でチャーチルを見上げた。明日のことを考えても、アッサムが確実に撃破出来るところまで、このチャーチルを連れて行くのがダージリンの使命だ。必ず、ティーガーⅠの傍まで近づいて見せる。


「あの、……ダージリン」
「なぁに?」

 肩が大きく上下する。いつも、トリガーを引くその緊張感を見てきたそれと同じもの。吸われた息を吐く動作の中、言葉は何かが詰まっているのか、ダージリンに何も届きそうにない。

「…………いえ、何も」
「そう?アッサム、よければお茶を飲みながら、もう一度最後に、一緒に地図を眺めたいのだけれど、どうかしら?」
 
 手を差し出せばいいのに。想いながらも、震える指先はかろうじてアッサムのセーターの袖口を掴み、引っ張るようにして車庫から出た。



 何か声を掛けて、あるいはゆっくりと見慣れた風景を眺めながら歩けばいいものを、袖を掴んでしまったせいで、歩くリズムの程よい加減がわからなくなってしまっている。どう考えても、慌てているような気がしてならない靴音に、ぴったりと合わせてきているアッサムが、不意に腕を取った。



「ダージリン。袖が、その、袖が伸びてしまいますから」
「……ごめんなさい」
「あの、嫌でなければ……手を」

 寮のすぐそばにある街灯の下。アッサムの冷たい指がダージリンの手の甲を握りしめてくる。ヒリヒリと痛みさえ覚える、その理由など出会ったころから知っている。想像はしていたけれど、本当に痛いものなのね、と少し笑いそうになった。手のひらを返して、柔らかな感触を確かめようと、包み込むように握りしめてみる。ダージリンの手の中にすっぽりと納まるアッサムの手。ヒリヒリとした痛みは、血管を通って全身を駆け巡る。それでもその痛みが心地いいと感じるのはなぜなのだろうか。ずっと、この手の中にアッサムの温度があればいいのにと口に出しそうになって、喉の奥に押しとどめた。


「アッサム?」
「な、何でしょうか?」
「寮まで、あと30歩ほどで辿り着いてしまうわね」
「そうですね」
「…………このまま玄関の扉を開けず、寮の前を通ってぐるりと練習場を歩くのも、悪くないと思うのだけれど」
「地図はよろしいんですの?」




「………少しは察しなさい、アッサム」




 ……
 …………
 ………………




「わかりました」



 街灯に照らされた瞳は、ダージリンを捉えて離さない。もしかして、私のことを好きなの?なんて言う言葉を口に出してしまいそうで、慌てて繋いだ手を引っ張り、寮の前を過ぎて歩く。



「ダージリン」
「なぁに?」
「………緊張をほぐしたかったのに………ズルいです」


 小刻みに震えているのは、ダージリンの指なのか、それともアッサムの指なのか。



「だったら、ほぐれるまで歩きましょう」
「はい」



 明日が終われば、否、夏の大会が終われば、今度はデートに誘ってみようかしら。そんなことを想像しながら、ぴったりとリズムを合わせて歩くアッサムの手をきつく握りしめた。


 明日がどんな一日になろうとも、すぐ傍にアッサムはいるのだ。
 手を握ることができるほど、温もりは、恋の痛みは、こんなにもすぐ傍に。





これにて、任務終了 END

午後の訓練は、1年生がいないので比較的穏やかに、そしてスムーズに行われた。アッサム様が戻られているだろう時間でも、無線から聞こえてくるダージリン様の声の様子に変化はない。大真面目に取り組んだ訓練が終わったのが17時。
 30分後に行われる報告会。ミーティングルームには資料を整えて、アッサム様たちが待っておられるはずだ。草むしりを終えて泥だらけの1年生たちが大急ぎでシャワーを浴びている間、戦車に乗らなかったダージリン様が一足先にミーティングルームへと向かわれる背中を見送った。誰も見ていないと思っておられるのだろう、盛大に靴音を立てて走っている。


「シナモン、お疲れ様」
「お疲れ様です、アッサム様」




 報告会が終わると、アッサム様が肩を叩いてきた。その背中には、べったりくっついて離れないローズヒップ。髪に顔を埋めたまま、離れる気配もなさそうだ。


「“全員”、良い子にしてくれていたかしら?」
「えぇ、まぁ。今年は割と良い子でしたよ」


 全員というか、アッサム様のそれは明らかに1人だけを指していて、シナモンはチラリとすぐ傍にいる一番の問題児へと視線を流した。

「そう。あなたがいてくれて助かるわ、シナモン」
「面白いから、放っておいて、見物しておきたい気持ちもあるんですけれど」
「冗談じゃなくて、学生艦が動かなくなるわ」
「そうでしょうね、本当に」


 クスクス2人で笑い合っていると、それが気に食わないと顔に張り付けたダージリン様が、近づいてこられた。

「ローズヒップ、いつまでも背中にくっついていないで、夕食に行きなさい」
「アッサム様と行きますわ!」

 脚まで絡ませて身体にまとわりついたローズヒップを、シナモンはまぁまぁ、と言いながら引き剥がしてあげる。たぶん、ローズヒップだけが気に食わないわけじゃない。カッコつきでシナモンも邪魔と言いたいのだろう。その空気は目で見るより明らか。


「ローズヒップ。草むしりをちゃんとこなしたご褒美に、私が美味しいハンバーガーを奢ってあげるわ。アッサム様はお疲れなんだから、今日はもう、解放してあげなさい」
「マジですの?!ノエルのハンバーガーですの?!」

 この子は、アッサム様よりハンバーガーらしい。ぱっと身体から離れたら、今度はシナモンに向かって両手を広げてきた。お腹が空いていることを満たす方が大事なのだろう。


「1年生たちをお願いね、シナモン」
「承知しました、ダージリン様」
「本当、面倒かけて悪いわね、シナモン」
「慣れていますよ、アッサム様」


 ローズヒップに乱された髪を、ダージリン様が丁寧に指で梳いていらっしゃる。このまま、お2人はそっと姿を消して、どこかにお食事に出かけるのだろう。仲睦まじく、久しぶりに2人が見つめ合い微笑む姿を見ると、やっとホッとため息を吐くことができる。

 ホッとしてしまうのだ。
 いつの間にか、そうなってしまっている自分がおかしいのかも知れない。

「お疲れ様、シナモン」
「グリーン。そっちはどうだった?」
「普通よ。アッサム様はダージリン様のために、ほとんど寝ずに情報収集をされていたわ」
「………相変わらずよね、あの2人」
 靴音を揃えてミーティングルームを出ていかれると、にぎやかなだけの1年生たちが、バタバタと片づけを始める。アッサム様が戻って来られただけで、みんな本当に嬉しそうだ。
「えぇ、本当に。1年生のお守り、手伝いましょうか?」
「あなたもノエルのハンバーガーを食べたいのでしょう?」

 お互いを労いながら、それでもまだあと数時間は、疲れる後輩たちを相手にしなければならないけれど、それなりに聞き分けのいい子たちが束になったくらいでは、ダージリン様には敵わない。


「試合に勝ちたいけれど、勝ち進めば、アッサム様の偵察日数がドンドン増えるから、困ったものだわ」
「まぁまぁ、シナモン。あなたが命綱なんだから」

 ダージリン様の命綱はアッサム様。



 だけど、1年のうち何日間かは、シナモンがこの聖グロ学生艦の運命を握ることがある。
 そのことを知っているのは、3年生たちだけだ。

 

これにて、任務終了 ①

「アッサ…………シナモン」
「何でしょうか、ダージリン様」


 あぁ、相変わらず。



 もう、何度も経験しているから、慣れたものだと身体は認識しているはずなのに、その様子を見た瞬間に、シナモンはため息を吐かずにいられない。

 アッサム様が、情報処理部のメンバーと共に学生艦を離れてから、2日目の午後。

「えっと、今日の射撃訓練の編成って、4部隊だったかしら?」
「午前中にもミーティングでお話した通り、2部隊です。ダージリン様がチーム分けをされたと、記憶していますが」
「………そうだったかしら?」

 1年生の時はソワソワしてイライラして、落ち着きがなくて、まるで、初めて幼稚園に預けられた3歳児の様だった。洗濯機も1人で使えないし、アールグレイお姉さまに言われた資料も揃えられないし、食事も喉を通らないし。今までどうやって生活していたのか、不思議な程のダメっぷりを発揮されて、バニラ様に玩具にされていた。オレンジペコ様と共に偵察から戻って来られたアッサム様は、憔悴しきったダージリン様にかなり呆れていらした。その時、まぁまぁと宥めたのはシナモンだ。


ダージリン様は、嵩森穂菜美は、中学時代は東日本のエースで、誰もが憧れ、誰もが目指した気高い人。今だって、多くの人の憧れを一進に受けている。
同じ中学だったシナモンは、いつも近くで彼女を観てきた。ダージリン様がアッサム様と出会って、蝶々が蜜を求めるようにひらひらと舞って、浮かれて踊るような姿を間近で見ていた。シナモンの知っているお高く留まった嵩森穂菜美は、まるで最初から存在していないかの様に。ご自分のために戦車道を突き進んでいるような人だったけれど、すっかり、アッサム様に魅了されて、傍にいるために戦車道をしていると、冗談じゃなくそんな風に見える。

 彼女たちは、クラスメイト達の目があろうとなかろうと、お構いなしの恋をしている。瞳が恋しいと鳴き、当たり前のように吸い付くように手を繋いで歩く姿は、1年生の頃、何度か見たことがある。もう、いちいち「付き合っているの?」なんてくだらない質問をする必要もないくらい。ただ、周りはいろんな想いの混じったため息を吐くだけだった。

 あの頃に比べたら、流石に3年生として重い責任を背負う立場になったわけだから、ずいぶんと落ち着きを持つようになったものだけれど、それでも、アッサム様が傍にいないダージリン様は、なかなか、巧く機能してくださらない。
旅立つ前日の夜、アッサム様から、ダージリン様をよろしくと頼まれて、クラスの皆もしっかりとサポートしていく約束を交わした。1,2年生たちに不安を与えないように、アッサム様がいなくても、きちんと計画した訓練をこなすようにするのが、シナモンに与えられた使命。


「計画書がここに。今一度、ご確認を」
「あぁ、そうね。そうだったわね。えっと、……そう。そうよね」

 パラパラと計画書を見直しておられるが、作る指示をされたのもダージリン様。とても頭のいいお方だから、一度見聞きしたことを忘れるなどありえない。ただし、例外として、アッサム様がお傍にいないと、残念なことにダージリン様はこうなってしまう。

「では、私はマチルダⅡ部隊に戻ります。ペコと司令塔に上がって、指示をお願いいたします」
「そうね、アッサムがいないものね」
「そうですよ。しっかりなさってください。くれぐれも後輩に不安を与えぬよう」

 ムッとされ睨みつけられても、アッサム様が傍にいないダージリン様は、ただのクラスメイトとそう変わらない。シナモンは中学の頃から、6年近く同じチームで戦車道を続けていたのだ。尊敬しているが、雲の上の人ではない。今は後輩の手前、ダージリン様とお呼びする立場でも、穂菜美ちゃんって呼んでいた頃だってある。

「えぇ、わかっていますわよ。アッサムがいないから、私はチャーチルに乗れないのでしょう?」
「ダージリン様が乗りたくないとおっしゃるから、チャーチルが動かせないんです」
「誰も砲塔を回す人間がいないのだから、乗る理由もないわ」
「……拗ねている場合ですか?」

 音を立てて隊長椅子から立ち上がったダージリン様は、シナモンに向かって唇を尖らせて見せてくる。取りあえず、なすべきことを思い出してくださったよう。

「きちんと働いてくださらないのなら、アッサム様とグリーン様に告げ口しますからね」

 扉を開けて、出て行こうとする背中。振り返り、ジロリとにらまれても、戦車に乗っていないダージリン様は、特に今のダージリン様はまったく恐怖を感じない。

「大丈夫よ、シナモン。私を誰だと思っているの?」

 だったら、計画書を読み直すことも、ぼんやりも、しないでもらいたい。

「ダージリン様です」

 なんて、口に出すことなく、肩をすくめてみせた。




「シナモン、今日の訓練の各車の撃破率をデータにして見たいわ」
「作成するように、キャンディに指示を出しています。情報処理部から上がってくるまで時間をください」
「アッサムなら5分よ」
「アッサム様でもグリーンでも、キャンディでも、かかる時間は同じです」


 ティータイムは、ルクリリたち1年生に囲まれて、いつもと変わらない様子をしっかりと演じておられた。むしろ、アッサム様がおられないことで、ローズヒップ達の方がソワソワして、ダージリン様に落ち着けと怒られるほど。それを見ていたシナモンたち3年生は、みんな背中を向けて笑うことを我慢している。それでも去年のように、苛立ってお茶会も開かずに隊長室で1人、籠って出てこなくなるということは、もうなさそうだ。にぎやかな1年生に囲まれてしまえば、それどころではないのだろう。


「ダージリン様~、アッサム様はお元気ですか?お手紙来ましたか?」
「ローズヒップ、アッサムは遠い国に行ったわけじゃないのよ。明日帰ってくるのだから」
「でも、捕虜にされてしまっているかもしれませんですわ~」
「そんなことあるわけないでしょう?それよりも、アッサムがいない間にカップをいくつ割るつもりかしら?まったく、たるんでいるわね。たかがアッサムがいないくらいで」


 3年生の誰かが、吹き出さないように口を両手でふさいでいる仕草が視界に入った。いつもはアッサム様が座る席に座らされているシナモンは、笑わないように、そっと自分の膝を抓って耐えて見せる。ここで笑ったら、めんどくさい感じで機嫌を悪くしてしまうだろう。

「早くアッサム様にお会いしたいですわ~。戻って来られたら、いっぱい頭を撫でてもらいますわ」
「ローズヒップは怒られるだろうな、カップ割ったし」
「ルクリリも割りましたわ!」
「ローズヒップが味方撃ちしてきたからだろう?!」
「目の前に飛び出すからですわ!」
「私は指示通りに動いただけ!」
「………2人とも、指示と逆方向でしたけれどね」
 アッサム様がいない間、ダージリン様と共に戦車に乗らないペコは、司令塔から戦車同士で喧嘩をしている仲間を見て、さぞハラハラしたに違いない。
でもお陰様というか。ローズヒップが、誰かさんよりも激しくアッサム様がいないことで慌てふためくものだから、何だかんだと言いながらも、1年生漫才トリオの前では、いつもの通りに背筋を伸ばしておられる。食欲も減退されてはいないようだ。夕食中も、1年生に振り回されて、ローズヒップとルクリリが訓練中にティーカップを割った報告書を読みながら、クドクドお説教しているお姿を見ることができた。アッサム様がお帰りになってから、面白い報告ができそうだ。





 3日目。早朝から始まる行進間射撃の訓練、隊列訓練、紅白戦と続き、さほど悪い動きでもなかったにもかかわらず、1年生にクドクドとお説教をして気を紛らわせているダージリン様の携帯電話が鳴った。

「あら、アッサムだわ」
「アッサム様からですの?!!!!!!」

 おそらく、予定通りの時間に学生艦に戻ると言う報告だろう。携帯電話を耳に押し当てて、いつも以上にくどい説教をされていた頬が、一瞬で緩んだ。

「アッサム様~~~!!!ご無事ですか??!!」
「こら、ローズヒップ!」
「馬鹿!今、怒られている真っ最中なのに!」

 久しぶりといっても、3日振り程度のアッサム様の声に喜んだのも一瞬、隊長机を挟んだ向こう側から携帯電話を取り上げたのはローズヒップだ。バニラもペコもとんでもない行動に出たローズヒップを捕まえようとするけれど、隊長室を走り回っている。


「寂しいっていう態度を出すのは、可愛いものですね」
「…………シナモン、笑っていないで捕まえなさい。大事な報告の電話よ」


 折角、頬が緩んだと言うのにダージリン様は。青筋を立てた笑顔はとても迫力がおありだ。
グリーンがいれば、上手に盗撮をしてくれたに違いない。心の中でシャッターを押して、4人に取り押さえられたローズヒップの頭を叩いて、使い古された携帯電話を取り戻した。

「アッサム様」
『あら、シナモン。ローズヒップが騒がしいのだけれど、大丈夫?』
「はい、大丈夫です。予定通りにお戻りで?」
『えぇ、そうね。15時半までには帰るわ。報告会の準備は私とグリーンで進めておくから』
「わかりました」
『ごめんね、面倒を任せて。ダージリンのお守り、あと少しお願いね』
「お任せを」
『じゃぁね』

 ダージリン様へお渡しするよりも先に、言うべきことは言ったと言う感じでアッサム様は電話を切ってしまわれた。話を聞いて電源を切った後、殺意の篭った視線が隊長机の向こうから矢のごとく飛んできたような、そんな気もしないわけでもない。

「予定通りだそうです」
「………そう。アッサムは、あなたに電話をしてきたわけではないはずだけれど」

 なぜ、替わってくれないのか。1年生たちがいる手前、シナモンに対しての不満を遠まわしというか、ダイレクトに聞いてきても、アッサム様は本当に、ただの報告をしたかっただけなのだろう。ダージリン様のお声が聞きたい、という感じでもなかった。あちらは限られた時間で走り回っていて、恋しいだの寂しいだのと感じているお暇はないはずだ。

「よろしく伝えておくようにと言われて、切られました」
「…………そう」

 恨めしい想いが、ローズヒップとシナモンを何度も往復して、手元に戻ってきた携帯電話の着信履歴を追いかけようかと、葛藤されている様子。


「ズルいですわ、シナモン様!アッサム様のお声、聞けませんでしたわ~!」
「ローズヒップ、あなた、自分が置かれている状況を分かっているの?これ以上、ダージリン様を怒らせると、夏の大会に出場させてもらえなくなるわよ?」
 
 ローズヒップたちを説教している真最中だったことを、すっかり忘れておられるダージリン様。携帯電話を握りしめて、誰を想われているのだか。

「ローズヒップ、バニラ、クランベリー、ペコもルクリリも。午後はずっと、草むしりをしてなさい」


“え~~!!!”

 初夏の日差しが厳しい午後。たまった鬱憤は、1年生たちにグラウンドの草を引っこ抜かせたところで、消えたりしないと言うのに。それでも、何か小さな復讐をせずにはいられなかったのだろう。

おとめごころ

チャーチルに乗る日は、念入りに髪を梳き、一本の後れ毛もないように、丁寧に髪をまとめる。150cmしかない小さな体には、必要以上に大きい三面鏡。目が痛くなるほど見上げて、腕が疲れるほど、何度も何度も髪を梳く。
 国産の高いブラシ。朝のシャワーの後、ブロー用から仕上げ用までいくつもとっかえひっかえ。部屋を出なければ遅刻ギリギリに鳴る携帯のタイマーに驚かされるまで、朝、割と多くの体力と気力を出し尽くして、アッサムは髪をセットする。

 仕上げに、ほんの僅かに香る程度のコロンを毛先に付けた。


「ごきげんよう、ダージリン」
「ごきげんよう、アッサム」


 いつも通りの朝のミーティングが終わり、タンクジャケットに着替える。
 ペコやルフナが先にそれぞれの席に着き、そのあと、アッサムが砲手席に座る。


 髪を手櫛で軽く整え、呼吸をひとつ置く。
 ダージリンが、アッサムの背後にある車長席に腰を下ろした。



「ペコ、美味しい紅茶を淹れてちょうだい」
「はい」

 隊列訓練が順調に始まると、周りのマチルダⅡの動きを確認しながら、ダージリンは落ち着いて紅茶を飲む。アッサムはその穏やかな空気を背中に感じながら、どんな指示がいつ来てもいいように、ティカップを受け取ったりはしない。
 喉が鳴る音に耳を澄ませ、呼吸する胸の上下を背中で感じ、同じ狭い空間にいることを、じっと味わっている。


「あら、アッサム。いい匂い」


 ダージリンは、アッサムの髪を指に絡め、戯れて時間を潰すことがある。訓練中や、試合の途中でも、じっとしていることに飽きた空気が彼女を包みだしたら、目の前の玩具を握りしめるのだ。

「新しく買ったコロンを少し」
「そうなの?」

 握りしめられた髪はきっと、ダージリンの鼻のすぐ傍まで引っ張られている。
 それくらい近づけないと、香りはわからないのだ。
 アッサムは振り返ったりしない。指の狭間を流れる髪。
 朝から、丁寧に丁寧に梳いて、ふわふわと流れやすくしておいた髪。
 触りたいと、思ってもらえるように。


 ダージリンが唯一、触れてくれるアッサムの身体の一部。


「この匂いも好きよ」
「そう、ですか」
「前のものも、とてもいい匂いだったわ」
「前も、いい匂いだとおっしゃっていましたものね」
「えぇ。相変わらず、髪も気持ちがいいわ」


 所定の位置への移動のわずかな間。
 それですら、暇を持て余したら、ダージリンは髪に触れてくる。


 わずかに小指が右の耳に触れて、息が止まったとしても。


 この大きなチャーチルが動き続ける限り、そんな些細なことに気づかれることはないだろう。
 

「アッサムの髪、好きよ」
「何度も聞いておりますわ」
「そうね」


 振り返ったりしない。
 どんな顔でその言葉を口にしているのか、想像もしない。
 軽く引っ張られた髪が、今、ダージリンのどこに触れているのか。


 どこに触れてもいいように、その手に取ってもらえるように。
 また、明日も、丁寧に髪を梳き、ほんの少しのコロンを毛先に付けるのだ。





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